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第十七話 竜銀の筆記者


回廊はやがて下りの階段となり、湿ったかび臭い空間となる。空気はわずかに奥側に流れ、ひっそりと歩く音が何倍にも拡大されて広がっていくように思える。


「暗いなあ、でも明かりをつけると目立つし」


手探りで階段を下りていたが、そのような苦労は数分のことだった。やがて奥に柔らかな光源が見えてくる。


「? 何だろう」


しばらく下ると通路は平坦な道になった。足はごつごつとした洞窟の感触であり、空気は石のように冷えている。道は二股に分かれており、光源と逆方向に風が流れている。


「向こうに空気が流れてる……ってことはあっちが外か。じゃあ向こうの光は何だろう?」


己の靴がかろうじて見えるほどの暗がりの中、何かを確認するように呟きながら歩く。


やがて光源がはっきりとしてきた。道は杉材のスノコが渡されており、かりかりと紙に書き物をする音も聞こえる。


「……この光、竜銀ドルムの白銀に似てるけど、花みたいに淡い色だな……」


そして、立ち止まってそれを見る。

かなり広い空間。子供が自由に走り回れるほどの空間に本が積まれている。ある場所では小山のようにうず高く、ある場所では川の流れのように敷き詰められて。

中央に書き物机があり、老人が何か書き付けているようだ。インク壺からゆっくりと引き出す羽ペンは銀色に光っており、枯れた腕が上等な紙に文章を刻む。


アトラはその仕草に魅入られるように思えた。やや背筋が曲がっているものの、ぴしりと定まった姿勢。指先の淀みない動き、さらさらと水の流れ出すような流麗な文字。そしてインク壺を満たす銀色の液体。


「誰かな」


老人がはっと振り向き、アトラを視界に納める。


「あっ、そ、その……見学で」


とっさに逃げることも考えたが、他に役人や衛兵の気配もないため、ごまかすにとどめる。


「見学……? ああ、見学か、そうか、では見ていくといい」


老人は嬉しそうにそう言い、また手を作業に戻す。

アトラは周囲に積まれた本を見て思う。ざっと数百冊。食事処で見た本に似ているが、それよりずっと手の込んだものだ。背表紙は金糸銀糸で装丁され、表紙は貝に彫刻したものや、花を樹脂で固めたもので飾られている。捲ってみれば、一枚目は極彩色の風景画である。

印刷物や写真ではない。一点ものの水彩画のようだ。


「雅本ってここで作ってるんですね」

「ああ、そうだよ、僕がすべて作っている」


老人の書く文字は一瞬だけ銀色の輝きを帯び、身震いするように揺らめいて見えた。だがやがて黒に落ち着いて固まる。


竜銀ドルムをね、特別な触媒を使って液体にする。それを文字として書き付けることでまじないの品になるんだよ」

「装丁もすごいですね……これとか宝石まで使ってて」

「ああ、竜銀ドルムは宝石や金を好むからね。複雑なものほどより濃厚に銀を含ませることができる。例えば、いま作ってるこの雅本には600万ドルムの銀が含まれている。製本も彫金も僕がやっているんだ」

「へえ……」


アトラとしては銀の量より職人技に目を引かれた。革表紙をかがる縫い目といい、留め金の薄さと彫りの細かさといい、まったく乱れのない一流の仕事である。そして小人が踊るような装飾文字カリグラフィ

老人は600万ドルムの銀と言ったが、本だけの芸術的価値でもそのぐらいあるのでは、と思わせる。


「これ全部一人で?」

「そうだよ。不思議なものでね、複数の人間が関わるとまじないの力が落ちるんだ」


きりの良いところまで終わったのか、老人がペンを上げ、インクを丁寧に紙に吸わせてペン立てに戻す。

そして立ち上がる。この空間にランプなどはないが、雅本のために春の花園のように明るい。この場所だけがこの世とかけ離れた楽園に思えて、何だか地に足がつかない心地である。


「さあ、見ていくといい、あちらの山にあるのは自信作だ」


この空間にある雅本は百あまり、それは積み上げられ、あるいは縦にあるいは横に並べられて独特の空間を形成している。老人は積み上げられた雅本の方へ歩く。それは人の背丈ほどもあった。


やや足元がおぼつかない。アトラが手を持って支える。


「ありがとう」

「いえ」


手に触れて、そのさらさらと滑りのよい皮膚と、その奥に感じる骨ばった感触に驚く。

アトラはこれほど高齢な人物を見たことがなかった。その手は職人らしく固い芯を感じたけれど、腕からは肉が削げて皮ばかりとなり、髪はすっかり抜け落ちて眼窩が強調され、乾いた口元では皮膚が頭骨に張り付くように思われた。痩せ細った老人ではあったが、来客は珍しいことなのか、嬉々とした様子である。

老人は薄黄色の長衣を着ており、足元は見えないながらも摺り足のように歩いていた。


「ほら、これにはこの街の歴史が書かれてる。音楽は木琴の三重奏に太鼓の楽団。これは僕が作曲したんだよ」

「お爺さん作曲もできるの?」

「うん、正確にはオタマジャクシを書く訳じゃない。雅本には音楽を奏でさせる部分というのがあって、楽しげな音楽にするか、重厚な音楽にするか、どんな楽器を使うか、その塩梅を決めるんだ。本はね、僕の調整によって、自分で音楽を作り上げて演奏するんだよ」

「へえ……」

「ほら、こっちの雅本は野生の鳥たちについて書かれてる。僕が専門書をいくつも読んで書いたんだ」


それは積み上げられて家のようになっている。屋根の部分の雅本をめくると、鳥のさえずりが流れる。


「鳥の鳴き声まで?」

「そうだよ、挿し絵として鳥のイラストを何枚も描いた。竜銀ドルムはその鳥に命を与えて鳴き声を奏でる。これは背表紙の上に象牙の飾り物がついててね。ほら、中空になってて、中に象牙で作った鳥が入ってるだろう?」

「え、これ、どうやって入れたの?」

「ひとかたまりの象牙を削って、鳥かごと鳥を作るんだ。苦労したんだよ。針のような道具で、少しずつ突いて削って……」


アトラは周囲を見回す。木琴の音が山々にこだまして立体的に響き、家の屋根からは鳥のさえずり、その空間は雅本で作られたジオラマのように思えた。そして雅本が放つ花園のような光。


それらは全にして一の世界。一つ一つの本が素晴らしい芸術品であり、さらに集まって山川草木を形成する。

視点を広げれば広げるほどにたのしく、細部に目を凝らすほどにその技に驚嘆する。


「……」


アトラは天地を見て、雅本の山を見て、雅本の町並みを見て、そして尋ねる。


「ねえ、なんでこんなところで作ってるの?」

「ここは落ち着くからね。竜銀ドルムを定着させるには、静かな環境の方がいいんだ」

「どうしてお爺さんが?」

「うちは貧しくてね、わずかな稼ぎもすぐに税に消えてしまった。だから雅本の職人として修行に出されたんだ。さいわい才能があったのか、こうして領主様に仕事を任せてもらえた。特に高級な雅本を作る仕事をね」

「そうなんだ……」


アトラは足をもじもじとすり動かし、摺り足でその本のジオラマから出る。


「あの、そろそろ帰らないと」

「そうかい……? 出口は向こうだよ。明かりは持ってる?」

「うん、竜銀ドルムの粒ならあるから……」

「足元に気を付けてね。ぜひまた来ておくれ」


老人は手を振る。アトラは暗がりへと踏み込んで、スノコ張りの床をしばらく歩く。

そしてスノコを敷いた床が石に変わる頃、そっと振り向く。


果たして、老人はまだ手を振っていた。

虹色の花園にあって、その姿は白く淡い。光の加減なのか着ていた長物のせいか、上下に煙のように引き伸ばされて見える。落ち窪んだ眼窩とゆるりと開いた口元だけが、闇の中に子供の描いた絵のように浮かび上がって――。


「……」


歩を早める。わずかな風の流れを頼りに。左右の壁に肩をぶつけながら。

やがて外気が感じられる。見張りの衛兵がいたので、自分の少し後ろに石を放り投げる。がらん、と石は無遠慮に転がる。


「ん? 何だ?」


衛兵が音を確認するために洞窟に入る。その姿が通り過ぎる瞬間、模型から飛び出してそっと走り去る。


いつの間にか空が白み始めている。ベルセネットもまた世界の南端に近い場所。昼夜は公平ではなく、今は昼の支配が極端に長い時期である。


アトラは駆け出す。まだ眠りから覚める直前の町を。

やがて到達するのは広場の檻。


黒衣の魔女は片膝を立てて座っていた。そのすみれ色の髪の中から、向かってくるアトラを見据えている。

それは魔女らしく占いででもあるのか、それとも虫の知らせか、彼女はアトラが再訪するのを確信していたようだった。船を漕いでいる不寝番をちらりと見て、アトラに微笑みかける。


「どうかしたデスか?」

「そこから出してあげる」


アトラは檻に両手をかけ、泣き出しそうな顔で言った。




「だから協力して、助けたい人がいるんだ」


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― 新着の感想 ―
[一言] 竜銀は作り物に命を吹き込む神の息吹という事か、故に箱庭は世界の現身になると。
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