竜平 1
「いやあ、良い友達を持ってお前は幸せだなあ。竜平」
夕方になって、和真が帰るのを見送って玄関まで行った竜平が部屋に戻ると、ソイツは竜平の机の椅子に座って背もたれをぎぎいと軋ませ、両手をうーんと伸ばしてふんぞり返った体勢でこちらを振り返りながら嫌味ったらしい口調で言った。
竜平は無視して押入れを開けると、奥の方にしまった筈の本を取り出した。多分十年以上しないともうこれを開けて見ることはできないんじゃないかと、そう思いながらしまったのに。捨てるつもりだったのにどうしても捨てられなくて、押入れの奥に押し込めたのに。
「カズちゃんは、昔から馬鹿だ馬鹿だガキだと思ってたけど、変わんねえなあ」
そいつは、立ち上がってふらふらと竜平の周囲を歩きながら言う。
竜平は相変わらずそれには関わらないようにして、本の一冊だけを取り出して、他は前と同じようにしまっておく。この本だって、必要な時以外はベッドのマットレスの下にその他いわくつきの本等と一緒に隠しておくつもりだ。
こういう書籍には、花火の作り方や工程の簡単な流れは記載されているけれども、流石に詳しい作り方や、火薬の配合の仕方及び量などというものは載っていないから、そこまで参考になるものではない。花火を作る仕事は職人から職人へと実地で受け継がれるものだから、そうやって人づてに覚えるしかないのだし。
けれど、それでも読まないよりマシだ。素人が二人だけで打上花火を作るっていうのだから、出来るだけの事はやっておかなければ。和真はすごく単純に、簡単に考えているようだけれど、花火作りというのは危険なのだ。何しろ、扱うのは火薬だ。爆発物を作る、という事なのだ。それがどんなに危険な事なのか、竜平は自覚している。
しているけれど、思わず和真の提案に乗ってしまった。あまりにも、魅力的だった。一度くらい、一度だけ。それをしたら心残りがなくなるかもしれない。それを最後に、諦めがつくかもしれないと、思ってしまった。
罪の重さを知っているのと知らないのでは雲泥の差がある。信号無視と同じレベルの犯罪だと思っている和真と違って竜平は知っているのだから、そして知っていながら和真を巻き込むのだから、できる限り安全にそれをできるようにしなければ。
「それにしても危ないなあ、自分たちだけで花火作るとか。できるの? 爆発して死ぬんじゃない? お前まで死んだら高橋家チルドレン全滅じゃん。おやじとおふくろ、絶望して自殺しないかな。しないか」
そいつは、竜平が無視していても聞いていることを知っている。だから、話し続ける。
「しかしこれでお前もカズちゃんも犯罪者決定だな。バレたら逮捕かあ。火薬取締法では確か、18歳以下は問答無用で花火の打ち上げは禁止だしな」
いい加減無視すんなよ、寂しいだろ。と、とうとうそいつが言った。どちらにしろ、そいつが耳元で喋り続けるから読もうとしている本が全然頭に入っていなかった。だから、もう無視するのを断念してもよかった。それでも無視していたのはそいつの存在がひとえに不快だったから。
そいつは、二週間前の兄の葬式の日に現れた。初めて見たのは、葬式のその場で。兄の遺体の寝ている棺桶の上に座って、行儀悪く片足をもう片足の膝に乗っけてそこに肘を乗っけて頬杖ついたその姿は、兄そのものだった。最期だからと、遺体に母が着せた立派なスーツと同じものを身に纏ってはいるものの、窮屈そうにそのネクタイを緩めて、シャツもズボンには入れていないで、ガラの悪いホストのようだった。
表情は退屈そうで、眠たそうというのが一番よく表しているような気がする。実際、時々あくびなんかもしていた。
死んだはずの兄の姿がそこにあったので、親族席に座っていた竜平は流石に目を丸くしてそれを凝視した。兄の棺のすぐ側では坊さんが兄のためにお経をあげている。その横に本人そっくりそのまま同じ姿のそいつが座っている。鼻くそをほじくったり、時々立ち上がってふらっと歩いて坊さんの輝く頭上を触ろうとしてみたり、変なポーズをとってみたり、やりたい放題だ。でも、一人遊びも退屈と見えて、くだらない事をし尽くした後、また飽きたように棺の上に座って、欠伸なんかをした。それら一連の動作を、竜平は目を白黒させて見ていた。
自分は、頭がおかしくなったのだろうか?
兄は死んだのに、同じ姿の人間がふらふらとうろついている。そのことについて、誰も何も言わない。しかも、あんな阿呆な事をしているのに。坊さんに対する営業妨害をしているのに。っていうか、折角自分の為にお経をあげてくれている坊さんに何てことすんだ。
長い坊さんのお経が終わって、焼香という段階になって、親族である両親と竜平が一番先頭になった。両親の後に立って、その写真と棺おけの前に立つ。そいつは目の前にいた。物珍しそうに両親の顔と竜平の顔をじろじろと眺めて。特に、目をそらしている竜平の顔をじろじろじろじろと見て。
竜平は棺おけの中をちらりと確認した。遺体は、確かにそこにある。静まり返った、穏やかな顔で眠っているように横になっている。
震える手で焼香を済ませて席に戻る竜平の後を、そいつは何故かついてきたらしい。元通り席に着いた竜平は、目の前にそいつが立っていることでそれを知った。葬式の司会が「参列の方々のお焼香を……」と言っているその中で、竜平は俯いて床を見ていた。そいつは、隆平の鼻先10センチ程の距離に立って、竜平を見下ろしていた。にやにやとした視線を感じた。
「よお、無視すんなよ。見えてんだろ」
頭上から声が降ってきた。紛れもなく兄と同じ声だった。竜平は顔を上げた。やっぱり、にやにやと笑っていた。
「見えてんの、お前だけみたいだぜ」
そいつは、兄そっくりの顔で兄そっくりの話し方だった。でも、兄は死んだのだ。遺体は祭壇に安置してある棺おけの中にある。竜平は少しの間硬直していたけれど、慌ててまた顔を伏せて床を見る。
「暇だったんだよ。誰に話しかけても気づかないし、何かに触ろうとしても突き抜けて触れねえの。つまんねーったら」
話し続けるその声が聞こえないようにじっと床だけを見ていたら、やがてチッと耳元で舌打ちが聞こえた。それから何も聞こえないから、しばらくしてちらりと声のしていた方向を一瞥してみたら、誰もいなかった。だから、その時竜平はそれを無理やり幻として片付けた。空耳で幻覚。そんなもの、いるはずない。
なのに、その日くたくたになって家に帰ったら、そいつは当たり前のように竜平の部屋にいた。竜平のベッドを我が物顔で占領して、だらしなく座っていた。竜平が部屋に入ると「よ」と片手をあげて見せた。
「そうだよな、流石に式場だと周りの目もあるから話せないよな。でももう大丈夫だ。ここなら誰の目もないぜ。二人っきりだ。さあカマンマイブラザー」
両手を広げてこちらに差し出してくる。なにこの幻覚。竜平は見なかったことにして、でもいつも座るベッドが占領されているから机の前の椅子に座った。
ここまでされても、この兄にそっくりな姿と声を持つそいつが兄だと認めるのは納得がいかなかった。確かに喋り方も仕草も兄っぽいことは兄っぽい。でも、竜平が知っている兄はもっと落ち着いていたし無口だった。こんなにチャラチャラとした調子でべらべらと喋ってきたりしない。こんな風に、無駄に竜平に絡んできたりした試しがない。竜平と虎太郎は特に仲が悪かったというわけではないけれど、特に仲良しだったわけでもない。お互い部屋は別に持っていたし、兄は高校生で自分は中学生だったから生活リズムも違って、最近は話をすることも少なくなっていた。でも少なくとも、こんな風に酔っ払っているような変なテンションの兄なんて、見たことがない。高校の制服だってシャツはきちんとズボンの中に入れていたし、ネクタイもきちんと締めていた。
「無視してっと、ずっとベッドからどいてやんないぜ。葬式でくたくたに疲れてて寝たいんだろ? ちょっと話しろよー」
痛いところをつかれて、竜平はしぶしぶそちらを見た。そいつはにやりと意地が悪い顔で笑って、立ち上がる。
「いい子いい子。ようやく素直になったか」
椅子に座ったままの竜平の目の前に立って、見下ろして、にっこりと不気味なほど爽やかに笑う。こんな顔の兄なんて、見たことがない。
「お前、誰だ?」
出した声は、掠れていた。
「俺? よく知ってんだろ。お前、自分の兄貴の顔も忘れたのかあ? だいたい今日 葬式行ったばっかだろ」
「兄貴は、お前みたいにチャラくねえよ」
「いやそんな事言われても俺は俺だし。っつーか、お前の俺像がどうかしらんけど、俺こんなもんよ? ガッコとかじゃ」
ははは、とそいつは笑った。その笑い方が、竜平にはどこか投げやりに見えた。
「なに、お前俺のこと物静かで優しい兄貴とか思ってた? まあ、そう見えるかもねえ。親父の望み通り、魚屋継ぐはずだったし、そのお陰でお前は自由に自分のやりたい事できたわけだし? でもさあ」
どことなく、その口調にひやりとした。体が動かせなかった。ただ、目の前の男の顔を凝視していた。
「お前、調子乗ってんじゃねえよ? お前は俺のその犠牲の上で花火屋やりたいとか言えてただけだからね? 俺が魚屋継ぐから気兼ねなくそういう事言えたんだろ? だから俺はお前にとって都合の良い兄、だったんだろうけど」
ばっからしいー、とそいつは叫んだ。部屋中に響き渡るような声で突然。竜平がその声にびくりと体を震わせるのを面白気に見遣って、それから言葉を続ける。
「死んじまった今なら言えるね。なんて俺、馬鹿らしかったんだろう。なんでこんなクソガキの為に、自分は東京の大学も諦めて、魚屋に就職の道選んだんだろ。もっとハッピーな人生の可能性、たくさんあったのに。やってみたい事のひとつやふたつあったのに」
意地悪く意地悪く、竜平を見下ろして。
「俺がいなくなったらさあ。親父、跡継ぎがいなくなるもんなあ。ただでさえ息子が死んで悲しみのさ中な上、自分の汗水たらしてたてた店が一代で潰れるっつんなら更に意気消沈だろうよ。お前、もう高橋家の一人息子だから、全部そういうの、お前にかかってくるんだぜ? わかってんよなあ?」
硬直して、動けないでただ相手を凝視する竜平に顔を近づけて、囁くように、脅すように。
「何固まってんの? 兄貴が死んだのに自分は今までと同じままでいられると思ったの? 不幸な事故って、突然襲い掛かって来るんだよ? 俺にだけじゃなくて、さ」
じゃあそういうことで、よろしく、とそいつは言った。軽く手をひらひらとこちらに振って、部屋のドアに近づいて行ってドアノブに手をかけて、その手がすか、とそれを通り抜けるとチッと舌打ちをして、それから真っ直ぐそのドアに向かって進んで行く。ドアにぶち当たることなく、その姿はドアの向こうに消えて行った。
その日から、そいつはこうやってしばしば竜平の前に姿を現す。いつも不愉快な口調で、不愉快な言葉を吐く。竜平が何を嫌がるか明確に分かっているかのように、聞きたくない言葉を投げつけてくる。
「さっき、本落としたのアンタ?」
努めて冷静に、と意識しながら竜平は本から目を離さずに言う。初めて見た時はものを触れないとか言っていたくせに、こいつは少しならばそれができるようになったらしい。なってしまったらしい。疲れるからあまりやりたくないけどお、と数日前に言っていたけれど。あまりやりたくないけどお、と言いながらその時ベッドのマットレスの下に人目に触れないようにひっそりと隠してあったはずの、竜平所有のある種の本を広げていたのだからどうしようもない。ともかく。それ以来時々、竜平にだけ分かるようにこういう嫌がらせを仕掛けてくる事もあるのだ。
「ご名答」
「やめてくんない?」
「言われてやめる俺とお思いか。むしろそんな声だされたら喜んでもっとやるっつーの。しかも竜ちゃん泣かせちゃったしね。ちょお楽しい」
こちらは超不愉快だ、と内心では言い返すけれど、口には出さなかった。挑発に乗っても疲れるだけだし、喜ばせるだけだ。どうせヤツは自分に直接何か危害を加えられない。ただ、見えて声が聞こえるだけだ。言葉を受け流して、見ないようにすればいいのだ。
ヤツは兄じゃない、と竜平は心の中で強く思う。兄の姿をしているけれど、兄の声を持っているけれど。だって兄は優しかった。自他共に認める仲良し兄弟、という程じゃないけれど、家族だったから兄についてはよく知っていた。小さい頃はよく兄の後について回ったし、成長してからだって時々遊びに連れて行ってもらったりした。交わす言葉数は多くなかったけれど、きちんと竜平を気にかけてくれているのを知っていいた。竜平が花火職人になるといったら「いいじゃん」と笑った。その兄が。アイツと同一であるわけがない。アイツは兄の姿に似せた悪魔的なナニカだ。きっとそうだ。悪魔がきっと、竜平を苦しめる為に兄の姿をして目の前に現れているのだ。
竜平の罪悪感に気がついて。