獣人たちが寄り添う集落
俺が頭を撫でてからしばらくするとトゥリアは泣き止んだ。いい加減落ち着いてきたようだ。彼女は涙を拭いながら申し訳なさそうに小さな声で呟く。
「すみません………」
「いや、問題、なし、むしろ、大丈夫」
俺はそう言って再び走り出した。背中にはリュックサック、前には獣人の少女1人を抱えている状態だ。普通の人間なら同じ状態で走り続けるのは困難だ。
だが俺にはそれが容易に出来た。疲れなど微塵も無かった。こういった身体的機能については一族の血筋であることを感謝すべきなのかもしれない。牙王家の人間の基礎体力は異次元のレベルで高いのだ。
もちろん俺の体力も無尽蔵ではない。傭兵時代にアフリカ大陸で刺客に追われながら2,000kmの距離を走らざるを得なかった時、あの時は流石の俺も休憩を挟んだ。それに対して今走っている距離はあの時に比べれば大したものでは無い。
もうすぐ日も暮れる。俺も野宿を避けたいが為に走行時のトップスピードを維持しながら、トゥリアの集落を目指して急いだ。
走り始めてから1時間ほどでようやくトゥリアが暮らす集落に辿り着いた。道中の障害があまりにも激しいもので、女のガキが独りで越えられるほどの山岳ではなかった。コイツはあの怪我でここまで歩こうとしていたのか………。
レンジャーであれば可能だが、いくら脚力と体力に自信があろうとも少女だけでは集落に帰るのに日を跨ぐのは避けられない。水も食料も得られずに衰弱するのが関の山だ。
トゥリア自身もそれを理解していたかもしれない。だからこそ、彼女はあれだけの涙を見せていたのだろう。
「ここです!ここが私の住んでる村です!」
トゥリアが大きな声を上げた。前方を指差し、俺の腕の中ではしゃぎ出す。その方角には開けた草原に居住用の宿舎がいくつも並んだ小さな集落があった。俺は足を止めて彼女に尋ねた。
「あそこが、お前の、いる、暮らす、場所か?俺は、訊く」
「はい!そうです!」
嬉しそうに答えるトゥリア。よほど嬉しいのだろう。彼女の顔は零れんばかりの笑みで溢れていた。
俺はトゥリアをゆっくりと地面に下ろした。すると彼女は小走りで集落の方へ向かう。
―――――いや、おい。いくら簡易治療を施したとは言え、傷の治りが速過ぎないか?よくよく思い返してみると、道中で彼女の左脚の腫れはどんどん引いていった。獣人は傷が治りやすいのだろうか、なんとも不思議な種族だ。見た目だけでなく遺伝子生物学的に身体の構造が根本の部分で通常の人間と異なるのかもしれない。
「あの!私、村に行ってデルタさんが悪い只人じゃないってことを話してきます!私を助けてくれたことを説明すれば、きっと皆もデルタさんのことを受け入れてくれると思いますし!」
トゥリアは俺に笑顔を向けると、そのまま集落の方へ走って行った。ついさっきまで絶望していた少女の顔はそこには無かった。
「分かった。俺は、お前に、頼む。よろしく」
俺はその場に座り込んで溜め息を吐いた。初めての異世界、色々とあったが初日から野宿をしないで済みそうだ。
だが問題はまだ残っている。トゥリアが暮らす集落を前にして、俺は彼女以外の獣人たちとの邂逅を目前にしていた。果たして俺と言う存在を受け入れてもらえるか?彼女が先に集落に戻って俺のことを説明してくれるそうだが不安要素が拭えた訳ではない。怪我をしていたところを助けてくれた恩人、そんな感じで彼女が集落の皆に上手く伝えてくれることを祈るしかない。
「ま、とりあえず野宿は避けられそうだな」
俺は元気よく走る彼女を見送りながら背伸びをした。
さて、警戒は怠ってはいけない。俺はここから見える集落の全貌を細かく観察した。遊牧民なのだろうか?定住しているにしては家の造りが簡素だ。家畜と思しき動物を柵で囲って放している。日が沈んで暗くなったことで灯りがぽつぽつと燈り始めてきた。外に出ている他の獣人たちはトゥリアと同じような耳をしている。
俺はまた小さく溜め息を吐いた。彼女が説得に成功するかどうかは最悪どうでも良い。その時は集落を襲って支配すれば良いだけの話だ。日も落ちて、夜空が空を覆い始めてきた。異世界に来て初めての夜を迎えることになる。
待つこと十数分後。夜空を見上げながら待ち呆けていた俺の前に、トゥリアが駆け足で帰って来た。彼女の後ろには何人かの獣人が並んでいる。
「はぁ………厄介じゃねぇと良いんだが」
俺は頭を抱えながら呟いた。ここで揉め事を起こしたくはない。俺はリュックサックを下ろして両手をフリーにした。手の平をあえて見せるようにして、こちらに敵意が無いことを示す。
「デルタさーーーん!!」
トゥリアがどこか嬉しそうに俺の名を呼ぶ。彼女は手を振りながら獣人たちを引き連れて俺の下までやって来た。俺は後ろにいる連中を一瞥した。トゥリアと同じ群青色の髪に、兎のようなロバのような大きな耳。この集落の獣人は全員がこのタイプの獣人なのだろう。
男3人。
女2人。
男の方は年老いたジジイと生真面目そうな青年、そして体躯の良いオッサンだ。女の方はババアとふくよかな体形のオバサンだ。
「みんな!この人が私を助けてくれたデルタさんだよ!」
トゥリアが後ろの連中に向き直って俺を紹介する。しかし彼女の目がキラキラと輝いている気がするが、俺を正義のヒーローと勘違いしているんだろうか?確かにコイツの目にはそんな風に映るかもしれない。
「デルタさん!私の家族と村長夫妻です!」
「おい、こんにちは。はじめまして」
ご紹介に預かった俺は一歩前に出て彼らに挨拶をした。
「俺の、名前は、デルタベガス・アルフェガス。あなたたちを、よろしくお願いしまうっ」
若干噛んでしまったが、なかなか上出来な自己紹介だっただろう。俺は堂々とした表情で連中を見つめた。
「…………ふむ」
最初の一言目を発したのはジジイ、もとい村主だった。村主だけでなく他の連中も俺のことをまじまじと見ている。まるで珍獣を前にしているような目つきだ。
「こんばんは、そして初めまして。あなたがトゥリアを救って下さったデルタさんでしたか。何の縁も無い村の者に慈悲の心を分けて下さり、本当にありがとうございます」
丁寧に感謝の言葉を述べる村主。聴き取るので精一杯の俺でも理解できるほど、彼の口調はゆったりとしていた。
「ずっと、困っている、それを、助けるのは、当たり前。俺は、当たり前の、ことを、しただけ」
俺は拙いながらも心中を言葉にした。最初は助けるつもりなんて無かったが、今さらそんなことを愚痴愚痴と言ったりはしない。彼らにとっても知らぬが仏というやつだ。
「おおぉ………なんと。こんな素晴らしい只人をお目にしたことはない。妹のトゥリアを助けてくれて言葉にできないくらい感謝しています」
村主の隣に立っていた青年が俺に歩み寄って来て、俺の手を両手で掴んできた。そして「ありがとう」と何度も口にしながら感情のままに腕を振り続けた。
「はい、はい、はい………?」
俺は戸惑うしかなく、されるがままになっていた。手押しの井戸ポンプを動かすくらい上下に激しく腕を振っている。
「トゥリア」
俺は青年に腕を振り続けられながらトゥリアを呼んだ。
「はい、何ですか?」
トゥリアが嬉しそうに俺の方へ顔を向ける。
「この人は、あるいは………お前の、兄、ですか?俺は、訊く」
「はい!私のお兄ちゃんです!」
全然似てない。本当に血が繋がっているのだろうか?後ろにいる体躯の良いオッサンとふくよかなオバサンがトゥリアの両親だとしたら、なおさら似てなさ過ぎる。それとも獣人は元来外見の遺伝情報が薄いのかもしれない。
「ありがとう!ありがとう!ありがとう!」
なおも腕が激しく上下に振られる。トゥリア兄は目に涙を浮かべながら顔をしわくちゃにしていた。感謝するのは勝手だがそろそろこの手を離して欲しい。
「旅の者と伺いました。どうぞ、今晩は我らの村で休んでいってください」
体躯の良いオッサンが話しかけてくる。その前にまずはトゥリア兄の手を止めさせろよ。そしてどうでも良いが、その図体でその耳は無いだろ………。まるでムキムキのレスラーがバニーの格好をしているみたいだ。獣耳が絶望的に似合わない。これはトゥリアが奇跡的に似合っているだけなのか?他の奴らはコスプレ感が拭えなかった。
「さぁ行きましょう!デルタさん!」
トゥリアが俺の隣に立って微笑みを向ける。どうしてお前はそんなに嬉しそうなんだ。とりあえずお前の兄を止めてくれ。お前もこの状況で普通に接してくるんじゃあない。もしかしてお前ら兄妹は普段から《《こう》》なのか?
―――――まずいな。ある意味で厄介な連中に捕まってしまった。
俺はやっと落ち着いたトゥリア兄をなんとか振りほどいた。そして流されるようにトゥリアたちと共に集落に迎え入れられた。道中、彼らはずっと俺に話しかけてきやがる。だが一斉に話しかけられては何一つ聴き取ることはできない。全員が嬉々として捲し立ててくる。俺は聖徳太子じゃないんだ。俺は適当に相づちを打ちながら当たり障りのない返事で受け流した。