第十五話 谷底の虜囚
酒場にてエールを飲む。
「うぐっ……変な味」
どうも酒は体に合わないようだ、とあっさり諦め、あらためて野菜ジュースを注文する。
ベルセネットの名物だと聞いた羊肉の岩ゴケ炒めと白野菜のシチュー。廃坑で栽培される真っ白い野菜が、ミルクを使ったシチューの中で荷くずれて深い味わいとなる。
「うーん……これで1800ドルムか。何もかも高いなあ。やっぱり食事は模型で取ろうかな……」
多数の客で賑わう店内で、アトラの声がぼそぼそと響く。
「でも模型はなあ……」
模型で過ごした数年間は、言わずもがな自給自足の日々でもあった。畑を広げ、鶏を育て、川で魚を取り、飛来する山鳥などを捕まえる。樹には樹液の取れるものもあり、ときどきはキノコや沢ガニなども取れた。
そして当然の帰結として、食べ飽きた。
世界の黄昏とも言える時代、毎日同じものを食べることを苦としない人は多い。しかしアトラはまだ文化に浴したい年頃でもあり、初めての街はただ補給して通りすぎるには刺激的すぎた。
店内を見渡す。どこにでもあるような食事処であり、夜の早い谷あいの街において、外は墨を塗ったように暗い。人々は湯で割った穀物酒を飲みつつ、様々な話題に興じていた。遠征隊のこと。鉱山のこと。終戦派のこと。
そしてバターライダーの街に起きた大火の噂。それは断片的に届く情報ながらも、最大の関心事の一つでもあった。
「噂じゃあ、火炎を放つ竜が街を焼き払ったらしい。天然ものとは思えねえ大きさだったらしいが」
「竜を連れた賊も増えてるし、そういうたぐいかねえ」
「近ごろは砂漠にも竜が増えてるらしい。隊商もしばらく来てないし、ベルセネットから離れねえほうがいいな」
そのような話を聞くともなく聞く。
ふと気付く、カウンターの横に大きな本がある。それは辞書か画集かと思える大きさで、表紙に美麗な絵画が描かれ、牛革を飾り鋲と金糸のかがりで飾った見事な装丁。背表紙には金箔や貝類の薄片なども使われている。
興味を引かれ、本のそばにいた店主に尋ねる。
「あの、その本は何ですか?」
「ん、あんた旅の人かい? これがベルセネット名物の雅本だよ」
「立派な本ですね」
そうだろう、と店主は誇らしげに言う。
「せっかくだから聞いていくかい」
「聞く?」
店主はパンと手を鳴らし、それによって店にわずかな沈黙が走る。
数人が店主を見て、そしておもむろに本が開かれれば、流れ出すのはハープの音色。
深い奥行きを感じさせる音曲、空間が広がったような感覚があり、遥かに高い天井に音が拡散し、また戻ってくるような複雑な響きがある。
【かの風光明媚なるベルセネットの街、槌音は響き商人は行き交い、文化は極まりて豊かさの絶えることなく、人の交わりを典籍に綴る歴史ある街。その起こりは統一歴214年、慈悲溢れるカレソナ王の治世のことである】
「本が言葉を……」
「これが雅本だ。まあこれは一番安いやつだがね、街の縁起と産業について書かれてる。この街で店をやるなら一冊は買わねえといけないのさ」
「高いんですか」
「10万ドルムだよ。まあ補助が出て二割引きになるんだがね」
店内の反応は鈍い。何度も聞いてるものなのだろう。ハープの音色に耳を傾けている者もいるが、大半はまた談笑に戻っている。
「曲がいくつかあって毎回変わるんだ、話のパターンも三つほどある。まあ旅のお方にゃ珍しがられるよ」
「……確か、雅本を盗んだら死刑だって」
「ああ、広場に晒し者にされてるな。馬鹿な盗賊もいたもんだ。雅本を盗んだら死刑なんてのは、そのぐらい街の誇りとして大事にしてるって意味なんだが……。まあ法律に書かれてる以上は仕方ねえやな」
「……」
雅本はまだゆるゆると一人語りを続けている。それは落ち着いた語り口であり、情報量は非常に多く、また背景の音楽も高尚なものであったけれど。
当然の帰結として、眠くなった。
※
深夜。
谷間を吹き抜ける風は冷たく。それは広場で渦を巻いてあらゆるものから熱を奪う。昼の間につちかった街の熱気が、谷を吹き抜けて地上に逃げていくような夜である。
檻に閉じ込められた罪人は、与えられた粗末な毛布に手足を包み、固い石の床でもぞもぞと足を擦り合わせている。
「ねえ」
ふと声がする。
蛙のように地面すれすれを這う声だ。
「にゅ? 誰デス」
「ちょっと静かに」
円形の檻の周囲には不寝番もいるが、立ちっぱなしがこたえるのか民家の前まで退避し、椅子を借りて座り込んでいた。夜闇の中で、毛布が檻の中にあるのをときどき確認する程度である。
「はて、声はすれども姿は見えず……」
「毛布の中にこれを入れて」
ぐい、と腹を押される感触。それは大きめの綿入り枕のようだ。どこかの宿屋の備品だろうか。
しかし、枕がどこから来たのか見えなかった。すぐ近くにいるはずなのだが。
「いったいどこにいるデス」
「声をあげないで」
がし、と顔面を捕まれる。
「!?」
同時に右肩も。万力のような力だ。
そしてスウロと呼ばれていた盗賊は、ずるりと地面に引きずり込まれた。
「ぷはっ!?」
落ちる瞬間。重力の向きが変わったように思える。
そこは木の根本。昼の陽射しが降り注いでレース模様の木陰が落ちている。気温が急激に高くなり、空気の味も変わったように思える。
「これは……」
スウロはすんと鼻を鳴らす。大気の匂いを嗅いで多くのことを感じようとする。
「人工空間……かなり高度のまじないデスね」
「驚かせてごめん」
目の前には灰色の服を着た旅装の男。額には分厚い遮光ゴーグルを乗せている。
「ああ、さっき檻を見ていた方デスね」
「覚えてるの?」
「遠征隊が去っていった後なのに、旅行者なんか珍しいなと思ったのデス」
フードを背中に下ろしてにこりと笑う。目にも鮮やかなすみれ色の髪。やや前髪が長く、目元が半分隠れていて表情がわかりにくい。その女性は口を閉じたまま笑ってみせる。
アトラはというと、まず名乗りから始めた。そのあたりは商売人としての名残りだろうか。
「僕は模型屋のアトラ」
「魔法使いのスウロと言います。私に何かご用デスか?」
「ちょっと聞きたいことがあって」
アトラは上の方を気にしている。物音がしたらすぐに彼女を出さねばなるまい。その後は入ってきたときのように、模型から腕だけ出して逃げなければ。
「えっとね。雅本を世界の役に立てるって、何の話?」
「ふむ」
スウロは足先を寝かせて座り、石の上で固くなった体を揺らしながら答える。
「ご存知デスか、ベルセネットは古くは交易と宝石で栄えました。質のよいオパールが大量に採れたのデス。各地から商人が集まる要所であり、多数の物資がやり取りされました」
「聞いたことあるよ」
「魔王との戦争が始まった頃、ベルセネットはその財力で物資をかき集めて独立都市としての性格を強めました。虚無の帯によって王の威光は遠ざかり、また近年では終戦派の影響もあり、南方ではどの都市も独立の機運が高まっていたのデス」
「終戦派……」
「やがて終戦派とも距離を起き、ベルセネットは領主の加護だけを頂く独立国となっていきました。その性格は10年ほど前に完成されたのデス」
「でも、遠征隊がここで補給していったって」
「遠征隊は王の勅書を持っていますが、補給はあくまで現金によるものデスからね。さて問題はここからデス。この世界で最も偉大な宝とは竜銀なのデス。私の仕入れた情報では、領主は大量の竜銀を雅本に変えて、廃坑の地下に蓄えてると聞いてるデス」
雅本、という言葉に少し思考が止まる。
「雅本? なんで? 竜銀そのままの形で蓄えておけないの?」
「竜銀は結晶として大量に集まると高熱を放つのデス。なので魔法使いの手で、まじないの器物に変えて保存するのデスよ。その変換時にロスは出ますけどね」
そういえば、と思い出したことがある。
アトラの家にあった竜銀のストーブ、あれは中に三キロほどの竜銀の砂利を入れて使っていた。銀色の小石を大量に飲み込んだストーブは、その上で煮炊きできるほどの熱を放つのだ。
「じゃあ、廃坑に街が蓄えた竜銀があるんだ」
「はい、旧時代の出入り口はすべて封鎖され、今は領主の屋敷からのみ行けるそうデス。いろいろな資料で検討しましたが、およそ50億ドルム。強い竜を何十頭も生み出せるほどの竜銀デス」
「そうか……分かった、ありがとう」
ふと、沈黙が降りる。
アトラとスウロは数秒見つめあって、そして互いに首をかしげる。
「あれ、上がれない? じゃあ手伝うけど」
「はい? 助けてくれるんじゃないんデスか?」
再度の沈黙。
やがてアトラの顔に、ゆるゆると焦りの色が浮かんでくる。
「……え、む、無理だよ、死刑囚だし」
「いや、あなた情報だけタダで聞き出してそれはどうかと思うデス。助けてくれるのが当然デス」
「……そ、そこまで考えてなかった」
スウロは目を丸くして。
そして顔を押さえて、腹をくの字に曲げて笑う。
「ふ、ふふ、不意を突かれすぎて笑ってしまったデス……」
「ご、ごめんなさい。助けてあげたいんだけど、勝手にそんなことするのは……」
「いえいえ、もうよいデス、自分の身ぐらい自分で何とかするデス」
スウロは立ち上がり、見えない穴に手を入れて出ていく。
「ほう、模型デスか。これを檻の外に置けばいいデスか?」
「あ、うん、そうしてくれると助かるけど……」
模型の天井近くに顔を近づけると、外の音や気配が感じられる。模型は石の上を転がって、やがて畳まれた屋台にぶつかったようだ。
腕を差し入れ自分の体を持ち上げる。出る瞬間にひやりと夜風が染み入る。
深夜の街には誰もいない。見張りも、どうやら寝息を立てているようだ。
「ええっと……」
領主の屋敷から、雅本のある廃坑へ行ける。
そこには大量の竜銀が蓄えられている。それは世界に必要なものである。
「もしそれが本当なら、あの人の言い分は正しいわけで……。じゃあ死刑はダメだよね、やっぱり」
半分は無償で話を聞いてしまった後ろめたさから。
そして半分は、それなりに彼女のことを心配して。
「よし、とりあえず忍び込んでみよう。話が本当か確かめないと」
アトラは、割と気楽にイバラの道を選んだ。