第四話 模型の中に
だん、と地面に叩きつけられ、わずかに跳ねる。
「はぐっ!?」
落下は三メートルほど。柔らかい地面で、体重の軽いアトラとはいえ、骨が折れなかったことはかなりの幸運であった。
ばささ、と鳥が飛び去っていく気配がある。
けたたましく鳴く鶏の声。アトラはまだもんどりうっている。
「いったああぁ……あ、ぐぐ……、な、何が?」
そして気付く、昼日中の強烈な陽射しに。
「えっ!?」
はっと身を起こす。まだ節々が痛いながらも見渡せば、そこには湿った土の匂いと、かぐわしい緑の匂い。
中天に浮かぶ太陽。それはアトラが始めて見るものだ。バターライダーではあそこまで高く陽が昇ることはない。
「こ、ここって」
古びた簡素な小屋。さらさらと流れる小川、いくつもの畝が作られ、しっとりと濡れるような黒土をたたえた畑。いくつか、ウサギの耳のように菜っ葉が突き出している。
「まっ……まさか、模型の中!?」
驚きの直後、そこはやはりアトラの幼さか純粋さのためか、強烈な喜の感情が吹き上がる。跳ぶように跳ねて森へと向かう。
「すげえええ! 川がある! 森も!」
針葉樹の多いバターライダーと違い、ひろびろと枝葉を広げた広葉樹である。葉は黒に近いほど青々としており、木陰は濃いレース模様を描く。
はた、と足を止める。
地面に深い溝が掘られているのだ。何かと思って近づけば、ごんと鼻をぶつける。
「痛っ!? なんだこれ!?」
透明な壁である。森に分け入って20歩ほどのところに壁がある。手で触れると熱くも冷たくもない。
「ここって……そうか、模型はここまでしか無かったな」
その向こうはずっと森になっているようで、不思議なことに風だけはふわりと流れてくるように思える。見れば小川もそうだ。壁を突き抜けて流れている。
「変なの」
しかし今は疑問より興味が勝った。さらに走って畑に戻ると、三羽の鶏があわてふためいて逃げるところだ。
「うおお、待てー!」
普段のアトラならやらない子供っぽい行動ではあったが、アトラは鶏を追いかけ、意味もなく持ち上げては空中に放る。鶏はバタバタと羽根をはためいて着地し、また逃げる。
「すげえ……立派な畑だし、鶏もいるし、これ、もしかして野菜とか食えるのか?」
善は急げとばかり、アトラは畑に植わっていた野菜を引き抜く、立派なニンジンと芋が取れた。
川の水で泥を落とし、躊躇なくかぶりつく。
「にっが! あ、でも食えるぞ! これ茹でたら普通にうまくなるやつ!」
芋の方はジャガイモであり、さすがに生では食べなかったが、どっさりと大量に実っているそれを、泥まみれになりながら引き抜く。一つの株に十以上、アトラの拳より大きな大粒の芋が実っていた。バターライダーではまずお目にかかれない大きさだ。
「すごい! あそこの小屋に台所あるかな!? 煙突があるからカマドあるよな、よしちょっと茹でて」
と、そこでふと立ち止まる。
夢中になって色々やっていたが、そういえば自分は元の場所に戻れるのだろうか、という疑問だ。
「えーっと……あのあたりから落ちてきたんだよな」
小石を投げてみる。果たして、石は空を突き抜けて消えた。
「見えないけど穴があるんだな、よし、どっかで台を……」
それはすぐ見つかった。小屋の裏手に梯子が置いてあったのだ。地面に穴を掘り、梯子を埋めて何度も踏み固める。
「よし、ひとまずこんなもんだろ。あとでちゃんと固定しよう」
小屋の裏には藁もあった。念のため、自分の形がしっかり残っていた地点に大量の藁を積んでおく。足から落ちる分にはこれで大丈夫と思えたが、まだ不安は残る。
「うーん、藁じゃ心配だな。家から布団でも持ってこようか、でも一枚しかないし……」
と、そこで小屋を見る。
小さな扉と、その脇にあるカンテラが眼に入った。
「……」
小屋の中に何かあるだろうか。
ほとんど無意識ではあったが、小屋の探索は最後にしようという意識が働いていた。理由はアトラにも説明できない。無意識的に小屋を怖がったのかも知れぬが、当人は否定するだろう。
「……ま、まさか、人がいたりしないよな」
いたとしたら自分は泥棒になってしまう。それに自分に対して友好的な人物とも限らない。昔話にあるような一つ目の巨人でも住んでいたら、などとその平屋を見て思う。
「か、確認は、しないと」
なんとなく小石を握りしめ、小屋に向かう。
木戸に鍵はかかっていない。
入ってみるが誰の気配もない。家具と言えるのは大きめのテーブルのみ、せいぜい言ってカマドと、その横の水がめぐらいだ。
水は入っていない。何だか中途半端な印象がある。
採光の木窓を押し開けると、外の強い日差しが入ってきてホコリがきらきらと光る。
「……誰もいない」
少しほっとして、部屋を調べる。
といっても戸棚も物入れもなく、調べるものもないかと思われた。
だが。
「これは……」
それは部屋の隅。アトラがすっぽり入れそうな大ぶりな水がめの下にあった。動かして発見したが、小さな扉がある。
「物入れ……じゃ、ないよな。地下室だ、これ」
開けてみるとハシゴが見えて、石壁が四面にある縦穴になっている。
「……こ、怖くないぞ。調べないと」
アトラは小屋の入り口にあったカンテラを取ってきて、カマドのわきの火打ち石で火をつける。竜銀を使えば楽だが、アトラの家計にそんな余裕はない。
カンテラを腰にくくりつけ、縦穴をゆっくりと下っていく。
「クイッカが言ってたな……どっかの鉱夫の話。縦穴には酸素がないことがあって、だから火を顔より下にして、酸素があるか確認しながら降りるって……」
やがてハシゴは終わり、開けた部屋に降りる。
そこはやたらと広い空間だった。地上の小屋がすっぽり収まるほどもある。床も壁も白っぽい石で覆われていて、組み石の跡も見えない。
「これ、モルタルかなあ。それとも少し違うような……」
カンテラの光を高く掲げ、遠くに視線を投げる。
誰かが。
「っ!」
心臓が掴まれるような恐怖。
それは白かった。アトラが降りてきた場所から対角線上、部屋の反対側の隅に座している。
「……い、行くんだ。歩け、アトラ……」
勇気を振り絞って歩く。
それはやはり人のようだ。全身が真っ白に思えたが、どうやら防寒着のような厚着をしているらしい。部屋の角に背中をおさめ、手足をだらんと投げ出して座っている。
「し、死んでる、のかな……」
やがて数メートルの距離まで近づく。暗がりにはアトラとその人物だけ。そしてアトラも、その体に生命の火が無いことを感じ取っていた。濃密な死の静寂、際限ない虚無のささやき。
このような地の底で、なぜ死んでいるのか。
その人物は頭をフードのようなもので覆っており、顔の前面が透明な板で覆われていた。鍛冶屋が使う火の粉よけの面にも見える。
「……あ、あの、たぶん死んでると思うけど、確認するよ。突然、動いたりすんなよ……」
アトラは横から近づき、まずその被り物を脱がそうとした。しかし首に継ぎ目などなく、引っ張っただけでは脱げない。
「……?」
よく見れば、その人物の服は一切の継ぎ目がなかった。靴から膝にかけて、そして腰、胸、腕に至るまで白い厚手の生地で覆われており、首にのみチョーカーのような黒い線が見えるが、外し方が分からない。
「……うう、な、なんだよこの服。模型の中は暑いぐらいだったのに、なんでこんな厚着……」
だが、せめて生死だけは確認せねばならない。アトラの中で義務感のようなものが恐怖を上回っていた。
アトラは怯えながらもカンテラの光を、その奇妙な半透明の面当てに向ける。
そこには。
木の皮のごとく干からびた、骨と皮ばかりの人物が。
「……!」
大きく退く。そして体幹を乱して尻餅をついた。
心臓が早鐘を打っていた。
兵士になることを望み、戦地に憧れながらも、祖父の死を言葉では聞きながらも、アトラ自身は人の死に触れたことは初めてだった。その形容しがたい圧倒的な存在感。本能に訴えかける根元的な恐怖。
そして、アトラは気付いた。
祖父の残した言葉の、本当の意味を。
「神様……」
それはアトラと、彼の属する世界を塗り替えて行く、大いなる運命の開闢であった。
「ガラスの中の、神様……」