第十二話 瞬きの中の永遠
「……どうすれば」
アトラは作業部屋に駆け込む。そこにあるのは模型、銀の土台を持つ田園の眺め。
「爺ちゃん、教えて……教えてくれよ、どうすれば、あいつを……」
そのガラスのような覆いに触れる。真上から手を置くと吸い込まれるが、蓋に触れることはできるようだ。模型の真上に見えない穴があるのか。
――ガラスの中に、神様が
「……」
アトラの眼が大きく開かれる。その唇がわなわなと動き、己の思い付きを飲み下すように喉を鳴らす。
彼は息を吸ってから振り返り、閉ざされた扉の向こうに声を張る。
「クイッカ! あいつが来ても絶対に開けないで!」
「どうしたのアトラ、あいつって、何の話……」
「でも絶対に逆らわないで! 逃げようともしないで! 模型のことを聞かれたら素直に教えるんだ! いいね!」
「アトラ、何が起きてるの、バターライダーの街は火事みたいだし、あの蛾みたいなものは……」
普段はアトラの姉として気丈なクイッカであるが、立て続けの異変にさすがに不安の色に染まっている。
作業部屋へと入ってくるが、アトラの姿はない。
ただ作業机の上に模型が鎮座し、周囲の棚にはアトラの祖父の作品が並ぶのみだ。
「アトラ……どこ? 模型に入ったの?」
どん、と巨大な音がする。扉が強く叩かれた音だ。天井からほこりが落ちるほど力を込めている。
「……!」
クイッカは声を殺す。中にいることを知られたくないという本能が働いた。ノックは何度か繰り返されたが、一分後、ひときわ大きな音が響く。
それはノックではなかった。頑丈さを確かめたのだ。一瞬後に樫の扉が蹴り破られる。蝶番がはじけ飛んで扉が部屋の反対側にまで飛び、クイッカの灰色のツナギに砂粒が当たり、金色の髪が巻き上げられる。
「なっ……」
外の光が差し込む。逆光の中にいるのは大柄な女性。軽鎧を着て氷のような眼をした女性がクイッカを見定める。
「アトラという少年はどこにいる」
「な……何よあなた! 私たちに何の用が」
その女性がつかつかと歩いてきて、クイッカが立ちふさがろうとした瞬間。
ぱし、と頬を打たれる。
まるで目視の追い付かぬ早業、頬への鋭い痛み。
その反応は体全体に起きた。重力が傾き、頭が支えを失って床まで降りる。
「がっ……あ」
「軽い脳震盪を起こしただけだ、大人しくしていろ」
フィラルディアは入ってきた部屋と、その奥に繋がる書斎のような部屋を見て、机の上にある模型を見つける。
「あれがそうか……。確かに銀無垢の輝きだが、まさか真なる竜銀のはずはないが……」
フィラルディアはその模型を前にして、少し考える。
アトラがこの小屋に入ったのは見たが、果たして模型の中に逃げたのか。
(その場合、私が入ったところへ不意打ちをかける?)
(そんなことで私を倒せるわけもない、そのぐらいは理解できるはず)
(いや、アトラは小さな模型も持っていた。それに入ってこの部屋のどこかに身を潜め、私が大きな模型に入ったなら、模型ごと埋めてしまう、とか……)
(だが、幻光剣イムカウェンザを持つ私をそんな手段で……)
軽鎧の剣士は、足元のクイッカに視線を落とす。
「アトラはあの中に入ったのか」
「し……知らない。アトラは帰ってきてない……」
だん、と肩甲骨を踏みつけられる。
「あぐっ……!」
「アトラ! 聞け!」
声を大にする。周辺の森にまでびりびりと響くほどの声量である。
「大人しく模型から出てこい! そうすればお前たちの命は保証しよう! さもなくばこの娘の手足を一本ずつ斬り飛ばす! 脅しではない! 私が北方でどれほどの敵を斬ってきたと思っている!」
聞こえている確信はある。フィラルディアはしばし反応を待つ。
だが、答えは返らない。
「……やむを得んな」
「やっ……やめ、て」
フィラルディアがその大剣を抜き放ち。
輝きを見せつけるように真上に構える。
そして瞬間、剣が加速を。
「待て!!」
それは視界の端で起きる。模型から飛び出した影が跳躍し、天井に当たって斜めに反射し、フィラルディアを捉えんとして。
ばし、と剣が弾かれる。横から打たれたとはいえ太刀筋をそらされたことに驚愕する。
「何奴!」
その人物は。
黒髪が腰に届くほど長い。襟首で縛っているがそこから千々に乱れて足に絡み付くものもある。
麻の腰巻きは風化したように擦りきれており、丈も膝上までしかない。上着は着ておらず、盛り上がった筋肉には無数の小さな傷がある。
フィラルディアは瞠目する。この人物の背中、肩周り、二の腕の筋肉は鋼のように絞り込まれている。靴を履いておらず、踵は角質化して岩のようだ。おそらく手もそうだろう。
だが、その顔。
まるで歴戦の戦士のような体を持ちながら、その人物の眼にはあどけなさが残っている。この世の憂いを知らぬ赤子のような。あるいは人を始めて見る鹿や山羊のような。
そして、その食いしばった口元には見覚えが。
「お前は……!」
「やあああっ!!」
全身がねじれる。足から腰、腰から肩、肘を経て指先にまで力を込める加速。武器の先端にまで体重を乗せた一撃。
があん、とフィラルディアの剣が弾かれ、空間に光の粒が散る。
「なっ……!」
並の力ではない。フィラルディアの知る歴戦の戦士たちに匹敵するか、あるいはそれ以上の。
まだ身体感覚の戻らぬクイッカが、その姿に、声質に残っていた名残に言葉を漏らす。
「アトラ……!?」
そして見る。彼の祖父の部屋を、そこにあった模型の側面に、光の文字が走っている。
【時流速度 999999倍】
「……まさか、そんな」
アトラは言っていた。自分は四日を模型の中で過ごし、あの豪華な朝食を用意したと。その間にこの世界では数時間しか経っていなかったと。
では、その倍率をもっと上げたら何が起きる。およそ百万倍の加速。模型の中で278時間を過ごしても現実には一秒。
では、今アトラは何秒模型に入っていた? 二分? 三分? その間に模型の中ではどれほどの時間が流れたのか。
髪が腰まで伸びるほど。あるいは少年が青年に変わるほどの。
「ふっ!!」
アトラが片手一本で食卓に手をかけ、それをフィラルディアに向けて放り投げる。がっしりとした樫のテーブルが半回転して乗っていたものをぶちまける。フィラルディアは肩でそれを受ける。
「ぐっ……馬鹿な、模型の中で瞬時に数年を過ごしたというのか、そんな魔法など聞いたことも……」
「くらええええっ!!」
アトラの振るうそれは木剣。だが肉厚で長く重量がある。まともに食らえば鎧の上からでも骨が砕ける。
フィラルディアの構える剣を下方から弾き、空中で鋭角に軌道を変えて下ろされる。フィラルディアが足を踏み変えて引く、その足元の床板を打ち砕く。
「この力……!」
「はあっ!!」
剣先に意識を反らされた一瞬。眼前からアトラの気配が消え、足元に模型が滑り込む。スノードームのようなそれから木剣が突き出され、フィラルディアの耳をかすめて行き過ぎる。
「うおっ」
たたらを踏みつつ後退、同時に足先で椅子を引っかけて前に投げ、アトラの追撃を防ぐ。
肝を冷やす。もし今の流れで連撃を受けていれば危なかった。
「……よくぞそこまで成長した、アトラよ」
アトラは足で模型を跳ね上げ、それは放物線を描いて彼の手に収まる。
「模型の中で何年過ごしたかは知らぬ。だが時間をかければ誰でも戦士になれるわけではない。本来なら立派な模型屋になっていたはずのお前が、少年の輝かしい日々のすべてを火にくべて、一心不乱に己を鍛え続けた日々、それがお前に力を与えた。どれほど濃密で真っ直ぐな時間だったか想像もつかぬ!」
アトラが構える。その重厚な木剣を、明らかに独学である下段の構えで。
「十分に誇れるぞアトラよ! 並の人間なら一生かけてもそこまで練り込めはしない!」
だが、と剣に力を込める。
「模型を使った奇っ怪な動き、不意打ち、それにさえ気を付ければ天下無双とまでは言えぬ。鎧と武器の差はいかんともしがたいぞ。その木剣で、真なる竜銀の一撃を防げるか!」
そしてアトラは。
ふいに気配をゆるめ、皮肉げに笑う。
「強がるんじゃないぞ、勇者様」
「……何だと」
「俺は模型の中で、鍛えながらずっと考えてた。あの時の、あの軍功だとか英雄だとかについて話してた時に聞いた、ぶつ、という音を」
「音、だと」
「あの音、あの身の毛がよだつような音。獣の皮を布団針で突くような音だ。ある日、ようやく気付いたぞ。あれは舌だ、尖った犬歯に舌を当てて穴を開けた音だ」
「なっ……」
クイッカが驚愕のうめきを漏らし。
そして勇者は沈黙する。
「……」
「あんたは葛藤してたんだ。俺の模型を見て見ぬふりしたかった。あの模型を南方に残すべきじゃないかと考えた。でも使命として奪わなきゃいけない、覚悟を決めなきゃならなかった。だから舌を突いて自分に喝を入れた、そうじゃないのか」
「……だったら、何だと言うのか」
左には壁、右には横倒しになったテーブル。
直線的な空間の中で二人は対峙する。
「あんたは殺したくないんだ。奪いたくもない。何が正解かなんてまるで分からない! 勇者だ英雄だって称賛されても、心の中は迷いでいっぱいなんだろ! あんたはただの人間だ! フィラルディア!」
「貴様!!」
フィラルディアが正眼に構える。一瞬体が沈むように見えて、そして駆ける。
それは一歩で加速の頂点に達する踏み込み、彼我の精神が濃密に交わり、あらゆるものが遅く見えるような一瞬。
(右手に模型を仕込んでいる)
剣を下段に構え、こちらから見えない側面に模型を握って隠している。
(私の刺突を模型に吸い込ませる気か、だが)
アトラが木剣を上段に振り上げる。がら空きになった胸に剣が食い込むと見えた一瞬、フィラルディアが剣から腕を離す。矢のような威力を宿して剣が飛ぶ。
アトラがとっさに右手を下げ、その手掌に吸い込まれる剣が。
(右手で剣を受け、左手一本の降り下ろし、私の小手ならば止められる。一度受けてから腰にしがみついて押し倒す)
(そうしなければ、本当に殺すまで戦うしか)
血が。
掌に突き立った剣から、弾けるような血しぶきが、花の咲くような血の輪が。
剣は紙のように手のひらを抜け、甲に突き通り、そして胸の中央から、心臓へと沈んでいく切っ先が。
「アトラ!!」
クイッカの絹を裂くような声。
「な……!」
(手に仕込んでいない、模型を床に落としたのか)
(馬鹿な、私の剣をあえて受けるとでも)
血しぶきが、眼に。
反射的にまぶたが閉じる。
「しまっ……」
「やあああああっ!!」
両腕を組み合わせる寸前。
アトラの左腕に満身の力が宿り。
小手の間をすり抜け、雷速の木剣が降り下ろされ――。