愛川の日常①
薄暗い洋館で、私は目を醒ました。
天蓋のついたベッドは、まだ夢を見ているような気分にさせてくれる。
それでも、ちゃんと起きなくちゃいけない。
今日から新年度が始まる。
私は隣で寝ている小柄な同級生を見た。
かわいらしく切りそろえられた前髪をそっと撫でる。
彼女が不機嫌そうに呻いた。
「起きて、茜さん。今日から学校だよ」
「香織……か……ちゃんといるね」
「うん。大丈夫」
「先に、準備していて……くれ……」
そう言って茜さんは布団の中で、もぞもぞと動いた。
彼女の家に泊まるようになってから少し早起きになった。
薬缶を火にかけてから、制服に着替える。
いつも通りインスタントコーヒーを2つ用意したカップにいれて、昨日作っておいた弁当をカバンに詰め込む。
そうこうしていると茜さんが辛そうな表情を浮かべながらやってきた。すでに高校の制服に着替えている。スカートが苦手な彼女はブレザーとスラックスをかっこよく着こなしていた。
「朝は。学校で。食べよう」
茜さんがあくびをしながら、シリアルバーを二本掴んで放るようにカバンに入れる。そうして、私が用意しておいたコーヒーを一気に飲み干した。私も一緒に飲む。
「足りないな……」
「最近ちょっとずつ減らせているし、もう少しがんばってみよ?」
「その通りだね……」
茜さんはそう言って、カップを洗面台に置いた。
彼女が私を振り返る。差し込んでくる日差しが彼女にスポットライトを当てているようだった。
「行こうか。香織」
「うん。行こう。茜さん」
私たちは洋館の重たいドアを開いた。
私たちの通う高校は洋館のすぐ近くにある。なにせ茜さんは館に住む理由作りのためだけにこの高校を選んだという。
学校がすぐそこにあるのはとても便利だ。
その間に、崖のような坂道さえなければ。
「また今日からこの坂を毎朝登ると考えると気が遠くなる……」
「館が上と繋がっていたらよかったね」
「たしかにその通りだが……おじいちゃんはいつも車で来ていたからそんなこと考えなかったのだろう……」
信号を待ちながら登ってきた坂を振り返る。
地元の人々からハケと呼ばれているこの崖には、古くから残る神社や公園があり、そこにある木々が林を作り出している。茜さんのおじいさんは、この地の雰囲気を気に入ってあの洋館を建てたらしい。
「君、青だよ」
茜さんに声をかけられて、ハッとする。
道路を1つ挟んですぐに学校だ。向かい側の歩道にはすでに同じ高校の生徒がぞろぞろと歩いていた。
その中に、見慣れた女子生徒が一人。
彼女も私たちに気が付いて足を止めた。反対側で待ってくれている彼女のために、小走りで横断歩道を渡る。
「お、おはよう。草刈さん」
「おはよう。早苗」
「おはよっ!二人とも」
彼女の名前は草刈 早苗さん。私と茜さんとは1年生の時にクラスが一緒だった。
草刈さんは優しくて、気さくで誰にでも声をかける人だ。内気な私が高校に入って初めて声をかけてくれたのは草刈さんだった。茜さんもそうだったらしい。
「また学校が始まるってワクワクするね」
「本当にそう思うのかい? 近くを歩いている同級生たちを見てごらんよ。春休みが終わって憂鬱としている」
「うーん。確かに春休みが終わっちゃったのは残念だけど、でも、新しい生活も楽しみでしょ? あ、そうだ、また3人で同じクラスになれるといいね!」
いつも通りの明るい笑顔で話す草刈さんは太陽のようだ。草刈さんが話している時は自然と周囲が明るくなる。
茜さんも自然と言葉数が増えて、いつも固い表情が和らぐ。
その様子を見る度に思ってしまう――敵わないなんて。
校門で門番のように立っている先生に挨拶をして校舎に入る。階段で3階まで上がると、廊下が同級生で埋め尽くされていた。貼りだされたクラス割の紙の前に人が集中していたからだった。
私の名字は「愛川」で、茜さんの名字は「恐谷」だから上の方が見れればすぐに見つかるはず――ガラでもないけれど、少しジャンプしてみる。
「あ、あった。私と茜さん一緒だよ。4組」
「そうか。それはよかった」
茜さんは思ったより薄いリアクションだった。朝で元気がないのはわかるけど、少し寂しい。
「あ、私も4組だ! これでまた3人一緒だね!」
草刈さんが私たちの方に振り返って、手を振っていた。
教室に入ると、すでに席が指定されていた。私はここ数年連続の一番前の席。茜さんは同じ列の最後。草刈さんは次の列の後ろから二番目。
荷物を置いたら茜さんの席に行って、シリアルバーをもらう。
草刈さんは他のクラスの友達に会いに行ったらしい。
「そういえば、香織。あのことは早苗に言うのかい?」
「あのことって……?」
「香織が今、私の家でほとんど寝泊まりしていることさ。さっき聞かれたんだよ。どうして今日一緒に登校したのかって」
私は今まで電車で学校に通学していた。そのことを知っている草刈さんからしたら、私と茜さんが一緒に登校していたのを疑問に思ったのだろう。
「ん? でも、それがどうしたの?」
「確認だけど、香織。君は、しばらくあの家で過ごすつもりだろう?」
「うん……もし、いさせてもらえるのなら」
「それなら今朝みたいに一緒に投稿するのが日常になるだろう。だから、早苗くらいには事情を話した方が良いのかもしれないと思ったんだ。ただ、君の個人的な話も含むから、勝手に話していいかわからなかったんだよ」
「うーん。私は、別にいいと思うよ。草刈さんは私の事情も、茜さんの事情もわかっているだろうから」
そう答えた私の言葉に、茜さんはすこし戸惑い……
「君は――いや、別に隠すことでもなかったね。早苗にまた聞かれた時は、ちゃんと話そう」
そういう茜さんはまだ何か心配事があるのか、少し不安そうな様子だった。
不謹慎だけど、不安そうな茜さんはとても可愛くて、私は大好きだったりする。もちろん普段の茜さんも大好き。でも、いつも猟犬のような鋭い目付きで周囲を見ている茜さんが、街角でおびえる子犬のようなのはなんとも愛くるしい。
「香織。私の顔をやけに見つめているけど、頬に食べカスでもついているかい?」
「ご、ごめん」
「いいや、フフッ。君は相変わらずだね」
茜さんは頬杖をつきながら、そう言って笑った。少しぎこちなかったけれど。
私が茜さんになにかを言う前に、教室に肩幅の広い男性教師が入ってきた。前年度も担任だった木枯先生だ。
教室のどこからか「またコガセンかよ」という声があがった。
「まったく……ホームルーム始めるから席につけー」
木枯先生は呆れた口調でホームルームを始めた。先生から短い挨拶があった後に、私たちはすぐに体育館に移動させられて、始業式に参加することとなった。参加と言っても先生たちの長い話を聞くだけだ。校長先生の話の最中、ふと後ろを振り返ると、茜さんがゆっくり舟をこいでいた。
そうこうしているうちに始業式も終わって、教室にもどって木枯先生から数週間の予定の説明があった。
「連絡は以上だ。何か質問はあるかー? ないか。よし、じゃあ、愛川。挨拶頼む」
必ず一番前の席になる名字の宿命だ。目立つのは苦手だけれど、こればかりは仕方ない。
「き、起立……」
「あ、そうだ。愛川と恐谷はちょっと話があるから後で来い」
突然でしかも茜さん込みでの呼び出しに気が動転した私は、礼のタイミングを逃してしまった。結局、私は新クラス最初の笑い者となった。
「さっきは急に声かけて悪かったな。愛川」
「いや。大丈夫です……ハハハ」
私は乾いた笑いしかでなかった。
後ろの席から怪訝そうな顔をして茜さんもやってくると、先生が教室の扉を開けた。
「んー。よし、じゃあ保健室に行くぞ」
「え? なんでですか」
「きっと芳川先生の呼び出しだろう。彼女、妙に私のことに突っかかるからね」
芳川先生はこの学校の養護教諭――いわゆる保健室の先生だ。
一階まで下りて、図書館の隣にある保健室へ向かう。
先生がノックをすると、「どうぞ」と若い女性の声が返ってきた。
「失礼します」
扉を開くと、保健室独特のにおいを含んだ空気がやってくる。
白衣を着た芳川先生が、めくっていたファイルから顔を上げて立ち上がった。
「あ、木枯先生。恐谷さんを連れてきてくださったんですね。ありがとうございます。となりの部屋使えますよ」
「ありがとうございます。じゃあ、ちょっと愛川は隣の部屋で話すか」
「わかりました」
隣の部屋。というのはカウンセリングルームだ。こぢんまりとした一室が週に数回訪れるスクールカウンセラーのために用意されている。
なかなか来ない部屋なので落ち着かない。本来なら生徒指導室を使うはずだったが、わけあって使えないらしい。
なんとなく茜さんのことも気になって、保健室の方を見てしまう。
「恐谷、調子良さそうだったな」
「え、あぁ、はい。そうですね。最近はちゃんと眠れているみたいですし……大抵私が先に寝ちゃうんですけど」
「そうか――あぁ、すまん。座っていいぞ」
「し、失礼します」
私は席についた。話題はなんとなくわかっている。
「昨日。またお母さんから電話があった」
「すいません」
「いや。まぁ、とりあえず話を聞かせてくれ。一応、お母さんからの電話は、『娘が登校したら知らせてください』ってことだった。電話して大丈夫か?」
「あ、はい。大丈夫です。すいません。ご迷惑をおかけして……」
母は、私からのメールなんかより先生からの連絡のほうがよっぽど信頼できるだろう。
そんなことを考えると、白い壁が、ただ黒くないだけのように思えた。
いいや。ずっと前からそうだったんだろう。ただ、最近は茜色で鮮やかに見えていただけで。
「まだ、お母さんとは仲直りできてないのか」
「仲直りとか、そういうのじゃないんだと思います。なんていうか、私が潰れちゃっただけで」
「ふむ……なんていうか詩的な表現だな」
「そう、ですか? すいません」
「いや。いいんだ。うーん。なんていうか、お母さんと話ができる場所を用意しようか?」
「――このまましばらくは茜さんのところにお世話になります」
「そうか……」
はいともいいえとも言えなかったのは、私の逃げだ。
はいと言える勇気もないし、いいえと言えるほど正直になれない。
「どうだ。恐谷との生活は」
「はい。とても気楽で、おじいさんの本とかも読ませてもらったり、あと、ちょっと散歩にでかけたり。お買い物とかも、夕飯どれくらい雑にしちゃおうかとか話して」
「ハハッ。愛川は恐谷のことになると、楽しそうだな」
「そ、そうですか?」
少し照れくさいと思いながら、最近あったことを思い出す。
「あ、そうだ。あの、アルバイト始めました。コンビニの……。ごめんなさい。申請してないのに……。でも、いつまでも茜さんのお金で生活するわけにはいかないですし……」
「愛川はそういうところ真面目だよな。まぁ、一応書類はあるけどほとんど形骸化しているし……学業に影響があるようなら、すぐに辞めさせるけどな」
「わかりました」
「もし、何かあったら俺や芳川先生に相談してくれ。直接話しにくかったら、手紙とかでもいいから」
「ありがとうございます」
会議があるからと、木枯先生は職員室の方に戻っていった。
保健室では茜さんと芳川先生が談笑していた。
「茜さん」
「あ、香織。面談は終わったのかい?」
「うん……この後、私はバイト行くけど、茜さんはどうする?」
「あぁ……しばらく芳川先生と話しているよ」
「わかった。じゃあ、先に帰るね」
私たちの会話をあたたかい眼差しで見ていた芳川先生に一礼して、私は洋館に戻った。
本当は茜さんと一緒にいたかったけれど。
その日の夜。
アルバイトから戻って、シャワーを浴びる。
夕飯は茜さんが作っておいてくれたシチューだ。
片付けなどが終わって、私と茜さんはいつものように同じベッドの上で本を読んでいた。
私が何度か目蓋をこすった時、黙っていた茜さんが呟いた。
「香織。寝る前に少し話を聞いてくれるかい?」
「うん。いいよ」
茜さんは本をすぐそこにある本棚に戻した。ベッドサイドのライトの光をしぼって、横になる。
1人には大きいベッドも2人ではほとんど肌と肌が触れ合うほどの距離にいる。
さらに、茜さんが私の方へ身を寄せた。少し、自分の体温が上がるのを感じる。
「芳川先生。なんだって?」
「ん? 何も問題はないさ。春休みの間に何回吸ったか聞かれただけさ。まぁ、彼女からしたら0本が理想なんだろうけれどね」
「吸う」というのは、カフェインのことだ。
茜さんは中学時代からカフェインを人以上に摂取していて、海外製のカフェインを吸う電子タバコのようなものまで持っている。いよいよ急性中毒も起こしたこともあるらしい。
それに、私と茜さんが話すようになったのだって、カフェインのせいで倒れている彼女を助けたことがきっかけだった。
茜さんがカフェインを吸うようになったのは、眠りたくなかったからだと聞いている。
眠ると明日が来てしまうから。
「香織。明日もここにいてくれるかい?」
「もちろんだよ。茜さん」
「よかった」
時々ベッドでするこのやり取りが、なぜだかとても落ち着く。
「明日も、明後日もここにいるよ。話聞くよ。茜さんのこと好きだよ。だから、ずっとここにいるから――ずっとここにいさせて――」
私は茜さんに薄れゆく意識の中で語りかけた。祈るように、縋るように――