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二階に消えていく鳴海の背中を見送って、わたしは売店の横に置いた石油ストーブに手をかざした。チケット売場では早川が早速片づけを始めている。
「ああ、春が来てくれてよかった」
何気なく呟いた言葉に、早川が不思議そうに振り返る。
「春? 冬じゃないんスか?」
「冬の間しかやってこない、春。なのよね」
わたしの答えに意味がわからないと言うように首を振って、早川は再び手を動かし始める。
『春』がやってくることは、この劇場の存在価値そのものだといってもいいかも知れない。
はじまりは明治二十五年にまでさかのぼる。
ここには小さな芝居小屋があった。名のあるお寺のお膝元でにぎわっていた門前町から少し外れた場所にあった芝居小屋だったが、娯楽の少ない時代のことだ。ずいぶんな賑わいを見せていたらしい。
そこに一人の女がやってきた。
『そのか』と名乗る若く少し変わった風体の女だった。彼女は当時店主だったわたしの曽祖父に冬の間だけ住み込みで働かせて欲しいと頼んだ。素性がまるでわからない女だったが、なにか深い事情があるのだろうと曽祖父は快く受け入れた。
女は愛嬌のある笑顔を振りまいて、くるくるとよく働いた。そのおかげか芝居小屋は繁盛した。
次の年も、その次の年も、女は冬になるとやってきた。すっかり看板娘になっていた女に気に入られようと、噂を聞きつけた旦那衆は足しげく芝居小屋に足を運んだ。
縁談の話もいくつかあったが、女は全て断った。どんなに良い縁談でも、決して首を縦には振らなかった。
いくつかの冬が過ぎたある年、一人の青年が東京からやってくる。
名は『三隅春継』。彼が最初の『春』だった。
女は三隅に出会った瞬間から心を許していた。
「ああいうのを運命の恋人と言うんだろうな」
後に曽祖父はそう語った。
三隅の方も女に一瞬でほれ込んだらしく、近くに宿を借りて毎日のように通った。
あるとき、三隅は女に言った。
「一緒に東京で暮らさないか?」
その誘いに誰もがうなずくと思っていたが、女は笑顔で首を横に振った。
「それは出来ません。わたしはただあなたの幸せしか願えないのです」
そう言って、東京へ帰る三隅を見送った。
何年か三隅は冬になるたびにこちらへやってきたが、次第に足は遠のいていった。
「最後に踊りましょう」
これが三隅と会える最後の冬だと悟った女は彼の手を取って、ゆっくりと拍子を踏んだ。
しんしんと雪の降る日だったそうだ。
そして三隅は二度とこの芝居小屋に訪れることはなかった。
それでも女は冬が来るたび、愛嬌を振りまきながら働いた。しかし、縁談を持ちかけてくる者はめっきりと減った。
女が始めて姿を現してから十五年が経っていたが、女は一切年を取らなかった。いつまでも若いままだった。
誰もが、女を人ではないと感じ始めていた。
曽祖父は女を座敷わらしの類だと思っていたらしいが、彼女の言うと「違います」と笑っていたらしい。
けれど実際のところ、女が訪れるようになってから芝居小屋は大繁盛していた。時代の流れとともに活動写真を上映するようになり、次第に劇場へと変化していくようになるのだが、その流れの中で女の存在は大きな役割を果たしていたのではないかと、曽祖父は考えていた。
「座敷わらしではなくても、そのかはうちの大切な守り神だ」
その教えはわたしの代に下ってもなお、大切に受け継がれている。
「その女って、そのちゃん先輩のことッスか」
石油ストーブの炎を眺めがらぼんやりと独り語りをしていたつもりだったが、声に出していたらしい。いつの間にか隣に来ていた早川が口を挟む。
「まあ、そのうちわかるだろうよ」
曖昧に答えて、わたしは差し出されたほうじ茶をすすった。