元気じゃなくても歩こう、歩こう
春先のことだった気がする
その季節にしては異様ともとれるほど心地よい気候の日。不気味なほどに柔和な気温の中、二人の兄妹は散歩をしていた。
頭上高くの梢には穏やかな色彩の花々が蕾を生み出しはじめている。にもかかわらず寒さの息吹は名残惜しそうに土の上を這う。
遥か高みにある太陽の、真綿のように優しげな日光の暖かさ。風にわずかながら含まれる炭酸水のような寒さ。
それらが偶然の上で、まるで必然的に混ざり合い溶け合い、異常ともとれるほど人間にとって居心地の良すぎる世界を生み出していた。
しくしくと落下する涙に似た寒さを感じつつ、それでも無意識の内に暖かな気候に対してうららかな浮かれ具合をもよおしてしまう。
その日に生きている人間のおおよその大多数が、そんな気分におちいっている。
二人の幼い兄妹もその類に外れず、温暖な世界に戸惑いつつも喜びを感じ取っていた。
まだ若い、あまりにも若すぎる二人の男女。こんなにも気持ちいい世界がすぐ近くで笑い声をあげているというのに、大人の言いつけを守って扉の奥で大人しくしているなど、彼らにとっては拷問に等しい選択でしかなかった。
とにかく暖かい日。
機嫌の良い温和な女神がほほ笑んだらこんな感じになるであろう、ポカポカとした日光の下。兄と妹は肩を並べてゆっくりと歩いていた。
互いの腕の中には大きめの紙袋が収められている。つい先ほど近所のスーパーで購入した、野菜だったり肉だったり、少しのお菓子などがぎっしりと詰め込まれ、兄妹の歩調に合わせながら紙製の袋の中で右に左にと揺れていた。
空は高く青く、土の上には葉脈鮮やかな草が生えている。兄は思わず高らかに歌いだしたくなるような、しかし妹の手前はずかしくてそんなことは出来ない、そんな気分になっていた。
「ねえ、お兄さま」
妹が兄に話しかけた。自分よりも背の高い彼を見上げ、瞳に射す日光に目を細めている。
「ねえねえ、お兄さまったら」
彼女の声は、これ以上の幸せなど望まないとでも宣言しているかのように、甘く満ち足りていた。
「……」
しかし兄は妹の声に返事を返さず、いかにもわざとらしい沈黙を作っていた。
「お兄さま?」
待てども待てども会話のための言葉を返してこない兄に対して、妹は純粋な不思議を抱き始めた。
「どうしましたか、今日はずいぶんとお静かですね」
真っ直ぐに自分を見つめてくれる、二つの丸い大きな瞳。
血液の色を強く表しているその色彩に、兄はいたずらっぽい表情を作ってみた。
「二人っきりの時は」
「はい?」
「二人っきりの時は……、名前で呼んでくれないか」
今度は妹の方が沈黙を表す番になった。
会話のない空間に兄は頬が熱くなるのを感じる。
彼にとっては割と本気の提案であったのだが、やはりこうして言葉にしてみるとどうしても、腹の内がもぞもぞとするような気恥しさが出てきてしまう。
数秒経った頃、妹の胸から押し殺すような、しかしおさえきれていない笑みが生まれ始めた。
柔らかそうな桃色の唇から、兄に対しての呆れともとれる空気がぷすぷすと吹き出している。
「笑うなよ」
兄は妹の反応に若干照れを浮かべつつ、あくまでも真剣さを失わないよう努めた。
妹はしばしの間笑いに体を預けた後、深く息を吸い込んで呼吸を整えた。
「そのうち」
そして溜め息を吐くついでに、兄の要求に答えてみた。
「その要求はそのうちに、かんがえてみます」
はぐらかすかのようなその応対に、兄は若干不服そうにする。
くだらない、どうでもいい要求であることは彼にも十分自覚してはいる。それでももう少し真剣に取り合ってほしいと、彼の内側の子供っぽさが我がままを主張していた。
妹は兄のそんな感情を素早く感知し、己の内でもう一つ呆れの溜め息をつきつつ仕方なしに譲歩を提案してくる。
「呼び捨てはまだ少し恥ずかしいですし、それに関してはまたいつかにお願いします。その代わりに」
彼女はおもむろに片手を紙袋から離し、唇を使って器用に身に着けていた手袋を外した。
そして素肌が露わになった片手を、それとなくうつむき加減で兄に向けて差し出す。
「ここからお家にかえるまで、その………」
彼女は自分からの提案を言い終わるより先に、皮ふを上気させて言葉を詰まらせてしまった。
それだけで、兄は妹が自分に何を要求しているのかを理解した。
そんな簡単なので良いのか。そう疑問に思いつつ、何も言うことなく彼女に向けて自分の片手を差し出す。
今度は兄の方が妹に笑みを向ける番だった。
妹が恐る恐る、薄橙色の皮ふに包まれた兄の手を掴んだ。
兄弟は硬く手を握り合う。人間らしい柔らかい皮ふと、あまり人間っぽくないざらざらとした皮ふが、密着による湿り気の中で溶け合った。
妹の鋭角な爪が兄の手を軽く引っ掻いた。
「爪がいたくないですか?」
幼い体の妹が不安そうに尋ねる。
「全然、そんなことはねえよ」
兄は妹に言葉を返した。
太陽は空の頂点をすでに登り終え、あとは夕闇に向かってゆっくりと天空を滑り落ちようとしている。
夜に備えて色を濃厚にしようとする影。出来ないと解っていても、兄はそれらを打ち払いたくて妹の手を握ったまま空を仰ぎ見る。
眩しさが瞳を刺して、生理的な涙に視界がじわりと潤んだ。
年がら年中、くしゃみばかりしています。