獣の国<前>
……こうして、私達には新しい仲間ができた。
レイメイという男は私の記憶通り寛大且つ圧倒的に有能。勇者と正反対だ。
そう、名付けに縛られている筈の彼が何故王に仕えられたのか? という私の問いには、名付け親が死んだからだという返事が帰って来た。……ピースフル・ブラックとは、王に賜った名であるらしい。益々私が彼を縛ってしまった事を複雑に思わずにいられなくなってしまった。
少年ルカやジミー、酒場の店主に見守られて私達は朝靄の中をまた歩き始めた。
……馬が人間になったため、とうとう徒歩移動を余儀なくされたのだ。
ここからは長く長く山林地帯が続く。抜ければ、他の国、はたまた荒れ地、又は魔の者の巣窟だろうか。つまり、地図は用無しになったのだ。既に先程の街で売り払って来た。
ラピスには人間の変わりに、大量に買い込んだ食料を背負ってもらっている。
皮肉に聞こえるかもしれないが、順調な、余りに順調な旅立ちだった。
「なぁー、オッサン! 今日も雑草かよ!」
「雑草と言うな! 山菜だ。身体には良い。」
ぎゃきゃきゃきゃと獣だか鳥だか分からない何かが叫び声をあげる薄暗い森を歩いて早数週間。今日も森の樹々の隙間にテントを張って、夜の食事の準備をする。勇者もレイメイも料理が出来ないので、これは私の仕事だ。
野菜は勿論干し肉ももうすぐ底をつきそうだ。……完全に加減をしらない勇者のせいだ。腹が減る年齢なのは分かるが、状況というものがよめないのか貴様は。
「……ジズハルク。」
後ろから呼び掛けられる。彼の横にはうっすらと緑がかった火の玉が浮かんでいた。
「どうされたか、レイメイ?」
レイメイは私が彼に敬意を含んで話すのを嫌うが、こればかりはどうしようもない。
「……もう、なくなった。」
「……食料が?」
ああ、と頷くレイメイを見て、私は大きく溜め息を吐いた。
「はぁ!? もう? これからどーすんだよ!!」
「どーすんだよではない! そもそも貴様が加減せず食べるから……!!」
勇者に苛つく私をレイメイが諫める。
「……ジズハルク。」
す、と頬を撫ぜられると、怒りが抜けていくのだから不思議だ。これも魔術のひとつなのだろうか。
「……狩りに、出るしか……ない。」
呟いたレイメイに、私は小さく頷いた。……できれば、避けたかったのだが。
「……仕方ない、ジズハルク。」
「チッ、だりぃな。」
「勇者!」
……私達は、翌早朝テントを畳んだ。
私が狩りを避けたかった理由は幾つかある。
この森の中で三人が離れ離れになる可能性を作りたくは無かった、ということもそのうちの一つだ。
特に勇者は見失ったが最後戻ってくる保証はほぼ無いと思ってよいだろう。
深い森を更に分け入る。すると、急に視界が開けた。
「お、見ろよオッサン。デッケェドラゴンだぜ。」
岩肌も露なほぼ崖の様な山の山頂に、お決まりの如く、エメラルドグリーンのドラゴンがどしりと座り込んでいた。目はじとりとこちらを捉え、舌を忙しなく動かしている。
時折その大顎から漏れる炎は、肉眼にも天まで黒煙を巻き上げているのが分かった。
「ンっとうに、デッケェな。」
昨晩うざいだの何だの言っていた勇者の目は、今や爛々と輝いていた。
「……あれは、鶏肉の味だ。」
「マジ!? れーめーちゃん物知りだねェ! ……じゃあ、決まりだなァ。」
……ああ、困った事だ。何故どうして、皆アツくなり過ぎる。
「行くぜ!!」
「擬化……竜羽。」
「……! 待て、勇者、レイメイ!!」
私の叫びも空しく、勇者は人間技とは思えない尋常でないスピードで、レイメイは魔法で己の背に翼を生じさせて、瞬く間に目の前から消えていった。
「……倒したところであの大きさの肉塊をどうすると言うのだ……!」
私はまた大きく溜め息を吐きだして、ラピスに飛び乗った。
幸いなことに、私は勇者を見失わずに済んだ。
と言うのも、私がラピスと共に山頂に登るまでに、先ずドラゴンの巨大な首が頬を掠めていき、次に黒光りする羽根が、腕が、足がと上より降ってくるのだ。ぽっかりと浮かんだように平らな山頂に降り立ってみれば、巨大な肉塊が今正に皮を剥がれようとしていた。
「おせーぞオッサン。」
「……勇者、貴様が尋常でないのだ。」
しかし、これだけあれば当分の食料には事足りるだろう。余った分は勿体ないが置いていくしかあるまい……か。
「ジズハルク、」
私を見とめたレイメイが、ドラゴンの皮を剥ぐ手を止める。長い指の生えた白い手は、今やドラゴンの血肉の色に染まっていた。
「レイメイ、服の袖が汚れてしまわれるぞ。」
私はラピスから飛び降り、そこら中に散らばった鋼鉄の板のようなドラゴンの鱗を踏みレイメイに近づいて、彼の長いローブの袖を捲り上げた。そして自らも上着の袖を引き上げる。
「私も手伝おうぞ。」
ああ、とレイメイは頷いた。後ろで勇者がラピスに近づいていくのがちらりと見えた。あの馬鹿、また無駄な事をしようとしているのか。
……何度もラピスに振り落とされた勇者がようやく諦めた頃、ドラゴンは只の肉になった。肉と脂に分け、今食べる分を残し細く切って並べる。干し肉にするのだ。
「オッサン、早く焼けよ。」
勇者はうずうずとした表情でこちらを見る。自分でやろうという気は全くないらしい。
「レイメイ、火を起こしていただけないか。勇者貴様も少しは働け。」
勇者はフンと小馬鹿にしたように笑った後、ふわと大きく欠伸をすると、その場に横になり眠り始めた。よくこの血の香の中で眠れるものだ。
「ジズハルク。」
視線を戻すと、レイメイが私が用意した組み木に魔法で火をつけていた。偉大なる力をこのようなことに使うのはいささか気が引けるのだが、勇者の荷物の中にあったマッチは、食料より以前に底を尽きていたのだ。
「ああ、かたじけない。」
私はレイメイに礼を言って、火の上に鉄板を設置した。ほどなくして、その黒い板から煙が立ち始める。私はドラゴンの肉が置いてある場所に戻り、脂と残しておいた肉の塊を手にした。
「勇者、起きろ。焼き始めるぞ。」
脂を焼けた鉄板に落とすと、爆ぜるすさまじい音と共に煙が噴出する。私はそれを手早く板全体に広げ、その上にドラゴンの肉を落とした。
「おおー! 久しぶりの肉だぜー!!」
肉の焼けるにおいにつられて、勇者が目を覚ます。最近見た中で一番の笑顔だ。
そして見えた、
彼奴の後ろに。
「ソラガミ様が殺された、ソラガミ様が殺された! 呪われろ、呪われろ!」
群れる群衆、大地に響く叫び声。
動物の皮を被ってはいるが、あれは人間であろう。それぞれ手に武器を携えた夥しい数の毛皮の男たちが、私たちの周囲を取り囲んでいた。
「げえー、めんどくせぇ。イケてねー奴らばっかじゃん。」
勇者は眉根を寄せながら、いつの間にか手に持っていたドラゴンの肉にかじりついた。
「ソラガミ様の肉をを食らった! 殺せ!!」
男たちは一斉に私達に向かって突っ込んできた。
「ラピス!」
私の声を聞きつけて駆けてきたラピスに飛び乗る。
「レイメイ、勇者を!」
「……わかった。」
擬化……竜羽、と先程の呪文を唱え、空に舞い上がったレイメイは私が並べた肉をものすごい勢いで回収している勇者の荷物を掴んで一緒に引き上げる。
「肉! 俺の肉がァー!!!」
「諦めろ、勇者! 取り敢えず逃げるぞ!」
私はラピスを操り、人垣を飛び越えて走り出す。
「追え! 逃がすな!!」
おおおおおと地面も轟くような声を発しながら毛皮の者達は追ってくる。
「げえー、あいつら『ソラガミさま~』とか言っておきながら滅茶苦茶肉踏んでやがる。死ね!」
勇者は自分が取り残した肉を恨めしそうに見ながら、悪態をついた。後で回収するつもりだったのであろうか。私はラピスの腹を蹴って速度を速める。
「あれは……ここの者……。」
「ん? 何か知っておられるのか?」
だんだんと遠くになっていくかの者たちを木々の間に見、隣を飛ぶレイメイに視線を移す。
「……ああ……、昔、な。」
レイメイの「昔」とは、彼がピースフル・ブラックであった時のことであろうか。それとも、それ以前の……。
「へえ、れーめーちゃんもヘンピなトコくんだねー、ひひひ、まああんたは自分でどうこう出来ねえしな。」
「勇者!」
レイメイが自らの「昔」を良くは思っていないのは分かっていた。王につかえていた時は分からないが、それ以前の、彼の出身であるエドナの事を話す彼の表情はいつもまるで苦虫を噛み潰すかのようだった。
私はレイメイに昔の事を聞こうとは思っていない。我々の旅の目的はあくまで魔王討伐……とはあくまで建前にすぎないのだが。本当は私も少し彼に同情しているのではないだろうか。レイメイはきっと私に憐れまれるのを嫌うだろう。私はそれが露呈するのが苦しかった。
「………。」
レイメイは私たちのやり取りなど聞いていないかのように遠くを見ている。
「あーあー、もうダイジョーブだろ。おろしてくれよ魔法使いさんよー。」
「……ん? あ、ああ。」
森の中をひた走っていた私たちは完全に人の声がしなくなったのを確認して立ち止った。
「はあー、もったいねぇーことしたぜ。」
勇者は手に持っていた竜の肉の一つに齧りつきながら悪態をつく。
「勇者、あまり生で食べるものではないぞ。」
私は勇者をたしなめたが、腹をすかせた上に腹の底では怒り狂っているであろう奴が私の言うことを耳に入れるはずもなかった。
「ぐぐぐ、ぎぎ」
森の中のテントは蒸れて寝苦しいことこの上ない。私はいつも通り夢と現の間をゆらりゆらりさ迷っていた。いつもは私がまどろむころに伸びてくる勇者の腕が、いつまでたっても現れないことに少し違和感を覚えつつも、久々の安眠の予感に意識は遠く離れてゆく。
「ぐぐ、か」
しかし、奇妙な音に私は体を持ち上げた。暗闇に慣れぬ目で狭いテントの中を見回す。レイメイはいない。彼はいつも眠るころになると行方をくらますのだ。
「……何だ?」
「ぎぎ、オ、オッサン……。」
ぐ、と強く服をつかまれる。勇者の手だ。
「なんだ、勇者?」
またか……。私は少々うんざりしながらそれを振り払おうと手を重ねる。……!?
「な、どうした勇者!?」
勇者の手は焼けるように発熱していた。そして段々とはっきり見えてきた勇者の顔は普段のふざけたそれとは一変して哀れなほど蒼白であった。
「……どうかしたか?」
私の声を聞きつけたのであろうレイメイが、ふ、と後ろに現れた。私はガタガタと震える勇者を引き寄せて抱き締める。
「勇者の様子がおかしい。かなり熱があるようだ。」
勇者は激しく呼吸を繰り返し、痛いほどに私の背に爪を立てる。
「……伝染病かも、しれない。離れた方が…いい。」
レイメイは私から勇者を引きはがそうとするが、勇者は私にぴったりと張り付いて離れようとしない。
「レイメイ、貴方の力では治せないのか?」
私は勇者を元の寝床に戻そうとするレイメイの手をやんわりと取り、そう問う。
「否……。私は黒魔術、…回復は専門外だ……。」
黒魔術……? 気になるところではあるが、今はそんな話をしている場合ではない。
「レイメイ、私はこの小憎たらしい男を守ってやらなければならない。それが私の義務であり、この国の希望だからだ。」
私がもう一度勇者を強く胸にに抱くと、レイメイは私の瞳を見つめた後、その長い指を私の頬に滑らせ、
「……わかった。」
と一言だけ言い置くと闇に紛れて消えていった。その瞬間、私の脳内にある情景が浮かび上がる。原始的な家の中だ。白髪で立派な白ひげロ蓄えた翁が黒髪の少年に薬らしきものを調合している。彼はイノシシの毛皮を被っていた。
「勇者、大丈夫か?」
私は胸に顔を埋める勇者に声をかける。その褪せた金髪は汗でぐっしょりと濡れていた。その髪を掻き揚げてやる。
「……オッサン……。」
震える声に私は腕の力をひときわ強くする。私の胸の中で、勇者は私の服を強く握っている。
「油断しまくり何じゃねーの?」
「は?」
気づけば勇者に押し倒されて……いない。
「あ、あれ、なンで、」
「熱があるからだ馬鹿者。」
昼間のドラゴンの肉が当たったのであろうか。今になってぼんやりとそんなことを思った。
「その調子なら大丈夫そうだな。ほら、もう寝ろ。」
「……畜生っ、」
勇者は悪態をついてすぐに毛布にくるまってしまった。こんなことならわざわざレイメイに助けを求めに行ってもらうまでもなかったかもしれない。
そこから静かな時間が流れる。勇者の吐息は相変わらず少し上がっているかのようだ。
勇者が病気なら自分の身は安全だ。不謹慎ながらも私の心は肩の荷が下りたように弛緩していた。私もこのテントの中で勇者から最も離れた場所にある自分の寝床に勇者に背を向け横になる。実際はすぐ隣なのだが。すぐに眠気が襲ってくる。
「……なあ、オッサン。」
「なんだ、まだ起きていたのか。」
寝ろ、と口にしようとした瞬間、後ろから抱き締められた。
「………。」
何も言わずじっとしていると、すぐに静かな寝息が聞こえてきた。背中に、額をこすりつけられる。
もう新しいとは言い難いテントの隙間からもれる朝の光の中、私は今度こそ眠りに就いた。