異世界へ向けた事前準備
日本政府からの依頼を受けてから数日後。俺は内閣官房内閣府に連れ出されていた。
内閣府内にある特別会議室に通された俺は、そこで缶詰状態となる。理由は単純だ、異世界へ向かう為の準備を始める為だ。まさか見ず知らずの異界の地に丸腰で向かう訳にもいかない。俺には知識を得る必要があった。
そんな訳で、俺は先遣隊が収集してきた異世界に関する知識を己の脳へと叩きこんだ。
気象、気候、地質、地形、生態、食物、植物、動物、人種、言語、国家、文化、慣習、技術、などなど………。俺は現時点で日本が得ている情報を記憶に詰め込んでいった。期間は3か月。かなり無理のあるスケジュールで行われているが仕方が無い。これでも準備に時間をかけている方だ。悠長にしていれば他国に異世界の存在がバレる恐れもある。当然政府としては一刻でも早く俺を異世界に送りたいだろう、神代もそう言っていた。俺も日本政府に期待されるのは癪だったが、ここは仕方なく期待に応えるように知識の吸収を図った。
講義が進む中で、俺は思わず目を疑うような疑問に直面した。それは現実では絶対にあり得ない概念、まさに空想上の産物。フィクションの中だけに存在するもの。
「………魔法ってのがあるのか?」
そう、魔法である。どうやら異世界には魔法が実在するらしい。ここまでドラゴンが火を吐くだとか、そんな信じがたい情報を頭の中で無理に理解をしてきた。だが魔法はもはや解読不能な非現実的理論だ。これ以上のファンタジーを脳が処理しようとすると頭上に煙が立ち込めそうだ。
俺の独り言のような呟きに対して、黒縁眼鏡をかけた女講師が口を開いた。彼女は俺の講師の1人だ。講師は複数いて、それぞれの得意分野を俺へ教えている。そんな講師の中でも彼女は頭の回転も速い。それでいてかなりの美人。
そんな彼女も魔法の存在を完全に理解している訳では無いだろう。それでも講師として首を縦に振って俺の質問に答えた。
「ええ、そうよ。嘘みたいな話だけど魔法は異世界に存在している。先遣隊もそれを確認しているわ」
異世界の人間が摩訶不思議な現象を引き起こしたことを、先遣隊が目撃して記録に残していたそうだ。資料に添付された写真には男性が荷運びをしている様子が写っている。だが写真に写っている人は荷物に直接触れていない。証言記録によると、その男性は特定の言葉をしきりに唱え、その度に荷物がひとりでに宙に浮いて動いたそうだ。種も仕掛けも無い、手品の類いでもない。本当に信じられない話だが、魔法は存在するようだ。
「異世界の魔法はハリーポッターみたいなやつなのか?」
「残念だけど、魔法に関してまだ分からないことだらけなの。ただ実用性には富んでいるみたいね。生活の基盤や軍の使用まで及んでいるみたい」
俺は講師が発した“軍”という単語を耳にして、思わず手元の資料から顔を上げた。
「魔法の原理は知らないが、それは手榴弾やアサルトライフルより強いのか?」
純粋な疑問だった。異世界で戦闘になった場合、俺がとり得る手段はこれまで培ってきた知識と技術になる。もし万が一現代兵器が通用しないなんてことになると、俺独りでは太刀打ちできないことになる。
「正直その辺りも不明なのよね。貴方にその実態を調査して欲しいくらいよ」
「マジか」
俺は天を仰いだ。これはいよいよ捨て駒路線が濃厚のようだ。異世界の要とも成り得る魔法、その存在について現時点で分からないことが多すぎる。
なるほど。俺がもし政府の人間なら、まさに俺みたいな人間を今回の任務に抜擢するだろうな。
コンピューターが無くても困らないほどの計算能力と記憶力、そして一個人で国の軍隊を相手に勝利できるだけの戦闘能力を持っている。それでいて義理や人情でなく金で動く便利屋。付け加えて裏社会の住人で簡単に口減らしができる―――――。
まさに俺のような使い捨て可能な人材が適任って訳だ。
「けど、まぁ………やるしかねえか」
俺は自分の両頬を強く叩いて気合を入れ直した。依頼を引き受けた以上、四の五の言っている暇は無い。異世界についてもっと知る必要があるのだ。俺は机に齧りつく様にして勉強を進めた。
―――――3ヶ月後。
異世界の講習はすべて終了。
「彼、本当に凄いわね………」
廊下で2人の講師が歩いていた。片方の黒縁眼鏡の女講師が紙媒体の資料を抱えて感嘆の溜め息を吐いている。彼女はその資料に記載されている試験結果を凝視していた。
「あの人は本当に僕たちと同じ人間なんですかね?」
彼女の隣を並び歩いている男講師が呟いた。彼もまた手元の資料に目を通しながら神妙な面持ちでいる。
「それってどういうこと?」
「いや、ほら………あの人、殺し屋なんですよね?普通ならこんな大きなプロジェクトを単独で任されたりしないですよね?」
「確かに私も最初はそう思ったけど、でも流石に《《稀代の天才》》っていう噂は間違いないみたいね」
女講師はそう言うと懐から端末を取り出した。画面に表示されるデータをスクロールしていく。
「それってもしかして彼の経歴ですか?」
男講師が端末の画面を覗き込む。
「過去を調査したデータをざっと見たけど………まるで絵空事よね」
「そう、ですね………」
そこに記載されていたデータは、およそ常人が辿る人生とは思えないものだった。
10歳でケンブリッジ大学に入学、化学工学を専攻して首席で卒業。
16歳でスタンフォード大学に入学、哲学とバイオエンジニアリングの2つを専攻して成績はトップ、同大学院に進学後はMBAを取得。
26歳の時に消息不明となり、その3年後にメキシコマフィアの一員として活動しているところを目撃される。
しかしメキシコマフィアの情報をすぐにCIAに売って、翌年日本に帰国後またも消息不明となる。
その後、傭兵としての活動が目撃される。確認されているだけでもベネズエラ、アフガニスタン、シリア、リビア、イエメン、マリ、ソマリア、南スーダン、タイの各地で抗争や紛争に参加。
それから所属する傭兵集団が解散後、現在の殺し屋に転身して今に至る―――――。
まったくもって波乱万丈な人生だ。これほど暇を与えない生き方は他にそう無いだろう。
「やっぱり同じ人間とは思えないですよね」
「えぇ………」
2人は驚きのあまり感嘆の溜め息を吐いた。すると男講師の方が何かを思い出したように口を開いた。
「そう言えば僕、気付いたんです」
「何を?」
「この殺し屋の人の名字、“牙王”じゃないですか?これって“牙王一族”と同じ姓ですよね」
「あなた………まさか今まで知らなかったの?殺し屋とは言え、彼も牙王家の一員なのよ。日本を牛耳っていると言っても過言ではない牙王家。古事記にもその名が記されるほど歴史は古く、WWⅡ後の日本が復興を果たせたのは他でもない彼らのおかげよ。それだけ凄い一族出身の人なの」
女講師は男講師に対して呆れたように話した。やれやれと言わんばかりに首を横に振りながら、牙王家というものを説明する。
牙王家。
その名を知らない日本人はいない。現内閣官房副長官をはじめ、政財界や各業界には必ず牙王の姓を見る。それほどまでに勢力を拡大し続ける彼らは、世界長者番付に毎年何名かはランクインしている。牙王家及び分家の総資産は世界一とさえ言われるくらいだ。
当然政府においても発言権は強く、司法、立法、行政の三権分立にそれぞれ牙王が顔を利かせていた。もはや国内でこの一族を敵に回せる勢力は無いだろう。
「あ、知ってますよ、それ。TVの都市伝説番組で観ました。戦争で日本が負けたのは、実は牙王家の陰謀だったとか。あとは政府関係者は全員牙王家の傀儡になってるとか」
男講師が呑気に語る。それを見て女講師は深い溜め息を吐いて彼を睨みつけた。
「なに馬鹿なこと言ってるの、私もあなたも政府関係者でしょ?それじゃあ何?私たちは彼らの傀儡だって言うの?」
「確かに………」
「あなた新卒よね?よくそれで国家公務員になれたわね」
「実は僕、もともと小学校の先生になりたかったんです。でも実家が貧乏で、その時ちょうど妹も私立の大学に行きたいとかで………仕方なく就職活動で官庁に入ったんです」
「あなたもなかなか見ないタイプの人よ………」
2人がそんな風に何気ない会話をしていると、彼らの前に息を荒くして走ってくる職員が現われた。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ―――――」
ただならぬ形相で走って来る。2人は思わず職員を呼び止めた。
「廊下は走ってはいけませんよ」
「何か遭ったんですか?」
「た、大変なんです!」
職員は慌ただしい様子で2人に話しかけてきた。肩で息をしているほど焦っている状況から異常事態であることを察する。
「コード………コード:Dが内閣府を出て外務省に向かいました!」
「えっっっ!?」
コード:Dとは、今回のプロジェクトに参加する例の殺し屋を指すコードネームだ。
「何でまた!?」
「そ、それが『どうせ試験は満点合格だろうし、無契約の依頼なんだから面倒な手続きを省いて勝手に行かせてもらう』って言って………止めたんですけど………」
講師たちは呆れかえって言葉も出なかった。善は急げと言っても、いくらなんでも早すぎる。彼らはただただ茫然とするしかなかった。
俺は内閣府を出てから神代に連絡を取った。異世界に関する必要な知識はもう頭に入っている。俺としても一刻も早く異世界へと行きたくて、衝動が抑えられずにいた。そんな俺に対して神代は外務省へ向かえと告げてくる。俺は仕方なく言われるがまま外務省へと向かった。北庁舎の玄関口から案内され、そのまま国際会議室に通される。それから俺はずっと待ちぼうけをくらっていた。電話をしてからおよそ20分が経過、あまりに遅すぎる。
「だいたい何で俺をここに呼んだんだ?」
俺は独り言のように呟く。どうせ異世界に向かうなら現地集合でも構わないはずだ。どうしてわざわざ外務省なんかに足を運ばないといけない?
俺は怪訝に思いながらも神代の到着を待った。
「―――――やあ、よく来てくれた」
やけに低く、渋い声が俺の耳に届く。俺はその声に虫唾が走り、即座に反応して出入り口となる扉の方へと顔を向けた。嫌な気分だ。聴きたくなかった声。
国際会議室に入って来たのは錚々《そうそう》たる国家の重鎮たちだった。
外務省総合外交政策局局長。
外務省副大臣。
防衛省陸上幕僚長。
警察庁長官官房総括審議官。
宮内庁次長。
衆議院事務局事務次長。
参議院内閣委員会委員長。
最高裁判所事務総局行政局局長。
行政、立法、司法、国家を担う彼らが俺の前に現れた。だが、そこには俺を呼び出した張本人である神代の姿が無かった。神代がいない。いや、今はどうでもいい。神代がいないこと以上に、俺は彼らの存在を目にして不快で仕方がなかった。
彼らは全員牙王家の人間、つまり俺と同じ姓を持つ身内。俺が最も忌み嫌う一族。他人を動的資産としか見ず、家族ですら血の繋がった道具と思っている連中。
「………どうしてお前らがここにいる?」
俺は汚物を見るような目で彼らを睨んだ。連中と同じ血が俺にも流れていると思うと身の毛がよだつほど、俺は彼らのことが嫌いだった。正直、神代と話している時でさえ不快な思いをしていたのだ。それがこうも勢揃いとなると流石に吐き気がした。
「どうしてここにいるかって?当然だ。身内が国家にとって重要なミッションに就くんだ。見送りくらいさせてくれ」
掘りの深い顔の外務省副大臣がありきたりな台詞を吐く。俺は舌打ちをして顔を背けた。こういう時ばかり身内面しやがって。日本政府は殺し屋の俺を国際指名手配にしようとしていた。日本の意志は牙王の意志だ。俺はずっと一族に背を向けて生きてきたんだ。傭兵時代も、殺し屋として生きている今も自ら距離を置いてきた。それなのに連中は都合の良い時ばかり擦り寄って来る。
俺が異世界に行くからなんだ?国家にとって重要なら、よくぞ俺を抜擢したな。だから牙王家の人間は嫌いなんだよ。俺は胸の内に溜まりに溜まった黒い感情を言葉に乗せて言い放った。
「あんたら全員暇人かよ。国家の重鎮どもが揃いも揃って………殺し屋の俺をお出迎えとはなぁ。それより官房副長官様はどこへ行ったんだ?ここで落ち合うはずだったんだが」
「神代くんなら現地で待ってるそうだ。これから私の部下たちが、君を『対象a』がある場所まで輸送するよ。準備はできてるかい?」
俺が吐いた悪態など無視して、筋骨隆々の警察庁長官官房総括審議官が腕を組みながら平然とした態度で俺の質問に答える。神代の野郎、異世界に行く前に面倒な応接を押し付けやがって。俺は神代とのこれまでの付き合いの中で、今が最も彼を恨んでいる。今回のミッションが無事終わったら真っ先に殺そうかと思うほどに。
俺は深い溜め息を吐いて項垂れた。ここで彼らと無駄話に花を咲かせるつもりは無い。さっさと外に出ようと足早に会議室の出入り口に向かった。
「待ちなさい。そんなに急いでも異世界は逃げたりしないよ」
外務省副大臣が俺を呼び止める。けれど俺は気に留めない。子どもみたいな反抗に見えるだろうが、彼らに口八丁で対抗できるとは最初から思っていない。そもそも思考が狂っている連中だ。殺し屋の俺が他人のことを言えないが、命乞いをする無実の人たちを彼らは平気で殺している。それも大義だとかどうしようもない事情とか、そういった理由では無い。単に己の利益の為、殺すなら誰でも良かった………そんなことを平気な顔して言う奴らだ。
真面に話し合える訳が無かった。俺は足早に歩を進め、会議室の扉に手をかける。
「君の母親に関係する話だ」
外務省副大臣が俺を睨みつけながら言った。その言葉を耳にした俺は、一瞬にして身体が硬直する。雷に打たれたかのように俺は放心してしまった。それから俺はゆっくりと静かに振り返り、立ち並ぶ彼らに対して目を見開いて感情のままに言葉を発した。
「あ゙?何言ってやがる?殺すぞ」
冷静ではいる。冷静ではいるが、今の俺はすぐにでもコイツらをどうやって殺そうかと怒りで煮えたぎっていた。そんな折、宮内庁次長が口を挟んできた。
「そう怒らないで?なに、別に難しい話じゃないよ。君が今回のミッションを見事成功させれば、君の国内での安全性を《《ある程度》》約束してあげようと思ってね」
「………はぁあ?」
俺は威圧するように宮内庁次長は睨みつけた。
俺の安全性?そんなもの保障されなくたって良い。殺し屋なんて仕事をしている以上、自分がまともじゃないことは誰よりも知ってるんだ。
そしてそんな話はどうでもいい。さっき耳にした台詞の説明が聴きたい。俺の中でどんどん苛立ちが積もっていった。そんな俺の気持ちも知らずに、今度は防衛省陸上幕僚長が口を開いた。
「今回の任務内容は当然理解しているだろう?結果次第では牙王家にとって大きな利得をもたらす。使い捨ての国民を確保できて、さらに使い放題の資源が手に入るからだ。それ故に任務の重要性は非常に高い。不首尾失敗の一切が許されない。そんな本案件にお前を採用するのは心許ない」
「はいはい、そーですか。俺は依頼されただけだ、お前の意向は関係ねぇだろ。文句があるなら神代に言え」
「今回の案件は本筋と代表者の全会一致で決定している。心許ないのは事実だが、牙王家の意思であるのもまた事実。もしお前が本案件を無事に終え、国家にとって役に立ったと判断できれば、それ相応の報酬を与える」
“本筋”とは牙王家の中でも発言力の強い面子だ。一族全体の方針や総意を決定し、今後の指針を定める役割を担っている。そして“代表者”とは言わば牙王家の最終意思決定権を持つ一族のトップだ。捻じ曲がった性根にドス黒い野望を秘めている牙王家の連中を実質的にまとめているのが本筋で、その総括として代表者が君臨している。
そんな彼らが俺に対する意向を決めたと言うことは、今回のミッションが歴史的にも大きな仕事であることが窺える。
………だが、そんなことはどうでも良かった。
「俺の処遇について話し合う暇があるんだな。そんな馬鹿げた会議に貴重な時間を割けるとは本筋も代表者も頭に虫が湧いてんのか?それよりさっさと説明しろ、母親がどうしたって?」
そろそろ痺れを切らしそうだ。ここにいる全員を殺すのに多少の時間はかかるだろう、今は武器も手元に無い。だが殴打で顔面を陥没させてから四肢の骨を粉砕すれば、後は感嘆に首の骨を折ってあの世に送れるだろう。
俺が殺し方の算段を立てているのを察してか、彼らの中で一番若い外務省総合外交政策局局長が話に割って入ってきた。
「貴方の国内での活動には目を瞑ります。それに加えて、貴方の母君の安全も保障する意向となりました。どうです?悪い話でないでしょう」
物腰の柔らかい口調だが、彼の言い方に棘がある。爽やかな笑みに漆黒の精神が宿っている。なにより俺の前で母親の話をするのは禁忌であると、彼は知っているはずだ。それなのに何食わぬ顔で口にしやがった。
どの口が、どの口が………ほざいていやがる。お前らのせいで俺の家族は………父親は、妹は、姉は、死んでいったんだ。残された唯一の肉親である母親でさえ、もう普通に生きていくことは出来ないと言うのに。
「お前らの施しはありがたく頂いてやるよ。それから、俺からも一言言わせてくれ」
俺は誰とも目線を合わせることなく、静かに言った。もう今にも自分の中で何かが爆発しそうだ。人を人とも思わない醜悪な連中とこれ以上言葉を交えたくない。俺は自分が可能な範囲で、最大限の憎しみを込めた声色で彼らに告げた。
「今回の仕事が終わったらお前ら二度と俺の前に現れるな。俺もお前らの前に姿を晒したりしねぇからよ」
それだけを言い残して俺は会議室を勢いよく飛び出した。牙王家の連中と会話をしていると頭がおかしくなりそうだ。奴らはどいつもこいつも狂っていやがる。身の安全を保障する?ふざけるなよ。俺の大切な家族を殺したくせに。
俺は急いで外務省の外へ出た。ちょうど外で待ち構えていた者たちに出迎えられる。黒塗りのリムジンに乗り込み、異世界への入り口へと出発した。
場所は長野県だった。首都圏からは高速道路を降りて、どんどん人里離れた道へ進んで行く。仕舞いには車一台がやっと通れる場所まで来た。
周囲が木々で覆われていて、人の気配は一切無い。手付かずの山道を越えた先で車が一度停止した。
「ここで乗り換えて頂きます」
運転をしている女がそう言ってきた。窓の外を見ると、道の脇にある荒地に自衛隊用車両が数台あった。陸上自衛隊では定番の高機動車だ。何を警戒しているのか俺には分からないが、言われるがままリムジンを降りる。
「こちらへ」
自衛隊と思しき青年が俺の案内を務める。爽やかな面持ちの、清潔感ある風貌だ。さっきまで牙王家の連中とは偉い違いだ。
「後部へお座りください。出発致します」
「はいよ」
俺は言われるがまま車に乗り込んだ。脚を組んでリラックスする。この手の車輛には慣れていた。傭兵時代にはロケットランチャーに狙われながら、こんな車に乗ってよく移動していたものだ。いつ命を落とすか分からない、そんな緊張感を数時間も維持していた頃を思い出す。恐ろしい環境下でのサバイバルを好んでいた辺り、我ながら頭のネジが外れていると自覚してる。
車を乗り換えてから30分ほど。舗装されていない道を抜けて、列を成して進んでいた車輛が次々とブレーキを踏む。どうやらやっと現地に到着したようだ。
車を降りて俺の目に入ってきたのは、仮設基地らしきものが広がっている異世界侵攻の拠点だった。自衛隊のテントが拓けた場所にいくつも設置されている。その1つから見慣れた顔の男が出てきて、こちらへやって来た。
「ようやく来たか」
牙王神代だ。相変わらず不敵な笑みをその顔に浮かべている。俺は溢れ出る殺意を抑えて軽口を叩いた。
「お出迎えとは嬉しいな。そのふざけた顔さえ無ければ、なおさら嬉しいんだがな」
「元気が良さそうで何より。ではこっちへ来るんだ」
神代も俺の皮肉を軽く受け流して、元いたテントへと向かう。俺はその背中を睨みつけながら舌打ちをした。正直さっきの件で一発殴りたいと思っていたが、ここで揉めるとかえって時間を割いてしまう為、俺は仕方なく怒りを堪えて彼の後ろに続いた。
辺りを見渡すと、それなりに設備が整っているようだ。人工衛星から監視されても良いようにダミーの野営地として設置されたのだろう。その他に用途不明の資材がまとまって置いてある。あれらはきっと異世界に搬送して、現地で工事をする為に用意してあるに違いない。どうやら異世界侵攻の計画はかなり進んでいるようだ。
神代に促されるようにテントの中に入った俺はそこで目を丸くした。中にはいくつもの長テーブルが設置されていて、1つの大きなテーブルと化していた。そしてそこに俺の装備が並べられていたのだ。俺が長年使用している武器、道具の数々。
「君の装備品を揃えておいたよ。他にも足りないものがあるなら言ってくれ。ここにはあらかた用意してあるからね」
「俺の武器に触れてねえだろうな」
俺は神代を睨みつけた。揃えてくれたのは感謝だが、今の俺は何かしら悪態を吐きたかった。
「武器一式を運搬する際に触ってしまったが、それを“触れた”と言うなら触れてしまったよ。大丈夫、勝手に改造なんて真似はしていないから安心してくれ」
「そうかよ」
俺は頭をかきながら彼を尻目に己の装備の方へと向かった。ひとまず先ほどまでのことは一旦忘れて、気持ちを切り変えよう。そう思って俺は深呼吸をして自分の武器を見渡した。
俺はまず、ハンドガンを手に取った。
VEKTOR CP1。
俺が傭兵時代から愛用しているセミオートマチック・ピストル。バージニア州でガン・マニアの知人が売ってくれたものだが、これが意外にも俺の手に馴染む。これで何人もの敵を葬ってきた。
トリガーに付いているセーフティは改造して外してある。さらにトリガー周辺も弄って、本来なら重さがある引き心地を自然に動くようにした。ただでさえ扱いにくい銃なのに暴発しやすい改造を施したのだ。非常に危険な改造だ。
だが俺は銃を握ったことのない素人や、拳銃片手に戦場を駆け回る少年兵とは違う。俺は戦のプロだ。むしろ俺にはこれくらいの銃の方が扱いやすい。
続いて手に取ったのは、同じくハンドガンのベレッタ M1935。
こちらはVEKTOR CP1と違ってあまり拡張性がない為、ほとんど改造はしていない。この銃の設計は非常に合理的で、既に完成された無駄のないフォルム。かえって魔改造なんかするよりも普通に使用する方が良いのだ。
ハンドガンはこの2丁で良いだろう。異世界では弾丸の補充ができない。いちいち《《ここまで》》戻らなければいけないから出来るだけ弾数は節約しないといけない。だが銃をたくさん持って行けば、それはそれでかえって荷物になる。戦場において2丁は足りないくらいだが、それでも荷物は極力減らしたかった。
「よし」
俺はこの2丁に決めた。さて、ハンドガンの次はアサルトライフルだ。どこの戦場に赴くにしても、俺は必ずアサルトライフルを持って行く。これが俺なりにジンクスになっているからだ。広げられた装備一式を眺めながら、俺は思考を重ねる。屋外での戦闘を考慮すべきだが、戦況に応じて閉所での作戦も視野に入れなければならない。そこで俺はM4ライフルに決めた。一番使い慣れている、理由はこれだけだ。
主力武器が決定した後は手榴弾や地雷、ナイフにワイヤーなど、適当に装備を見繕って遠征用の大きなリュックサックに詰め込む作業に移った。それから傭兵時代の武装に着替えて準備を終える。
さて、これでいつでも出発できる。
「他に持って行くものはあるかい?」
傍らでコーヒーを飲みながら待ち惚けていた神代が声をかけてくる。俺はリュックサックを背負いながら首を横に振った。
「いや、これで充分だ。充分過ぎるくらいだ」
「んん?それは本当か?」
驚いた表情を見せる神代。俺は特に気にせず、背伸びを伸ばしながら節々の間接を鳴らした。しかし神代はそれを遮るように俺の肩を掴んできた。
「おいおい待て待て。君は今、装備一式と野営用のテントしか持ってないだろ」
「そうだな、あと歯ブラシ」
俺はそう言って歯ブラシを取り出して目の前で振ってみせた。ついでに肩の手も払い落とした。
戦場で虫歯は命取り。傭兵時代にそのことを痛いほど思い知った過去がある。内臓に直接繋がる部位で、最も外界に接している場所、それが口の中だ。口内は清潔さを保たなければならない。万が一虫歯にでもなれば、充分な医療も期待できない場所ではそれを放置することになる。虫歯菌は歯から全身に回り、そして死に至る。それで亡くなっていった同僚たちを俺は見てきた。故に歯磨きの大切さを理解しており、このアイテムだけは外せなかった。
「食料は?水は?着替えは?タオルやティッシュペーパーも必要だろう?怪我や疾病で倒れたらどうする?それらは持っていかないのか?」
「あんたは俺の親かよ」
俺はテントを出た。慌てた様子で神代もテントから出て追いかけてくる。
「君は本当にストイックだな。ナイフ一本あればサバイバルできると言わんばかりだ」
「実際できるからな。無いものは現地調達。自給自足が本来の人間のスタイルだ」
「現代社会にはそぐわないスタイルだね」
「勝手に言ってろ」
対価以上の報酬を求める現代人への批判は止めるとして、俺は歩きながら神代に尋ねた。
「それで神代、訊きたいことがある」
「なんだい?」
「先に異世界に向かった先遣隊の連中………そいつらはどうした?」
俺の質問に神代の表情が一瞬だけ強張った。それを俺は見逃さなかった。
「なぜそんなことを訊く?」
「良いから答えろ」
「別になんともないよ。今は異世界の方にいないけど、このプロジェクトの為に働いてくれている」
「あぁ、そうかよ」
俺は神代のことを信用も信頼もしていない。だから今の発言が嘘であると疑ってかかっている。しかし仮に嘘だったとしても、俺のやるべきことはかわらないだろう。
「もう1つ質問。今回の依頼、期間としてはどれくらいがベストだ?」
「早く終わるのに越したことはない。だが期間を設けるなら1年だろう」
1年。思っていたより短い。これまで国を滅ぼして欲しいという依頼を受けたことがあった。その時は対象がアフリカの発展途上国だったが、それでも1年以上は容易にかかった。まったく未知の世界に大国として君臨する国家を相手に、俺は1年で終わるとは思っていなかった。
「それで終わると思うか?」
純粋に尋ねてみる。すると神代は表情を引き締めて真剣な表情になった。俺の隣に並ぶように歩き、静かな声で話す。
「無理だね。それなら自衛隊に任せる方が賢明だろうな。だが今回の件は君単独による作戦。言わば君が持ち帰ってくる成果に応じて、今後のプロジェクトが決まってくる」
神代の言葉に俺は鼻で笑って言った。
「お前、何を隠していやがる」
俺はもともと今回の依頼を疑問視していた。いくら俺が凄腕の殺し屋で、個人で世界を相手に戦えるだけの強さを持っていたとして。それでも自衛隊に任せた方が得策だろう。そんな俺の疑問を感じ取ったのか、彼は俺だけに聞こえるように声を潜めて言った。
「君が今それを知る必要は無い。とにかく君には国王暗殺を無事に達成してもらえればそれで良いんだ。もし失敗すれば………分かるだろ?」
「異世界と日本の全面戦争ってオチだろ?おぉ怖い怖い」
話をはぐらかされた。まぁ良い。今は話せない、そう言うならまた別の機会にでも聴きだしてやる。そんな俺の気持ちも知らずに神代がまた軽い口調で話しかけてくる。
「半年後に定期報告をして欲しい。それが無い場合は、君が消滅したと判断するよ。定期報告以外にも何かあればその都度報告してくれ」
「はいよ、連絡手段は?わざわざ戻ってこないといけないのか?」
「異世界に基地局の設置が進んでいる。君にこれを渡しておこう」
神代が懐から何かを取り出す。一見するとそれはスマートフォンのようだが、見たことも無い形状をしていた。それを手渡されて、俺は黙って受け取った。
「それは市場に出回っていないタイプだ。連絡手段以外の使い道は無いが、通信音声が乱れたりラグが生じたりしない。また耐久性が高く、核兵器くらいでは壊れないだろう。こちらの工事の都合にもよるが、電波の届く場所で使ってくれ」
「OK。ありがたく使わせもらうよ」
俺はそのスマホを胸の内ポケットにしまった。軍の技術は一般社会に対して10年先まで進んでいると言われているが、それでも核兵器に耐えるくらいの設計なのか。出来ればもっと高性能な通信機器を用意して欲しかったが、俺は文句を言わずに受け入れた。
俺は厳重な格子に囲まれたエリアに入り、白塗りの建物の中に入って行った。そしてようやく『対象a』の前に辿り着いた。俺の眼前に聳え立つ不気味な構造物。
『対象a』、異世界への門。その門は実際に見ると禍々しい雰囲気を醸し出している。言いようのない気配が漂い、まるで出入りを拒むかのような威圧感を覚えた。俺は異世界への門にそっと触れた。質感も初めての体験だった。冷たく、硬い。表面がツルツルしていて、滑らかさがある。不思議な感触だった。
「それじゃあ準備は良い?ここから先、どんな手段を取ろうとも君の自由だ。覚悟はできたかい?」
神代が後ろから尋ねる。俺は少し黙ったまま、異世界への門を見つめた。
空と、大地。その狭間に現れた謎の門。これから先、自分の身に何が起こるのか。それは希望なのか、絶望なのか。俺は小さく笑う。そのまま振り返ることなく口を開いた。
「“準備”?“覚悟はできたか”?笑わせるなよ………俺がこの依頼を受けた時からとっくにそんなものは出来ているんだよ。こっから先は俺の出番だ。持ち帰る情報の取捨選択も俺自身で判断させてもらう。そこは履き違えるなよ?」
「………ふん、良いだろう。君の活躍を期待しているよ」
「ああ、勝手にしていてくれ」
俺はその言葉を最後に、異世界への門に張られた膜へと右手を伸ばした。そのまま前へゆっくり進んで行く。俺の指先がそっと膜に触れた。それを膜と呼ぶには、あまりに触れた感覚が無かった。まるで色鮮やかな靄の中を掻きわけるような感じだ。
俺はためらうことなく前に歩いて行く。思い留まる理由など何も無い。あるのは前進のみ。顔がいよいよ膜に触れた時、視界は膜の色と同じ玉虫色の世界に支配された。歪んだ色彩が方向感覚を捻じ曲げる。俺は怯むことなくどんどん進んで行った。
さて、いよいよだ。俺はこれから異世界へと向かう。