第十四話 雅本の街
都市に山の影が降りる。
その街は深い渓谷の奥に存在していた。何万年もかけて大河の流れが山を削り、崖を押し広げるように流れ続けて生まれた谷あいの土地。川の流れは人が住み着くより前に枯れ果てたものの、いくつかの井戸は今でも水が湧き、人々は岸壁に横穴を掘って、あるいはわずかな日光を求めて谷底に住居を敷き詰めていく。
吹き抜けになっている部分は街道でもある。地形に合わせて枝分かれする街並みには商店や旅籠などが並び、都市でなければ見かけない写真館や銀行、何かのオフィスなどもある。
日の暮れかかる時刻、市場もそろそろ店じまいに慌ただしくなる頃にそれは見られた。
「すいません、野菜を買って欲しいんですけど」
そう切り出した男は麻布を顔に巻きつけ、だぶついた旅装をしている。食材商の男はうさんくさそうに応じる。
「ああ、今は遠征隊の補給が終わったばかりでな、物資は不足気味なんだ、いくらでも買うよ」
男は背負った袋をどさりと置く。中からはごろごろと立派なジャガイモとニンジン、他いろいろの野草やキノコも出てくる。
「なっ……」
「30キロぐらいあると思うんですけど」
店主は芋を確認する。見たこともないほど大きくて立派なものだ。他の野菜も瑞々しくて唾液が溢れてくる。
「買ってくれます?」
「あっ……ああ、すごいな兄ちゃん、これなら3万ドルム出してもいい」
そこへ割って入る人物がある。大柄で禿頭、腕に熊のように毛の生えた壮年の男だ。
「おい、若いやつ相手にぼったくってんじゃねえ! ベルセネットの評判を落とす気か!」
ぐいぐいと肩で食材商を押し退け、不自然なほどにまりとした笑みを向けて言う。
「ほお、立派なもんじゃねえか。キノコはシシタケにホウチョウタケか。これなら7万、いや8万出そう」
「ありがとうございます」
男は割って入られたことに面食らったものの、特に口を挟むことはない。
「ところでこんな立派な野菜、どこで仕入れたんだ?」
「僕が作った野菜です」
禿頭の男はほうと唸り、目を細めて相手を観察する。
ばっさり切り落としたばかりのような、つんと尖った黒髪。
ガラス職人の使うような厚手の遮光ゴーグルをかけているが、その中にはまだ世の中にすれていない。純朴そうな少年の瞳がある。よく見れば手は細かい傷が無数にあるが、野良仕事で擦りきれたというのも少し違う、野生の獣のような手である。
どうも正体不明ではあるが、畑仕事をしてるという部分は本当のようだ。それだけ判断して感心したように頷く。
「こんな野菜の採れる土地が残ってるとはねえ……。そうか、まあ、できれば今後も売りに来てくれ」
「はい、機会があれば」
「兄ちゃん、ベルセネットは初めてか」
「はい、本で有名な街だって聞いてます」
「そうだな、雅本がここの名物だ。美術館なんかもあるんだぜ、見ていってくれ」
「雅本……時間があれば、そうします」
男は何枚かの紙幣を受け取り、懐に入れる。
そして背負っていた麻袋と別に、担いでいた背嚢をえいと担ぎ直してその場を去っていった。
最初に話しかけられた方の食材商は、腕を組んで不満げである。
「親方、ありゃきっと盗んだやつですよ。もしかして遠征隊から盗みやがった品かも」
「盗っ人には見えんよ。仮にそうだとしても、もう遠征隊は行っちまった。商いをしたって誰が咎めるってんだ」
「あれじゃねえですか、最近ウワサになってる盗賊じゃあ」
「耳が遅えぞ」
禿頭の男は、はっと大仰に笑う。
「そいつなら今朝がた捕まったよ」
※
谷を生かした地形であるベルセネットでは、どこへ行っても左右に切り立った絶壁が見える。10メートルほどの高さに落石よけのひさしが備えられ、道の左右には商店や民家がいっしょくたに並んでいる。
道幅は30から50メートル。屋根が岸壁に向かって傾斜しているのは、落石の被害防止と水はけの関係であるらしい。この辺りではまだ年に十数回ほど雨が降る。
「さてと、旅の道具も買えたし……できればこの街で騎竜を仕入れたいんだけどな」
騎竜は砂漠の乾燥に耐え、人と荷を乗せて運べる優秀な家畜である。
しかしその旅人、模型屋アトラの見通しは二つの点で無理があった。
まず騎竜が非常に高価であること。そして今現在、そのほとんどは遠征隊に売り渡されていることである。
市場を端から端まで歩いたが、騎竜どころかロバも売っていない。食料も小物もいずれも高騰している。アトラは意識していないことだが、10日ほど前にこの街を遠征隊が通り、街の年間収入に匹敵する竜銀で買い付けを行っている。そのため通貨あまりが起きている現状があった。
それ以前に新しいロープや医薬品、マントや砂漠用のブーツなどを買ったら現金も半減してしまったが。
「うーん、物価が高い……8万ドルムってものすごく大金に感じたけど、いざ買い物すると一瞬だなあ」
バターライダーから歩いて4日の道のり、ここまででも平坦ではなかったが、旅立った当初の浮足立つような心地の中では一瞬のことだった。
しかし街に至ってこれからの道を思う時、さすがに歩き旅の無理無体というものを感じつつある。
ここから北に向かう場合、候補となる街はいくつかある。
しかしどれも軽く百キロは離れている。アトラにとってオアシスの有無などは問題ではないが、それだけの距離を歩くのはうんざりする思いだった。
「さあ見定めよ! 街の名誉をその手にかけんとした罪人の姿を!」
声に意識が向く。
それは大きな谷同士の交わる街の広場である。鉄枠で組まれた檻があり、街の人々がその周囲に集まっている。やや傾いた日が谷に斜めから差し込み、反射光が谷底まで届いてほの赤く照らす。
「……?」
覗き込む。背が高くなって便利だな、と思うのはこんな時だ。
檻は鳥かごのように円筒形であり、二メートルほどの高さがあった。見世物のように扱われているのか、目立たせるために鉄枠に布など結びつけてある。檻の四隅からは色のついたロープが周囲の建物に伸ばされ、そのままサーカスの猛獣の扱いだ。
「へー、まだ若いな、女じゃないか」
「雅本を盗んだんだって? よりにもよってこの街でねえ」
その人物は黒い長衣を着ており、足にはサンダルばき、鉄柵の中央で体を折り畳んで眠っている。
群衆に呼び掛けていた男は街の役人であり、金の肩当てから赤い房飾りを下げて、書類を周囲に見せながら叫んでいる。
「この者! 名をスウロ・マズロマー。不埒にもベルセネット公立美術館に忍び込み、街の財産たる雅本を盗み出したる悪党である。ベルセネットにおいて雅本は魂であり誇り、それに対しての汚損はむち打ち、盗みは縛り首と定められている! 街の律法に従い、明日正午に死刑を執行するものとする!」
「それは誤った法デス!」
その人物が、唐突に檻にしがみついて声を張る。役人はぎょっとして振り向き、群衆は叫びながら輪を広げる。
「私は何も間違っていない! あなた方はあの雅本の価値を分かっていないのデス! 世界の流れを見るのデス! 雅本は世界のために役立てるべきなのデス!」
「こいつ! 黙らんか!」
ばあん、と長柄の棒が檻に当てられる。周りから数人の役人が出てきて、棒を突き入れて中の人物を容赦なく打つ。
「私は間違っていない! あの本を私に預けるのデス!」
「驚かしやがってこの野郎!」
「明日なんて言わずに今やっちまえ! 縛り首だ!」
その辺に落ちてた小石や木片などが投げつけられる。罵倒が飛び、女たちは輪の外へと逃げる。
さすがに女相手に本気で投げつける者はいないようだが、いくつかは柵を越えて女に当たっている。ローブの女は腕をあげて顔をかばい、石が鉄の檻に当たってけたたましく鳴る。
「こら! ものを投げるな!」
「離れんか! 罪人は領主様の前で処罰されねばならんのだ!」
役人たちが長柄の棒を振り、群衆はさらに遠ざかる。
そのため人の輪が通行人の流れにぶつかり、アトラは引き剥がされるように人の波に飲まれていった。
「……領主様、か」
その場を離れるとき、さっと視線を上げる。
それは岸壁の中で棚状になってる部分に築かれた、街を一望する巨大な館。
ベルセネットの領主の館。アトラはずっと視界に入っていたその館を、初めてまじまじと見つめた。