第6章 昭和の秘巫女公子
古相寺の目に、旭子の立っていた東屋が虹色の球に包まれるのが見えた。
さらに七色の雨が横殴りに自分に叩き付けて来て驚くが、それは見た目は雨でも感触はない光だけのもので、その中を自分の体が勝手に突き進んでゆくのを感じる。
まるで自分が飛んでいるみたいや。
しかし、本当の自分はただ立っているだけの筈だ。まるで鮮やかな絵の具が勝手に自分の周囲にポタポタと色を塗りたくってゆきながら景色がどんどんと後退してゆくために、自分の方がすごい速度で前進していると感じるのだ。前方の虹色の球はというとずっと同じ距離のままで近くなる気配はない。
この状態はいつまで続くんだという疑問が繰り返し浮かんで来ると、鮮やかだった絵の具は色褪せ、ただ灰色に光る雨へと変わってくる。
やがて虹色の球も透き通っていき、再び東屋が見えてきた。
だが、そこには誰の姿もない。
えーと、うちは何してたんだっけと周囲を見渡した古相寺は、横に国民服姿の特務員たちが立っているのを見つけて自分たちがタイムトラベルしたのを思い出した。
急いでウェストポーチを開きコード端末機の表示を確かめると、NOW 1944Y 10M 15D 15:01 という時刻になっている。成功したんだわ。
古相寺はすぐにメッセージモードに切り替えて、壬生野充てに報告しようとする。しかし日本語変換がないのでローマ字で送るしかない。
to Mibuno Akane < ima tsuitayo!!! yoteidoori!!! zenzen heikiyatta!!!
送信してしばらく液晶を見ていたが、返事はすぐには来なかった。届く過程に時間がかかるのか、届いてから技術さんが文書にして壬生野に渡してくれるまで時間がかかるのだろう。
古相寺はコード端末機をしまうと、まるで居眠りしてるかのように俯いて立ってる白岩に歩み寄って声をかける。
「白岩さん、タイムトラベル、成功しはったみたいですねえ?」
白岩はハッと顔をあげて驚きの声を出した。
「おっ、ああ、古相寺か。そうか、そうか思い出したぞ、たしかわしたちはえーと」
白岩は頷いてみたものの自分たちの隊の名前が出て来ない。
古相寺が失笑する。
「ややわ、思い出してないやありまへんか、私たちは桜受のタイムダイバー隊です」
「おう、それそれ、それや。あんまり視界がぐるぐるどしたもんで目をつぶっててな、ちょいと度忘れしただけや」
白岩は照れ隠しに周りをキョロキョロして言う。
「皆、揃ってるようやな? 点呼を取るぞ、望月、無事か?」
「おう、手足もあれもついとるで」
「矢吹は?」
「ここにいてます」
「松丸」
「はい、無事です」
「で、古相寺もおるし全員揃っとるな。では早速、結社の奥殿に乗り込もうぞ」
意気込む白岩の腕を古相寺が引き留めた。
「待ってください。私たちは80年も時代を遡って来たんですよ。
当代の桜受家にはうちらの顔を見知った者は一人もおりません。皆様のようにむさ苦しい方々が徒党を組んで行けば、どこぞのヤクザが難癖を付けに来やはったと疑われるのが関の山です」
白岩が眉間に皺を立てた。
「な、なんだと、てめえ、たいがいにしとけよ」
「まあ落ち着いて下さい。もちろん私は皆様が桜受家の誇る選りすぐりの特務員と知ってますけど、こん時代の事務員や警備実動員にはそうは見えないですよね?」
「うん、まあな……」
「すると当代の秘巫女様が防御戦闘の式術を発動しはり、特務員も非番の者まで招集して総構えで繰り出して闘うなどという、身内同士が愚かで無益な殺生沙汰を起こす事になってしまいますよ。
ここは最初に私が一人で参内して当代秘巫女様に事情を細かく打ち明けて、特務員皆様の特別待遇を得たのちに紹介いたしますので、しぱらく東屋でおくつろぎ下さい」
古相寺が言葉巧みに落ち着かせると白岩がにやりと笑った。
「古相寺、おめえにしてはえらい賢くなったな?」
白岩に言われて古相寺はペロリと舌を出した。
「最初はこうしろと旭子様に教えられてきたので」
一同が笑い望月が言った。
「ほななきゃ古相寺にあんな口上が出来る筈ないわな」
○
桜受家の入り口は現代と同じ宝物庫にあった。
外側の木製扉は特に施錠はされておらず、内側に入れたが奥の部屋に進むと厳重な鉄扉になっている。
そこで古相寺は困ってしまった。現代は鉄扉のすぐ横の壁に暗証番号と指紋の認証装置があるのに、この太平洋戦争時代にはそのようなセキュリティー装置がないのだ。そればかりかインターホンすらない。
あるのは鉄扉に開いている鍵穴だけだ。
古相寺はとりあえず鉄扉を叩いてみた。
最初は単調に叩いてから大き目の鍵穴の暗い奥を覗いてみたり、耳を扉に押し付けて誰かが来る気配がしないか聞いてみたが、何の反応もない。
古相寺はさらにしばらく鉄扉を叩き続けてみたが、反応はなかった。
しまいには扉を叩きながら大声で叫んだ。
「緊急の用で来ました、私は桜受家の巫女の古相寺と申します。ここを開けて下さい」
「緊急の用で来ました、ここを開けて下さい。私は桜受家の巫女の古相寺と申します。緊急の用で参りました、開けて下さい」
「聞こえないのでおじゃりますか?」
言い方がおかしな京ことばになってくる。
「そんな筈あらしまへんわなあ? 建物の造りは知ってますよって。
わらわは桜受家の巫女、古相寺と申します。緊急の用で参りましたゆえ開けてたもれ」
とうとう古相寺もきれてしまう。
「聞こえぬのか、とっとと開けろっつうの、このおたんこなす」
古相寺がそこまで言うと扉の向こうから女性の声で咳払いがした。
「鍵は貴方が扉を五回叩いた時にお開けしましたよ」
古相寺は慌てて謝りながらドアについてる把手を引いた。しかし、びくとも動かない。
「申し訳ありません、て、ドアの把手がびくともしませんが」
すると声の主は冷たく言い返す。
「それぐらいの仕掛けを見破れひんとは、ほんに当家の者ですか?」
古相寺は愕然とした。
現代では暗証番号と指紋認証で簡単に入れるのが当たり前だったので、まさか入口にそれ以外の仕掛けがあるなどと思いもよらない。
「私の知ってる扉にはこういう仕掛けはなかったんです、教えてください」
「よう言わんわ」
「お願いします、本当に緊急の用なんです、開けて下さい」
「どのような用です?」
「大変な機密を含みますので秘巫女様に直接お話ししたいのです」
相手は冷たく言い放つ。
「開いてる扉も開けられないような身内が秘巫女様に直接談判しはりたいと?」
「仕掛けを見破れない点はお詫びいたします、どうかここを開けて下さい」
「そう言われても鍵は開いておると言うとるに」
「降参です、お姉様、開けて下さい」
すると鉄扉は動かないままなのに、なんと扉の左隣の壁がまるごと奥に引っ込んで隙間が広がった。
まさに意表を突く仕掛け、これでは鍵穴をどうにかすればと考えてるコソ泥は永久に中に入れない。
顔を覗かせた四十代の女性は紺色事務服に名札の布が縫い付けられてあって「酸漿」とある。ほおずきの鬼灯という当て字を思い出し古相寺はぞっとした。
「身内ならご存知かと思いますが、あんさんの懇願で秘密の鍵を開けてくれたのやから、潔白の申し開きと絶対に口外しない誓いをして頂きますよって」
「まさか……?」
古相寺はここであのタライの尋問を自分が受けるのかと青くなった。
「あのタライ責めですか?」
酸漿さんは表情を変えずに冷たく返した。
「それぐらいは知ってはりましたか、説明が省けました」
扉の内側の階段を降りると通路と事務室になっていて、奥の部屋からは早速頭にハチマキをした強面を先頭に三人の警備実働員が現れた。
「さあ、こちらへ」
酸漿さんに手を引かれて古相寺は警備実働員に引き渡される。
「なんでも当家の巫女と言いはりましてな、大変な機密を含む用で直々に秘巫女様に談判したいそうどすが、扉の仕掛けも知らへんのどすえ」
古相寺はもう逃げ出したかった。
そこで勝手ながら白岩に身代わりを頼もうと考えた。白岩はああ見えて漢気も備えている、きっと私の身代わりを引き受けてくれるだろう。
そんな計算を素早くして提案する。
「あの実は白岩という連れが外まで来ておりましてその者が尋問を受けるのが得意なのです。その者に代わってもらってよいでしょうか?」
「ふん、それが本当なら大方、特務員やな。特務員にそないな尻拭いをさせるのは卑怯やないかね?」
「そ、それは、人には得手不得手があるではないですか。お願いです、許してください、タライ責めは研修の時にぬるま湯でやっただけなんです。熱い油のタライなんて絶対に無理です、ひっくり返して引火して火傷で死んでしまいます」
「身内なら大丈夫やで。死ぬ手前で手加減したるさかい、さ、奥の部屋や」
三人の実働員に囲まれたまま入った十畳ほどの部屋は床がコンクリート打ちっ放しで中央にポツンと薄い座布団が置いてある。
古相寺はいかにも囚人が着そうなグレーの着物を渡されて隅っこを指で示される。そこには筵が吊るされただけの扉の小部屋がある。現代の研修の時はもっと立派なシャワー室になってた記憶があるのだが。
「あそこで着替えて来い。その変な服では火傷後に剥がすのが大変やでの」
「もう許してください。秘巫女様に会わなくても構いまへんから帰して下さい」
古相寺は泣きそうになりながら頼んだが冷たく却下される。
「そうはいくかいな。扉の秘密を知られたからには誓わせずに帰すわけにはいかへんで」
大事な端末機の入ったウェストポーチを外し灰色の着物に着替えた古相寺が戻ると、実働員二人が一斗缶からタライに油を注いでいるところだ。
「お前はそこ」
古相寺は部屋の中央に歩み寄り「正座だ」と命令される。
極度の不安に包まれながら座布団に正座した。
古相寺の両膝の外側に左右ひとつずつ、そして膝の前にひとつ、火の点いた蝋燭が立て置かれると、二人の実働員がタライを古相寺の頭に乗せる。
「さあしっかりタライを持てよ、こぼすと火傷するぞ」
古相寺は仕方なくタライを持ちながら文句を言う。
「ひどいです、身内なのに」
「本当に身内か調べるためのタライ責めやないか。お前の所属はどこや?」
「秘巫女様直属の巫女衆です」
「お前の顔は今日初めて見たぞ」
古相寺はでまかせを口にする。
「それは、わ、先代様に採用されてすぐに地方に派遣されまして、、その辺の特殊な事情も含めて当代の秘巫女様にお話ししたいのです、そもそもウソならわざわざ秘密結社の桜受家に尋ねて来る筈もないでしょう」
「それはどこぞのマタハリか川島芳子が賭けに出て来たのかもしれんしな。本当はお前は鬼畜米英のスパイで当家を篭絡し、わが国を分断しようという策略ではないのか?」
早くもタライを支える腕が疲れ始めて来たので早口で言う。
「そのような手間のかかる事を合理精神の米英がするとお思いですか? まさか大本営発表の大盛り改竄戦局報道を真実と思ってないでしょうね?」
実働員古相寺の刺激的発言には答えずに訊いてくる。
「さて。何かお前の身分を明かしだてるものはないのか?」
結社の有力者にはやんごとなき家から国宝級の宝物や叙位叙勲の標や証書を頂いてる者も多いが、古相寺個人には何もなかった。代わりにスマホの旭子様の凛々しい正装姿の動画を見せたらという考えが浮かんだ。
そこに映っている祭壇やご神鏡は明治時代の終わりに作り直されたというから今の時代と同じに違いない。だが、それを見せてスマホを取り上げられたら今後の活動に支障をきたすだろう。昭和時代ではもちろん基地局電波がないから通話やメールはできないが、テザリング機能で近くの仲間とテキストや画像を送るという使い方は可能な筈とレクチャーされている。そう考えると大事なスマホを見せるわけにはいかなかった。
古相寺は方向を変えて提案してみた。
「ならば桜受家で使う祝詞をそらで全て言えます」
「ふん、そんなもん、本が出てるでな、必死で覚えれば取り繕える」
「いえ、当家の祝詞は独特の発声を使ってますから巷の本とは違います」
「ほう、ではそうやな、五形の祓ひを聞かせてもらおうか?」
「謹請三元三行三妙加持 ひとにかかりなすおほかみとまをしまつるは
天八下魂命、天三降魂命、天合魂命、天八百日魂命、天八十万魂命、是の五柱神のつつしみて……」
そう宣っているうちにタライを押さえてる腕がぷるぷると震え始めた。
ううっ、もう腕が支えられない。そうなればタライは落下して中の油は蝋燭の火に引火して自分は炎に包まれて大火傷する。
「ああ、腕がもう、助けて」
古相寺が叫ぶといつの間にかタライの両脇に待機していた実働員がさっと手を伸ばして支えてくれた。
「正直に言わないとタライを離すぞ、お前はスパイだな?」
「違います、なんで私が」
古相寺が答える間にタライを支えてた実働員が手を離してしまう。
古相寺は必死でタライのバランスを取ろうとするが、タライは前に傾きかける。前には火の点いた蝋燭があるのに。
「あぁぁー」
古相寺が叫んだところで両脇の実働員が手を伸ばして支えてくれた。
「さ、正直に言えば許してやる、お前はスパイだな?」
古相寺は泣き出したいのをこらえながら否定する。
「違います、本当に私は秘巫女様の部下です」
「まだとぼけるか、それ離すぞ」
また実働員がタライから手を離してしまい、タライはゆっくりと前に傾いてゆく。古相寺は必死で立て直そうとするが、手に思うほどの力が入らない。
大火傷を覚悟しなければと考えが走った……。
「止めよ」
瞬間、背後から声が響くと、実働員が鷹が獲物を獲る神速でタライを支えた。タライから卵大の油が宙に飛び出し、それは前方の蝋燭をかすめて引火したまま床に着地した。
ただ油は古相寺の着物につながってないから火傷の心配はない。
振り向くとひと目で秘巫女とわかる女性が扉を開けたところに立っていた。古相寺も写真で見知っている昭和前半の桜受家秘巫女、公子である。年齢はまだ20代半ば。古相寺と5歳も違わない筈だが、落ち着き払った威厳をすでに身に纏っている。
タライは古相寺の頭から床に下ろされた。
「これはこれは秘巫女様」
実働員たちが頭を垂れる。
「このようなむさくるしいところへ、どうされたのです?」
「吾に会いたいという者、いかなる化け物かと確かめに来たのじゃ」
実働員の一人がかしこまった。
「お手を煩わせて申し訳ございません。これより口を割らせますので、ご見物下さい」
「もうよい、吾が親しく話すゆえ元の身なりにさせて最奥殿に参らせよ」
「えっ、これは通用扉の開け方も知らぬ、見え透いた嘘を吐く輩でございますぞ。秘巫女様に害をなすやもしれません」
「吾が心の底まで見通したゆえ心配無用じゃ。その者は害はなさん」
「しかし、誰も顔を知らぬ輩ですが……」
「吾がよいと言ったらよいのじゃ」
実働員は慌てて深く頭を垂れた。
「はっ、秘巫女様がそう仰せなら間違いありますまい」
○
古相寺はグレーとピンクのツートンカラーのスポーツウェアに戻って奥殿内の秘巫女の執務室に参内した。そこは現代より工事が進んでないためか地下6階が最下階になっていた。調度品は古相寺の時代とほぼ変わってないが、ただ電話は大正時代設定のドラマに出てくる木箱にベルふたつと小さなラッパがついたやつだ。
公子の衣装は旭子と同じように妃を思わせる鮮やかな装束の上にふわりとした羽衣をまとっている。
巫女が客用の蓋付きの湯飲みでお茶を出してくれて、古相寺は恐縮してしまう。
「よう、おいでやしたな」
「秘巫女様、助けて頂きありがとうございました、古相寺と申します」
公子は微笑を浮かべて頷いた。
「そなたの心にはここと同じ祭壇もご神鏡も映ってはりました。そしてアキコ様という秘巫女のお姿も見えはりました」
旭子様は読心能力に秀でているが、どうやらこの公子様は透視能力に秀でているようだ。いずれにせよ秘巫女になるぐらいの者は先天か修行かはおいて尋常ならざる能力をお持ちのようだ。
「はい、是非、公子様に旭子様の原爆投下阻止作戦にご理解賜り、ご援助頂いて成功させたく参りました」
「詳しく話してみなさい」
公子は扇を宙にもたげて促した。
古相寺は「はい」と答え、日本が太平洋戦争に敗れるという衝撃と古相寺たちがタイムトラベルして来たという衝撃を公子が受け止めてくれるよう願いながら打ち明けた。
「残念ながら米国はこの太平洋戦争で日本に勝ちそうな勢いにあります。そしてこれからどう賢明な手を打っても、もはや逆転することは難しいかと思われます」
「うむ。だいぶ押されてるという真相は各地の連絡員、特務員から聞いています」
「私のお仕えする旭子様は憂いております、このままこの国が悪い形で、敗けてしまう、ひどい負け方を憂えておいででして」
「ずいぶんとまわりくどい言い方をしはりますね」
古相寺は慌てて頭を下げた。
「秘巫女様を驚ろかすつもりはないのですが、歴史というもの、専門家は世界線という言い方をしますが、やがて科学の力でさかのぼることができます。実は私は四人の特務員と共に80年先の未来の桜受家から来たのです」
さすがの公子もしばし目を開き口も開いたまま息を止めた。
「残念ながら私の使っていた歴史の教科書には日本が昭和20年8月に太平洋戦争に敗けたと書いてあるのです」
公子はようやく言葉を発した。
「ふむ……、つまりこういうことか、そなたの主の旭子さんは80年先の未来のここの秘巫女なのだな?」
「その通りです。
日本に勝ったアメリカ合衆国はイギリスに代わり世界一の強大国になります。
そして極秘に先進技術タイムマシンという時間旅行の機械を開発したのです。旭子様はせめて悲惨すぎる戦争の負け方だけでも変更すべく、特務員にその設計図を盗み出すよう命令して見事成功し、私たちを『桜受のタイムダイバー隊』と名付けて、時間旅行の機械を使ってこの昭和時代に派遣したのです」
すると公子は古相寺をじっと見詰めて言った。
「今、そなたの頭の中に大きなキノコのような雲が見えるが……」
古相寺は公子様の透視能力に改めて驚いた。
「はい、それは歴史の教科書で私が一番衝撃的だった写真なんです。雲は新型爆弾の爆風が起こした巨大なものです。原子爆弾と言って、たった一発で広島の街が全て吹き飛び焼け野原となりました」
「なんじゃと………」
公子が扇を持つ手に震わせた。
「はい、それほどすさまじい威力なのです。米国は日本に早く降伏させるためあえて広島の街を一発の爆弾で吹き飛ばしたのです。さらに念を入れ、その三日後には長崎の街も全て吹き飛び焼け野原とされたのです」
「それで、その街の被害は? 民たちは避難出来たのであろうな?」
「そこなのでございます。広島も長崎も民は何の警告もされず避難できないまま両市併せて最終的には20万人を超える一般市民が亡くなりました、いえこれから亡くなってしまうのですが」
「なんという、鬼畜米英め、武士の風上にもおけぬ、外道の極みじゃ」
「はい、旭子様の怒りもはなはだ激しく、なんとしてもタイムマシンで歴史に先回りして無辜なる民を救ってこいとのご命令で私どもが派遣された次第です」
公子は大きく何度も頷いた。
「さすがは吾が後継者じゃな、吾は今知ったばかりが、吾もタイムマシンとやらを手に入れる算段をし、まったく同じ思いで同じことを立案実行するであろう。
大儀じゃろうが、そなたたち、是非に頼むぞ」
「はいっ、そのお言葉、旭子様も恐悦至極に存じることでしょう」
古相寺は何度も手のひらに書いて暗記した四字熟語がうまく言えると安堵しながら深々と頭を垂れた。
「となれば、『桜受のタイムダイバー隊』だったな、吾はいかにそなたたちに手助けすればよいのじゃ?」
「はい、四人の特務員を海軍に入れてください。まず白岩という者は書類上で海軍参謀本部の大佐にしてください。矢吹と望月の二人は水上偵察機の乗員。そしてもう一人松丸は海軍省の艦隊司令通信部に入れてほしいのです」
「平時はさすがに難しいが、今は戦時ゆえ異動や補充は頻繁で現地なら怪しまれる事も少ないだろう。海軍じゃな」
「はい、それで一応私の時代にあるもので基礎訓練をしましたが、実物で慣れておきたいので白岩、矢吹、望月の三名は伊号潜水艦や水上偵察機の訓練に参加させてください」
「承知した。わが桜受家では陸海軍に特務員と連絡員が何名も潜入しておる。命令書類の偽造や訓練艦艇への名簿を用意するよう手配しよう」
「はい、あてにしておりました、ありがとうございます」
「それで伊号潜水艦を使ってその新型爆弾を阻止するのだな?」
「はい、新型爆弾は米国の本土から巡洋艦で飛行場のある島に運ばれます。日本軍の制空権、制海権はもはや希薄ですので、単独で巡洋艦を撃沈できるのは潜水艦しかないだろうという作戦です」
「うむ、難儀そうじゃな」
公子は古相寺の服をじろじろと見た。
「それで古相寺と申したな、そなたはどうするつもりか?」
「はい、とりあえずは海軍省の近くの喫茶店などで働きながら連絡や調整をするつもりでおります」
「そうか……いや、たしか、海軍省は今年の初めに帝都都心から神奈川日吉とかいう田舎にある慶應義塾校舎に疎開を始めたと聞いたぞ。そのような場所に洒落た茶店があるかどうかはわからぬが」
「そうなんですか? でも慶應の前なら何かお店があるでしょう、そこを拠点にします」
「では決まれば近くの桜受の連絡員にも知らせるように手配しよう」
古相寺は頭を下げた。
「ありがとうございます。それと公子様は表の天子様への伝手はお持ちでしょうか?」
公子は顎の前で小さく扇を振った。
「もちろんいくつか伝手はあるが、何をするつもりじゃ?」
「失礼ながら今の軍部主導の政権がこの後もなかなか降伏しない気配があります。今後の歴史では我が国はいったん降伏したのちに米国の指導を受けて世界が驚くほどの素晴らしい復興を遂げます。
ですからなるべく早く、出来れば新型爆弾を落とされる前に降伏をした方が国のためになります。それを表の天子様に申し上げて軍人や政治家の言い分にとらわれず一刻も早く降伏を決断されるよう注進いたしたいのです」
古相寺が言うと公子は扇を傾けゆっくり開いた。
「なるほどな」
扇が開くと描かれた模様の紅葉がさーと広がり黒蒔絵塗りの牛車が現れ、それはまた折りたたまれて紅葉に消えてゆく。
「しかし、裏の天子様を支え申し上げておる吾の立場ではその手引きをする事はいささか思案せねばならぬな。
表はなんといっても御維新の折、我らが天子様が恐れ多くもお隠れ遊ばされた折に、どこぞの田舎武者にすり替えて居座ったと今や一部の民からも非難されておるほどじゃ。それがゆえ表側は裏の我らに対してハリネズミの如き心持ちと聞く。
そこへ裏の者が早う降伏せよなどと申せば、あらぬ警戒をいたして却って意固地になり針を立てて事態が膠着するやもしれぬ。
そう考えてみると吾が関わったと知られない方がよいかもしれぬ。
うむ、古相寺、ここはそなたの知恵でなんとかつないでもらい、わが桜受の名は耳に入れずに説得申し上げるのがよかろう」
扇はたたまれて公子の手の内に収まった。桜受家の実質的な主である秘巫女にそう言われては古相寺は承服するしかない。
「かしこまりました。そのようにいたします」
「うむ。兎にも角にも旭子さんの作戦がうまくゆくよう吾も力を尽くそう。早速、そなたの連れて来た特務員も中に呼びなさい。もろもろ手筈を整えるまで、しばらくゆるりと客間に滞在するがよい。このご時世、外世間にあってはろくな物も食べられぬでな」
「はい、ありがとうございます、お言葉に甘えさせて頂きます」
どうやら木の根とすいとんはまだ食せずにすみそうな古相寺であった。