プロローグ 第1章 桜受家の秘巫女旭子
原爆投下を阻止して無辜なる民を救え!
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そういう事情なのでここではプロローグから第9章までを公開とさせていただきます。
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プロローグ
京都の南、とある神社の境内と隣接地にまたがる広大な敷地に地下要塞がある。その存在は一般に知られる事はなく報道も絶対されない。ヒントを請われるなら、歴史に詳しければ八咫烏という言葉を耳にした事があるだろう。
紀元前二百年頃、徐福は秦の始皇帝に不死の霊薬を探しますと言葉巧みに皇帝に欠けている物で心を釣り動かし三千名の若い男女と軍隊を乗せた大船団を連ねて出雲を侵略しかけて息子を残し撤退し、九州に侵攻した。だが徐福は、磐石や草木にまで言葉を喋らせる大倭日高見国のスメラミコトの偉大なる霊力の前に、恭順して権力をゆっくりと頂こうと決心した。
古事記日本書紀の伝える神武東征の場面に描かれるのは神武軍を先導したとされる金鵄烏だが、もちろん神話の修飾であって実際には三つの古代氏族である。それはスサノオから伝わる神刀布都御魂をもたらした高倉下の物部氏、出雲から磯城登美家を経て大和に入ってた賀茂氏、同じく出雲から大和に入ってた三輪氏であった。
八咫烏の姿がより明確になったのは、聖武天皇の時代に藤原家に対抗するために組織が制定された時であり、天皇の駕籠を担いだり葬儀を行う八瀬童子という実働部隊もあった。さらに八咫烏ではいざ天皇に危害が及びそうな場合には寺社を使って安全に奈良吉野まで逃がすルートが決められていた。
その後、八咫烏はその秘密組織を維持するために独立した家を持たせず全ての構成員を結社の直属として代々継承させた。また南北朝時代に朝廷が分裂した時には八咫烏の組織も南北に分かれてそれぞれの朝廷に仕え、戦国時代でも天子様を守り抜く事が出来たのだ。
だが、江戸幕府後期になって幕府や朝廷が陰陽道や祭祀儀礼を軽視するようになると八咫烏は経済的な裏付けを失い勢いに陰りが見え、明治維新で薩長や英米の勢力が権力を事実上奪取すると表立った動きが出来なくなり、地下の秘密結社としてしか生きる術がなくなった。
当然のことながら八咫烏は極めて閉鎖的な社会を営んでいたわけだが、近親婚ばかりでは組織が廃れてしまうから、地方に分家を分散して新たな血を取り込む事も行われた。こうして明治までに本家筋六家と地方分家筋六家合わせて十二家に分かれて南北朝の財産を運用し、その利益で会社を設立運営し、国家の殖産興業を手伝ってきた。
さらに太平洋戦争に入ると、防空壕を掘るという大義名分も得て八咫烏は地下に大きな住居を構えるようになった。さらに本土決戦の様相を見せるに至って、それは国体護持のゲリラ基地として大規模化、地下要塞化したのであった。
京都の南にあるのは本家筋のひとつ南朝派桜受家で、古の天皇から桜の苗を賜ったのを機に家名を変えたものだ。当主は代々棒頭と名乗る男が継いでいた。当主が八咫烏の棒頭であることには表向き間違いないが、実際の指図は常人の及ばない霊力を持った秘巫女と呼ばれる巫女頭にお伺いを立てるのが古くからの掟で、結局、どこの八咫烏結社でも権力は秘巫女が握っているという点が共通している。
桜受家当代の秘巫女は旭子という四十代後半の、しかし外見はもっと若く三十歳そこそこに見える美しい女性である。
○
初夏のある日、事情通に裏天皇と呼ばれる裏の天子様に定期的なお目通りをするため旭子は平安の女房装束のような鮮やかな着物を重ねて着てトヨタセンチュリーの後部座席に乗っていた。センチュリーはエンブレムが鳳凰になっていて皇室御料車としても有名だが、旭子の車は鳳凰を八咫烏に変更した特注車だ。もっとも旭子のセンチュリーが走っているのは地上ではない。八咫烏が京都などの重要地域の地下15メートルに通している極秘の地下道路だ。両脇には地上と同じような店や事務所の入ったビルか、単に地盤を支えるだけのコンクリートの立方体が並んでいる。
そこでは道路の天井にLED照明がついているのはもちろんのこと、ところどころで内側を鏡面加工された太いパイプが地上の建物屋上から降りて来て天井に開口していて、そこから太陽光がシャワーのように注いでいる。地下の住人はその下のベンチでくつろぐことで、心を癒され必要なビタミンやセロトニンを補充できる、いわば光の小さな公園が備えられているのだ。
地下道を進んでゆくと幅20メートルもある鉄製の扉がついたビルが見えてきた。広さはドーム球場ぐらいあるだろう。旭子の運転手がパッシングすると脇のドアから、自動小銃を構えた特殊装備の警備員が三人現れて周囲を警戒してから運転手と旭子の顔を確かめる。
「何の御用でありますか?」
「桜受家の秘巫女様です。非礼の無きよう願います」
「はっ、確認いたしました、お通り下さい」
鉄の扉はそのままの形でビルの上部に吸い込まれて、旭子の車は通路に入った。
「いらっしゃいませ」
旭子が車から降りると、その衣装の艶やかさが際立ち、迎える女中達がうっとりと微笑んだ。
十二単衣ではさすがに動きにくいが、衣の枚数は五枚で、一番上が手鞠の柄をあしらった橙の表衣で、その下に黄色、竹色、空色、朱色の装束を重ねている。頭には金細工の冠を被り、さらにその上に金銀の七夕飾り状のものが乗っている。胸には翡翠色の勾玉を連ねた首飾りがさがり、手には鮮やかな緋色の扇を持っている。
旭子が昼のお座しの間に入ると大きな窓から太陽光が差し込んでいる。もちろんこれは地下街の辻を照らすのと同じ鏡面パイプによって運ばれたものだ。
裏の天子様は長さが4メートルもある大きな座卓にノートを広げて勉強をされている。歳は小学校四年で髪は肩で切り揃えたおかっぱ頭、額の左七分でピンで留めている。白いブラウスに紺色のカーデガン、膝丈のスカートも紺色だ。裏の天子様には三つ上の兄もいるが、地祇結社の輝子さんが命運を透視して妹が天子様に選出されたのだ。ただまだ天子の名乗りが出来る情勢でもないため、宮様と呼ばれている。
お付きの者が「宮様、桜受の巫女様がお見えですよ」と知らせると、天子様はにっこりとして挨拶した。
「あ、桜受の旭子おばさま、ごきげんよう」
「ごきげんようございますな、宿題ですか」
「はい、そうなのです」
天子様はそこで旭子に質問してきた。
「九九なのですが、私は気付いたのです。例えば七三、七四を覚えようとすると、ひっくり返した三七、四七と同じ答えではないですか」
「そうですね」
「ですから頭の中で三七、四七の答えを呼び出せばよいですから、後半の九九は覚えなくてもよいことになりませんか?」
天子様の工夫しようという思いつきに旭子は微笑んだ。
「その通りですが、ひっくり返すのは頭の中で余計な手間が入ってきます。頭の中で手間をするよりそのまま覚えた方が速いようですよ」
「そうですか。私は覚える事がすごく多いので、九九は半分休めるかと思いましたが、旭子おばさまがそう言うなら全部覚えます」
「それがようございます。確かに宮様はご学友の方より儀式やら知識やら覚える事が多くて大変かとは存じますが」
「そうだ、私、ひふみは覚えましたよ。ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわね、そをたはくめか、うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ」
小さな手で三、五、七の拍子を打って唱える天子様の可愛いひふみ祝詞に旭子は二度三度と頷いて申し上げた。
「お上手です。満点を差し上げます」
「ありがとう。満点を頂くと嬉しいです」
屈託のない天子様の笑顔であった。
天子様の御座所から下がると侍従長と例によって状勢分析の意見を交わす。八咫烏地祇系結社の会議の方針に沿って常に準備はしているが、表の天子様がなんらかの理由で突然に裏に譲ると言い出せば急いでマスコミにイメージ告知を流しつつ、反対を唱える評論家や輩を黙らせ、つつがなく裏の天子様即位を進めねばならない。なにしろ表の天子様には明治維新の際の重い貸しがあるのだから裏としてはこれ以上譲れない。
そんないつものやりとりを話し込んでから、駐車場に戻ると、隣にもセンチュリーの八咫烏エンブレムが停まっている。
旭子が近付くと後部のガラス窓が静かに降りて、同じ地祇系結社の秘巫女である輝子が微笑みかけて来た。
「旭子はん、ご苦労様です」
「輝子はん、これからお目通りですか?」
「いえ、旭子はんと世間話しようかと待っておったんです、どうぞお乗り下さい」
ドアが開くと旭子は輝子の隣に座った。輝子も見た目は旭子と同じ三十歳ぐらいに見えるが実際の年齢はもっと上という噂もある。衣装も旭子に似た女房装束の五枚重ねで、冠から下がった透明や青や赤の玉のすだれが愛らしい。
「いつもお世話になってます」
「こちらこそ。世間話と誘ってみたものの自分の座所を地下要塞にしてますので、外に飲みに出歩くわけでもない世間知らず、困りますねえ」
「吾も似たようなものですからな。時に輝子はんはお酒は召し上がりますの?」
「私のを飲むなどと言ったら日本中の酒豪から叱られそうな。三日に一度ワインやらブランデーの香りの好いものをグラス一杯といったところです」
「はあ、それは毎晩寝酒を頂いてる吾よりも少ないようです」
「酔い潰れては霊能力に障りますから。お酒の味がちゃんとわかるんは最初の数口ですから、メーカーさんがヤクルトサイズで出してくれはったらええのに思いますわ」
輝子の真面目なぼやきに旭子は苦笑した。
「うふふ、それではメーカーはんも、飲み屋はんも悲鳴ですわな」
輝子はそこで嬉しそうににっこりした。これは苦手な話題で相手から笑いを取れたからなのだが、そこで本題を切り出した。
「話は替わりますが旭子はん、もしタイムマシンがあったら何に使いたいですか?」
輝子の突然の問いに旭子は虚を突かれたが、それは単に想定外ということだけであって、子供の頃にSF特集の雑誌を読んだ時に既に考えたことがある。
「吾はタイムマシンがあったら、絶対にすることがありますが、それは地祇系トップの輝子さんにも軽々しくは教えられまへん」
輝子は嬉しそうに「わかりました」と断定し微笑んだ。
「そう言わはる旭子はんはタイムマシンが実際に可能だと考えておられるということです。普通の方はハナから信じてないから無責任なことをいろいろ言わはる。
そやけど旭子はんはタイムマシンがいつか本当に使えると信じておられるから軽々しく口にしない。それは素晴らしい心がけやと感心しましたわ」
旭子は輝子の意識に米国のものらしい機密文書が浮かんでいるのを読み取った。
「なるほど、どうやらただの世間話ではないようですな。こちらも覚悟して伺いますのでお願いいたします」
輝子は遠い彼方を眺めたまま話し出した。
「私はとある国の蔭の勢力と親交があります。よく世間で噂するなんちゃらハンドラーを顎で使い命令する人たちです。あ、親交といっても心許せるものではないのですよ。私が要塞に籠っているのは7割がたはその奴らのためですから」
旭子は輝子がそうやって日本のために火の粉を被ってくれているのだと感じた。
「弥栄のお勤めありがとうございます」
「いや、旭子さんもそうです。うちらは結婚も禁じられて地下に籠る因果な仕事。上の神社で参拝客がエゴの願い事祈ってるのを聞くと時々、こらあと怒鳴りたくなります」
輝子の表情が一瞬リアルに怒ったものになったので、旭子は苦笑した。
「ええ、ようくわかります」
「とにかく、その蔭の勢力がどうやらタイムマシンを開発したようなんです。巷のネット情報にあったジョン・タイターが使ったマシンのリバースエンジニアリングらしいです。私が知ったのは、ほら子供は気に入ったおもちゃを自慢したがりますからね、私が透視できるかもしれないという情報は知ってる筈なのですが、面と向かい合っても蔭の勢力の者たちにはその危険性がわからへんかったようです。彼らには想像力が決定的に不足してはります」
「それはそれは。役得というてええのやら」
「ええ。ただ問題はさすがに私の配下が米国国防総省の施設に忍び込もうとしたら、私への容疑が一発で固まります。さすがにそれは堪忍です。
私とは無関係な、どこぞのエージェントが設計図を盗み出してくれたええのになあ、あ、これはぼやきが洩れました。今の話は忘れてくださって結構ですよ」
輝子の意識に設計図の場所が記されたメモがはっきり浮かび、それを旭子はそっと呑み込んだ。
「今日は輝子はんのお酒の話が聞けて楽しうございました。失礼いたします」
旭子は自分の車に乗り込むと手帳に暗号を使って住所を書き留めた。
第1章 桜受家おうけけの秘巫女ひみこ旭子あきこ
桜受家の地下最下層三十階には秘巫女の仕事場である祈祷広間があった。中央に白木で組まれた大きな階段があり上からは光が差し込んでくる。それは地上にある普通のビルの屋上から暖炉の煙突のように地下深くまで伸びている光の通路があり、鏡を屈折する工夫で万が一の敵の侵入を避けながら届けられた太陽の光なのだ。その光を浴びて階段の中腹には大きなご神鏡が輝いている。
その広間の左側には彩やかな屏風絵の貼られた襖で仕切られた十五畳ほどの部屋があり天子様の御座所とされていた。また右側には障子で仕切られたやはり十五畳ほどの部屋があり秘巫女の通常の居室になっている。
そこへ突然、
「旭子さま~」
部下の巫女二人、壬生野と古相寺が擦り足で足音を消すのも忘れて板敷の広間をパタパタと駆け寄って来ると旭子は眉間に皺を寄せて叱った。
「なんです、神前ですよ、二人揃ってお行儀が悪い」
巫女たちは肩で息をしながら報告する。
「申し訳ありません。しかし一大事なのです」
「三本がすごい情報を入手したのです」
この桜受家で三本というのは八咫烏の足から名付けられた現場実動員及び特務員を指す綽名だ。もちろん今やこの地下最下層までネット回線網に接続しているが、特務員からの報告は暗号帳を用いてアナログ電話で送られて来るため、壬生野と古相寺はベルで呼び出され送話管のある部屋まで移動し地下二階の連絡係から報告を聞いてきたところだ。
旭子が「一大事?」と緊張した声で尋ねる。
巫女服にはミスマッチな筈の茶縁の眼鏡が妙に似合う壬生野が説明する。
「はい、C205型重力歪曲時間転移装置の搭乗コード端末の設計図が手に入ったのです」
旭子は一瞬、あっと口を開き、喜びがエンドルフィンと共に上昇するのを感じた。
三年前、神祇結社の秘巫女である輝子から情報を貰って、米国に潜入させていた特務員に図面や機械を盗むように指示を出していた。それから二年かかってなんとかタイムマシンC205型本体の設計図をコピーして盗むことに成功したのだ。
C205型は伝説のジョン・タイターの使ったマシンC204型重力歪曲時間転移装置の改良型であり形として箱型を踏襲しており、機械本体は桜受家上の神社境内の庭に物置小屋に偽装して完成していた。
ところがそれだけではタイムマシンは動かなかった。欠けていたのがタイムマシンへの搭乗コード端末である。旧型機では特異エリアに入れば誰でも転送できたり、また搭乗者を見失うという欠点があったため、新型機では宇宙のどこにいても遅延なく量子コンピューターと同期できる搭乗コード端末により搭乗員を管理するように改修されていたのである。
「それはそれは、よくぞ成し遂げましたね。しかし、一大事というのは天子様に何かある、または何かあった時に使う言葉ですよ、きちんと使い方をわきまえなさい」
「はい、旭子様」
壬生野が勢いよく頭を下げた。
「それで三本は無事なの?」
訊かれて今度は背の高い古相寺が答えた。
「はい、逃げる時に腕を骨折して銃弾二発を腹部に受けましたが高度医療回復装置で回復できる傷です」
「感状を書いてあげましょうかね」
「ええ、きっと彼、喜びます」
「貴方たちもチョコレートでお祝いしましょう」
旭子の声に壬生野が声を上げる。
「やったぁ、あの苦くないのでお願いします」
セキュリティーの観点から地上との自由頻繁な往来は出来ない。それを許してたら菓子を買うため巫女たちが入れ替わり立ち替わり地上のコンビニ等に出入りして結社の存在が露見してしまうのは明白だからだ。そのため地下では日持ちの悪いケーキ類は滅多に食べられない。その代わり保存の効く袋菓子やチョコレートは各種集まって来る。
巫女の壬生野が苦くないのと言ったのは、ストイックな旭子が松果体の覚醒維持のためにカカオ95%のチョコばかりストックしてるのを知っているからだ。
「これからが大変です。三本の精鋭をタイムマシンで送り込まなければなりません。優秀な特務員のリストを見せてもらいますよ」
旭子が次々と口にチョコレートを運んでいる巫女たちに指示を出した。
そこでいつもタイムトラベルしたいと言ってた壬生野が売り込んだ。
「私ならケネディー大統領の演説会場に行ったり暗殺された現場に行き、真実を報告出来ます。旭子様、現場で特務員の連絡調整するためにも私の派遣が必要かと思います」
なにしろ学生時代は毎日図書館で歴史書に没頭していたという壬生野はその頃からタイムマシンが出来たらジョン・F・ケネディーに会いに行きたいというのが口癖だった。
しかし旭子の返事は冷たい。
「当時の写真を分析するとどうやら未来から取材に来た人間が既に映り込んでいるようです。しかし、私はそんな観光目的に特務員や貴方を送るつもりはありません」
「か、観光だなんて」
「ちょっと言い過ぎましたね。しかしもっと大事な事案があるのです」
壬生野がしょげ返ると古相寺が聞き返した。
「前にもタイムマシンができたら何を目的にされるかお聞きした時、まだ秘密とお答えになりました。でももう教えていただかなくてはなりません、その目的に合う人選をしなければならないわけですし」
旭子はひとつ息を吸うと、遠い向こうを直視する目になった。
「私はあの戦争を許せないのです。
戦争である以上民間人も少しは巻き込まれる事もあります。しかし、戦時中にあってもあの原爆によって穏やかに暮らしていた民、悪の道に足を一歩も踏み入れた事もない、なんの罪もない、無辜なる二十万余の民が一瞬にして生命を断ち切られたのです」
旭子は原爆病院にいる被爆者の意識を読んでみたことがあった。当日は朝7時9分に空襲警報があったがまもなく解除されいつもと変わりない日常を過ごしていた。多くが卓袱台を囲んでの朝食、もしくはそれが終わった頃合いで家族で笑い合う声もあった。
と、突然、まばゆい閃光が差し込み、それから突風の衝撃が引き戸や壁を粉々にして吹き飛ばした。たまたま奥の台所に立っていた女性はつぶれた家屋から這い出した。卓袱台を囲んでいた家族は火傷は部分的だったもののすでに息をしてなかった。
「このような事……、許されると思いますか?」
旭子が赤く染まった顔で憤怒をぶつけてくると、巫女達は恐れおののいた。
「旭子様の仰る通りです」
旭子は扇子を握り怒りを堪えるとそっと溜め息を吐いてがらりと口調を整えて巫女達に問いかけた。
「嘆かわしいのは最近、広島の原爆が米軍が投下したのではなく、地上爆破したのだと言い出す輩がおるようじゃ」
古相寺は旭子の顔色を伺いながら頷いた。
「私もツィッターで読みました。地上で起爆されたという事は日本軍がやったという事のようなんですが、あり得るのでしょうか?」
旭子は流し目で古相寺を見据えた。
「米軍にはちゃんとした開発と投下の膨大な記録があるのに、なぜそんな自虐的な邪論を唱えるのか非常に不思議ですね。
トルーマン大統領はポツダム宣言草案から天皇の地位保全条項を削ったのです。日本がすぐ降伏すると原爆投下のチャンスが失われるからでしょう。ポツダム宣言前の7月25日に原爆投下命令書を発していて落としたい意欲満々だったようです」
古相寺は念のために聞く。
「ただ姫路で紫電改を受け取ったパイロットが通りかかりB29は見えずに地上で爆発したように見えたと証言しているようなのです」
「その時の飛行機の高度は何メートルですか?」
「さあ、それは書いてなかったかも」
「B29は記録機測定機も含め3機でやって来て1万メートル近い高さから投下すると、とにかく離れなければと急いで逃げた筈です。そのつもりで高い空を見張らないと見つからないでしょう。原爆は投下から45秒後、高度6百メートルで爆発ですから、高度3千から5千メートルぐらいから見たら地上で爆発したように見えたのでしょう」
今度は壬生野が尋ねる。
「あと堤防にクレーターのような跡があり爆発の証拠だと言い張る方もいるようですが」
「広島は中州に出来た町ですから洪水に遭いやすい町です。そこで堤防は城の側を高く堅固にして町民の側はわざと低く崩れやすくして、いざという時に洪水が町民側に行くようにしてたらしいです。戦争前の写真にも低い堤防の内側に水が入ってる写真がありましたよ」
古相寺が怒った。
「そんなあ、ひどいです」
「殿様なんてその程度の者が多かったのでしょう」
旭子は自身の考えを明かした。
「いずれにしろ、明治以降の天皇家が渡来系であったとしても日本人を虐殺出来ると思いますか? もしそれがバレたら国民が怒って竹槍で襲い掛かって来ますよ。
開発して断念した科学者もいましたが、もしそれが日本人虐殺に使われたら発狂してしまいますよ。
香港在住の著者の本も目を通しましたが開発途上の一時期の説を確定したものと推理を組み立ててるようです。結論としてこの説は外国による分断工作でしょうね」
そこで旭子は口調を変えた。
「さてタイムマシンをどう使ったらよいとお前達は考えます?」
古相寺が考えながら口を開く。
「つまり過去に行って原爆を止めるために行動するということですよね。ならば原爆を開発した科学者に非人道的だと訴えて手を引かせるのはどうですか?」
「うーん、当時の米国では、日本人は憎まれ、収容所に送られてる状況ですから、米国内で日本人が開発者たちに調略工作するのは難しいでしょう」
「ではアメリカ合衆国で一番の権力を持った者に心変わりさせるのはどうですか……」
壬生野の問いかけに旭子は答える。
「権力というものは利権や利害が絡み合ってますからね、原爆に関する決定を覆すのはなかなか簡単ではなさそうね」
古相寺が尋ねる。
「では逆に日本が先に原爆を開発したら逆転できませんか?」
「日本には物資がないから、ウランがある程度まとまった量が必要ですし、他にも遠心分離機など高度な技術が必要ですから、難しそうね。ドイツからUボートでウランを運ぼうとした計画も実行されたが途中で撃沈されてしまったと聞きます」
「旭子様には何か策がおありですか?」
古相寺が聞くと旭子は小さく息を吐いた。
「いいえ。本体の設計図を手に入れた時から考えてますが、まだ、これという策はありません。歴史記録を紐解いて、そこから使えるものがないか知恵を絞っているところですが、伊号第58潜水艦をどう動かしてもBー29の出撃基地のあるテニヤン島に到着する前にインディアナポリスを撃沈させることは出来ぬようなのです」
古相寺は「見せて下さい」と言って旭子の大型タブレットを手に取った。
「インディアナポリスというのは何です?」
壬生野が尋ねると旭子は頷く。
「米国の重巡洋艦で、原爆の部品を西海岸からテニヤンという日本攻撃の拠点に運んだのです。これが荷揚げする前に撃沈できれば原爆投下は大きく遅れる筈です」
「なるほど」
「史実ではテニヤンに原爆を荷揚げした後、マニラに向かうインディアナポリスを7月30日に伊号第58潜水艦が撃沈したのですが、これを荷揚げ前までに早める事が出来なさそうなのです」
するとしばらくタブレットであれこれ検索していた古相寺が、突然、自分は天才だと言わんばかりに「わかったー」と叫んだ。
「じゃあ別の潜水艦に攻撃させればよいのです」
「近くに動員出来る潜水艦などないですよ」
「ほら、ここ。1月に伊号第12潜水艦が沈没してます。これを使うのです」
旭子が溜め息を吐いて言った。
「あなた、おバカね、沈んだ潜水艦を引き揚げるのにどれほど資材と人員がいると思ってるのですか?」
「ですから事前に特務員が乗り込んで撃沈されないように一旦引き上げるんです」
「戦争中の潜水艦は滅多に浮上しないものらしいからうまく出来るかしらね」
「きっと通信のタイミングがありますよ。そこで水上偵察機で特務員を浮上地点に運んで参謀将校として乗り込ませインディアナポリス撃沈の極秘任務を発令するのです」
古相寺が自説をぶち上げると旭子も「ほお」と言って目を輝かせた。
慌てて壬生野が問題点を指摘する。
「待って下さい、撃沈は7月なんですから半年も後ですよ」
「たっぷり訓練が出来ます」
壬生野が突っ込む。
「それまでの燃料や食料はどうするつもり?」
「燃料は近くに昭和の桜受家の特務員や連絡員がいるかもしれません。食料は魚を釣れば良いでしょう」
「魚を釣ればって、あんたねえ、ゲームじゃないのよ」
壬生野の困惑に古相寺が両こぶしを握りしめて言う。
「私達の特務員を信じましょう」
そこで旭子が古相寺に質問する。
「その後はどうするつもり?」
「えっ、その後……ですか?」
古相寺の目が泳いだ。
「一回阻止したとしても、米国の資源は莫大ですからいずれまた原爆を作って投下しようとするでしょう。次は警備も厳重となり同じ攻撃は難しくなりますよ」
「そうですね、どうしましょう?」
古相寺が途方に暮れると旭子が言った。
「表の天子様たる裕仁様に今回はわが桜受家の働きで原爆を止めたが次は阻止できないぞ。一刻も早く降伏せよと説得すればよいのです」
「なるほど、さすがは旭子様です。壬生野も張り切るでしょう」
「いえ、この作戦はお前のひらめきが冴えておったので、お前が参内して裕仁様に説得申し上げてきなさい」
古相寺は一瞬、眩暈がした。
「わ、私は現場に向いてません。いつも目立たぬように、出来れば旭子様の後ろに隠れていたいタイプなのです。朝は低血圧気味ですし現場なんてとてもとても。格闘訓練も殆ど受けてませんし」
「お前に潜水艦に乗れというわけではないから大丈夫です」
「だって戻れないかもしれませんよ。そしたら知らない人ばかりの世界で死んでしまうかもしれません。そんなの嫌です」
「ふ、中学生みたいなこと言わないの」
旭子は古相寺を笑い飛ばした。
「明日の午後までに作戦に投入できる特務員のリストをまとめておいてください。現在潜入中でも重要でないCランク以下の作戦なら呼び戻して参加させる前提でリストをお願いしますよ」
古相寺は(待って下さい)(私は向いてません)(説得するなんて無理です)と盛んに反論を並べ立てるが、旭子は天井から流れる琴の音のボリュームを上げて取り合わなかった。