漆黒の馬<前>
少し長くなったので前後編に分けさせて頂きます、すいません
ラピスが疲労している。
当然だ。あの辺境の村より、速度は無いものの大の大人二人を乗せて数日の間駆けて来たのだ。
「すまない……。」
私は純白の愛馬の背に触れ、優しくブラシをかけながらここ数日の苦労を労った。
「おい、オッサン。早くしろよ。」
私の大切な白馬の疲労の最大の原因は、街外の宿屋の馬舎の入口に寄り掛かり、間抜けた顔で欠伸をした。……しかし、怒ってはならない。この様な奴でも、一応神に選ばれし男―――即ち、勇者であるのだから。
「……黙れ。少なくともコイツとは貴様より長い付き合いだ。優先度の違いも解らんのか。」
「おー、ひでぇ。勇者様に向かってそれはねぇんじゃねぇのか?」
………。
……奴の言う事も尤もなのだ。私は一介の騎士に過ぎず、そして目の前の男は「勇者」なのだから。本来なら尊び、守り、奉るべき存在。……しかし。
「私は貴様を認めてはいない。」
ラピスの頬を撫ぜてやると、私の最愛の馬は優しく目を細め、その鼻を私の手に擦り付けた。
「フフン、オッサンが認めなくても俺が勇者っつう事実は変わんねぇよ。行くぜ。」
私は大きく一つ溜め息を吐くと、ブラシを馬舎の壁に戻し、もう一度ラピスの頬を撫ぜてから勇者に付いてその場を後にした。
「―――で、何処に行くのだ?」
「取り敢えず酒、だろ。」
ニヤ、と笑う勇者の横顔を見ながら私は早くも後悔した。……何故先に用件を聞かなかったのか。彼奴と酒なんぞ飲みに行くくらいなら、ラピスの側に居てやりたかった。
「……ならば、その前に新しい馬を買いに行かないか?」
流石にラピス一頭にこれ以上の距離を規格外の重りを背負った状態で走らせるのは良心が咎める。
只でさえ私があの村に留め置かれた3ヶ月間、かなり自由にさせていたのだから、いきなりのあの移動には相当堪えている筈だ。
「あー……。別に良いが……。俺、金ねぇよ?」
………まあ、そうであろうとは思っていたが。宵越しの金は持たない種類の人間か。
「……金なら、私が王から預かってきた物がある。かと言って、決して膨大では無い……貴様の小遣いにするつもりは毛頭ないからな。」
「……チッ。」
あからさまな勇者の舌打ちに内心自分も舌打ちする。小金位なら自分で稼げ、糞ガキが。
「ああ〜、ダリィ。面倒臭ぇ、もうオッサン勝手に見て来てくれないか? どうせ俺が見たって馬とか解んねぇし。」
……そうしたいのはこちらだって同じだ。何が楽しくてこんな奴と行動を共にせねばならぬのだ。私だって面倒臭い。しかしこれは全て我が馬の為。
「……貴様、相性の悪い馬の上に乗って振り落とされても私は知らぬぞ。」
「ならアンタの馬に乗るさ。」
「ラピスは私以外の人間に手綱を取らせない様に躾られている。」
勇者はまた短く舌打ちをしたが、黙って私の後ろをついてくる。勝った……。妙な高揚が体の内から沸き出してきたが、直ぐに沈める。流石に大人気ないではないか、その様な感情は。
「着いたぞ、勇者。好きな馬を選ぶが良い。」
宿屋から数十分程歩いた所に、馬を扱う行商人が来ているとは事前に聞き知っていた。
「おやァ? その背中の剣、兄ちゃん勇者かい?」
退屈そうに番をしていた小太りの男が、物珍しげに勇者に声を掛けた。年齢は……私と同じ位か少し上の様だ。
「まあ、そう呼ぶ奴もいるぜ……。」
勇者はニヒルな笑みを浮かべ、男に近寄り、その頬を愛しげに撫で始めた。……な、何をやっているのだ、彼奴は!?
男は、顔を赤く染め、勇者から目を逸した。勇者はすかさず腰の辺りに腕を回し、甘い声で囁く。
「なぁ、俺馬って解らないんだよな……優しく教えてくれよ。ついでに格安で売ってくれれば今晩空けてやっても良いぜ……。」
「は、はい……! 」
勇者……………貴様!!
辞めんか! と私が一喝する前に、勇者は男に連れられて奥の方に行ってしまった。私は一際大きく溜め息を吐き出す。
ふと、一頭の馬が目に入った。
全身漆黒のそれは、他の馬と少し離れた場所に隔離してある様だった。私は、吸い寄せられる様にその馬に近付いて行く。
「あー、その馬、ダメだよ?」
急に幼い声が聞こえて来て、私はバッと振り向いた。
「驚いた? アハハ、ゴメンねー?」
それは、少年の様であった。栗毛の馬に跨がっていたが、ひらりと降りてこちらに向かって来る。
「……ダメ、とは?」
私は少年に問うた。どうやら此所で働いているらしい。自分が乗っていた馬を手早く近くの木に繋ぐと、麦藁帽を被り直しながら私の側で立ち止まり、黒い馬を見やる。
「うーん、見ての通りかなり良い馬なんだけどね、誰にも全然懐かないどころか人が近付くと暴れちゃってさ。」
そうか、と私は馬を見やる。その馬の瞳は、孤独の色をしていた。
「……おい、オッサン。帰るぞ。」
哀しいかな此所数日で嫌と言う程聞いた声に振り返る。
「……良い馬が見付かったのか?」
勇者は、焦茶の馬の手綱を引いている。……どうやら見繕って貰った様だ。馬を知らない者が選ぶそれでは無い。
「ああ、ククッ、金払っといてくれ。……ん? ソレ、何だ?」
勇者は私達が見ていた黒馬に気付き、目を細める。
「………勇者、貴様に操れる馬では無い事だけは確かだ。」
「……ンな事言われっと益々気になるなァ。……ま、振り落とされちゃ叶わねぇし、今回はこの馬で良いぜ。」
よっこいしょ、と、勇者は気怠そうに馬によじ登ると、男に「夜、酒場で待ってるぜ。クハハハハッ!」等と言い置き、よたよたと去って行った。
「……アノ人、本当にオジサンの仲間? って言うか本当に勇者?」
隣りの少年がぽつりと洩らした。……全く同意だ。奴はこの数日の間に、幾ら私がレクチャーしても、乗馬についての何も上達しなかった。私は本日何度目かの溜め息を吐き出し、男に勘定を頼んだ。
昨晩、勇者は戻らなかった。まあ良い。お陰で久々に好く眠れた。未だ日の出無い内に目覚めた私は狭く硬い宿のベッドの中で一つ寝返りをうった。
移動中は全くと言って良い程眠れなかった。原因は言わずもがなあの男である。泊まる宿も無い為、奴のテントで寝泊まりしているのを良い事に、私が少し油断しようものなら直ぐに押し倒そうとしてくるのだ。
一々反応するのも面倒になり、放っておけば良いのではないかという妙な境地に一瞬達した事もあったのだが、それも奴が只エスカレートするのみという現実の前に遇えなく費えた。
私はベッドから降りて、軽く着替え部屋から外に出た。この街には未だ後数日滞在するつもりであるから勇者の散らかった荷物は今は取り敢えず無視する。
「お早う、ラピス。」
馬舎のラピスに餌をやり、その隣りにある小さな広場で朝の鍛練を始める。
1、2、3、4とリズムを作り、剣を振るう。少しづつペースを上げ、見えない敵に刃を突き立てる。何時の間にか夜は完全に開けていた。
「あっ、いたいた、オジサァーン!!」
何処かで聞いた声に剣を持つ手を止めると、そちらに目をやる。
「ああ、昨日の……。」
どうかしたのか、と声を発する前に、少年は慌てた様子で喋り始めた。
「オジサン……ああっ、昨日の黒い馬をっ、あの勇者サン乗って何処かへ……! あ、あいつ何時誰を攻撃するか解らないからっ……!!」
私は直ぐさま剣を鞘に収めた。
「場所は分かるのか!?」
「わっ、分からない! 昨日からジミー…店長も戻らなくって!!」
「………乗れッ!!」
あの糞勇者が!! 一体何が目的だ!? 私はラピスを馬舎から出しながら飛び乗り、上に少年を引き揚げると、取り敢えず街の中心部に向かい走らせ始めた。
「オ、オジサン。」
「何だ!?」
「い、今言う事じゃないと思うけど……良い馬だね…。」
「そんな事思っている暇があればあの馬が行きそうな場所でも考えろ……!! 勇者のバカではあの馬は制御出来ん筈だ!」
「そんな事言っても分かんないよォ!!」
ラピスと私達は幾度と無く朝の街人と衝突しそうになりながらも、徐々に中心部に向かって駆けてゆく。
「あ、いたっ!!」
「何!?」
少年の声に急いでラピスを方向転換させる。
「何処だ!?」
「ほらっ、アレ! 人がいっぱい集まってる……!!」
………拙いな。
かなり遠目にだが、それでも黒馬は見るからに暴れていた。自らに跨がる無礼者を振り落とさんとして。近付くにつれ、集まる人々から悲鳴に近い声が上がっているのが分かる。
ヒギイイイイイイイ
突如、黒馬は嘶きとは程遠い様な奇声を発して、野次馬が騒ぎ立てる一角に、猛然と突っ込んでいった。
「ああっ!!」
「……チッ。」
少年が私の腰を抱く腕の力を強くする。きっと無意識なのだろう。
野次馬達が一斉に離散し始める。それが私達の進行を阻み、苛立ちを募らされる。
「この糞勇者!! 今直ぐ馬を降りろ!!!」
可能な限り近付き、声を張り上げる。直後ラピスから飛び降りて、彼奴の方に駆け出した。続かんとする少年を手で制してラピスを頼むと言い置く。
「おお〜、オッサンじゃねぇか。」
黒馬に振り回され、ほぼ宙に浮いている様な状態にも関わらず勇者は呑気な声を上げる。
「ふざけるのも大概にしておけ! 早く馬から降りろ!!」
そんな勇者の態度に血管がはち切れそうな私は、それでも努めて冷静に勇者に叫ぶ。
「いやァ、出来れば俺もそうしたいんだがな。………馬が止まってくれなきゃなァ……。」
黙れと叫びそうになるのを懸命に堪えて、私はばさりと上着を脱いだ。上着を右手に、その侭馬の前に回り込む様に走る。
「オジサン、馬の前に出たら危ないよ!!」
「その様な事、私が心得ていない筈無かろうが!!」
一気に黒馬までの距離を詰め、新たな対象物を見つけ突進してくる馬に向い、また私も速度を上げる。
「オイッ、オッサン、何を……!」
「危ない!!」
勇者が目を見開き、反対に少年はギュッと閉じた一瞬間、私と漆黒の馬は、接触をした。
「………あ……?」
次の瞬間、私の目に飛び込んで来た勇者の顔は、信じがたい物を見た時のそれであり、今度は少年のそれもまた同じであった。
「……今後は一切の助太刀はせぬ。よく肝に銘じておけ。」
馬は、今や完全にその歩みを留めていた。
私の目の前には勇者の顔。距離は、己の脚と奴のそれが触合う程。尻は馬の漆黒の背の上に。手の中には私の上着の端。残りは、
馬の、美しく長いその顔を、隠すかの様に。
「オ、オジサン……!!」
少年がラピスを引いて走り寄ってくる。その大きな瞳には、微かに何かが滲んでいる。
私は唖然とする勇者を置いて、上着を馬の顔に巻き付けた侭地面に降り立った。継いで、我に帰った勇者も慎重に降馬する。
「……なぁオッサン。何で、こんなあっさり?」
俺の言う事は全く聞かなかったくせによォ、と勇者はじとりと黒馬を見詰めた。
「馬を始め、動物の中には視界を奪うと大人しくなるものが多い。」
「分かってるよォっ、そんなのっ! でも、危ないよォ。」
少年は堪えていた涙をポロポロと零し、私の腰に抱き付いた。
「……すまない。」
あったばかりの彼に、此処までの心配をかけてしまうとは、騎士失格だ。優しくその頭を撫ぜてやりながら周りを見渡すが、こっそりと見ていたらしい野次馬の残党が、ほっとした様子で語り合っているのみで、大した怪我人も出ていない様だったので取り敢えず一息つく事が出来た。
「………さて、勇者よ。」
私は、その場をコソコソと立ち去ろうとしていた背中を見過ごさなかった。
「……何だ?」
不機嫌そうな勇者の瞳を、鋭く射返す。
「惚けるのも大概にしておけ。……取り敢えず先は理由を聞こうか?」
「……チッ。」
勇者は逃れられないと悟ったのか大人しく口を割った。
「ジミーのオッサンから聞いたんだよ、その馬の事。なんせ、すげぇイワク付きの馬らしいじゃねぇか。」
曰付き……? 人に懐かない馬とは聞いていたし、今し方見て確認したが。少年の方を見ると、彼もまた解し難いといった表情であった。
「曰とは……?」
私が眉根を寄せ問うと、勇者は意外だと言う様に説明を始めた。
「オッサンが言うにはよ、ソイツ、山奥の何とかって教会だか何だかっていう場所がある日魔物に襲われたって時に、唯一その場に残ってたらしいぜ。そんで、こんな見た目だしよ、悪魔が乗って来た馬じゃねぇかって言われて、金持ちやら何やらの間を点々とした後、あのオッサンが買い取ったらしくってよ。高い値が付くのを期待してたらしいが、……ククッ、誰にも懐かねぇもんだから早いトコ厄介払いしてぇっつってたぜ。」
「………この馬に、そんな秘密が……。」
ぽつりと少年が洩らす。
「………で? この馬の事は分かった。では何故貴様がこの馬に乗っていたのだ?」
私が勇者を見据えて言うと、奴は大きく溜め息を吐き出し、言葉を繋げた。
「なぁに、少しばかり懸けたんだよ。酒場のマスターとな。ジミーのオッサンが飲み過ぎで潰れた後よ。さっきの馬を乗りこなせたら、今日の酒代タダにしてくれるっつーからさ。んで、マスターと一緒にオッサンを運んで、いざ馬に乗ったらば、……ククク、後は知っての通りさ。全く、俺とした事が。」
私は顔をしかめた。まさかそんな下らない理由でこんな目に合わせられるとは。少年の顔も似た様なものだった。
私は黒い馬の今は見えない頬を、上着の上から撫ぜてやる。そのまま、首、背へと。こうして触れると、本当に良い馬だ。馬は、少し身動ぎをした。
「取り敢えず、帰ろうか。」
少年に言えば、彼は小さく頷いた。ラピスはその侭少年に預け、黒馬は私が引く事となった。勇者は私と反対側に立たせる。
馬は、視界が塞がれているとは言え、余りにも静かであった。
<前編・終>