和真 4
竜平と喧嘩した事は、長い付き合いだから何度かある。あるけれど、今回のような事は初めてだった。唐突に暴力を振るわれるのも、一方的に突き放されるのも、竜平の怒りの理由が全く分からないのも。初めてだった。
でも、一方的に怒りをぶつけられて、一方的に暴力を振るわれたのに、どうしてか和真の中に小さな罪悪感のようなものがあった。胸の中で、小さく小さく。無意識のうちにできていた細い切り傷のように、ふとした拍子に「あれ」と気づくような。そんな小さな気持ちが。
翌日、学校で竜平は和真に謝った。怒った理由を問いかけた和真への、竜平の答えは簡単だった。
「ちょっと、家の空気が暗くてさ。苛々してた」
虎太郎が亡くなってからまだそんなに経っていない。家の中が暗いというのは頷けるし、いくらどちらかといえば落ち着いたタイプの竜平でも、鬱屈してしまうことはあるのだろう。
そうなのだろう、と和真は納得した。したけれど、どこかに違和感を感じていた。何かよく分からない違和感。それは前日感じた罪悪感と似たような感触のものだった。
けれど、和真はそれのことは無視をした。
「イライラで殴られてたらたまんないんだけど」
「はは。悪い悪い」
「反省してるか? 本当に?」
「してるしてる」
そんな会話でこのことは流れてしまった。
花火職人には、ならないのか?
一言がもう一度言えなかった。言ったらまた殴られるかもしれない。恐いのは殴られる事じゃないけれど。いや、殴られるのも痛いし嫌だけど。それだけじゃない。今度こそ、本当に元に戻らなくなるかもしれない。なんでかは分からないけれど、そう思った。
それに、竜平と夏に遊べるならばこんな嬉しいことはないし。
だから、何もなかったことになって、また普通に竜平と帰ったり、遊んだりした。
梅雨の中でも、確実に夏は色を濃くしていた。珍しく晴れた日には日差しは確実に強くて眩しかったし、緑は青々と色を濃くしていた。紫陽花の赤や青の花が終わりを迎え始めて、雑草の生命力が増してきた。この季節、いつも飛ぶように走って帰る竜平が今年はいる。もしかしたら、来年もいるのかもしれない。更にもしかしたら、その次の年も。だけども、以前そうであって欲しいと密かに願った時想像していたように楽しい気分じゃないのはなぜだろう。楽しかった日でも、家に帰るとどこかもやもやするのは何故だろう。魚の小骨がずっと喉にささっているみたいな気分だ。
でも竜平がそれで良いと言っているんだからこれでいいんだ。良いんだ、と和真はその度にいつも自分に言い聞かせた。
和真は竜平の部屋で、竜平のゴミ箱の中に手を突っ込んだ。
今日は竜平の部屋で一緒に遊ぼうとして、学校帰りに制服のまま、竜平の家に一緒に行った。竜平の両親はお店の方に出ているから、家の中には誰もいない。竜平が一階の台所に戻って麦茶を用意している間に本棚近づいて行って漫画を物色しようとしていたら、突然部屋の中のゴミ箱ががらんと音を立てて倒れた。
「え、なんで!?」
和真は驚いて、うっかり独り言をいってしまう。当たり前だけど、答えはなくて、ただ部屋の端のゴミ箱から紙くず等のゴミが床に散らばってしまっている。和真は静止してちょっとそれを見つめた後、立ち上がるのも億劫なので膝立ちで歩いて行って、それを拾い上げては元通りに戻したゴミ箱に入れて行った。
ふと、その手が止まったのは一枚の紙を掴み上げたからだ。それは、二枚綴りのチケットのようで、東京で行われる有名な花火大会の名前が書いてあった。そういえば、もうずっと前にも思える5月ごろ、竜平がそれに応募するという話をしていた。非常に有名な花火大会で、中学生の自分たちにとってはその観覧席の料金と東京までの旅費はかなりお安くない額だったのだけど、竜平は嬉しそうにその花火大会について語っていた。お年玉や小遣いを貯めて、目的の額には達したけれど、有料の席でも結構な倍率の抽選となってしまうから席があたるかどうかが一番心配だ、と。心配と言っている割には嬉々として話していた。その、チケット。
右手にチケットを握り締めたまま、和真は今更改めて気がついたように慣れ親しんだ竜平の部屋の中をぐるりと見渡す。意識して確認してみると、いつの間にか竜平の部屋の中から花火関係のものが全て姿を消している。本棚に入っていた花火や化学関係の本や雑誌、切抜きを集めたファイル。机のマットレスの下に挟んであった花火の写真。
「何してんだよ」
背後から、冷え冷えとした声が聞こえた。手元に気を取られすぎて、竜平が階段を上る音やドアを開け閉めする音も聞こえなかったのだ。
和真は声に振り向いて、立ち上がった。麦茶を乗せた盆を机の上に置いたばかりの竜平に向き直って、手の中のチケットを竜平に差し出す。
「これ、捨ててたから」
「捨てたもんを、拾うなよ」
「大切なもんだから、拾った」
「大切かどうかは俺が判断するよ」
竜平の口調が苛々としている。前と同じだ、と和真は思う。殴られた時と同じ。
でも、聞かなきゃ、と思った。聞かなきゃ、ちくちくと続いているこのもやもや感はずっと解消できない。多分、和真は自分で気がついていた。ずっと気がついていたのだ。竜平が花火職人を目指すのをやめたのを。必死で諦めているのを。だけど、それを気づかないふりをして曖昧なままにしておいた。
兄弟が死んだのなんて経験したことはなかったから、和真には竜平の気持ちは見当がつかなかったし。和真は竜平のように、すごくなりたい将来の夢なんて持っていなかったから花火職人になりたい竜平の気持ちなんてわかってやれない。特に後者は、昔から心のどこかでずっとうらやましかった。一つの事を見据えて夢中になっている竜平が。
進路調査書が配られて、将来のことを時々考えるようになった最近、進むべき道をしっかり見据えている竜平にどこか自分が劣っているような気がして、昔から一緒に並んで歩いてきたつもりだったのに置いていかれたような気がしていた。竜平の隣にいる事に、時々焦りを感じていた。
だから、竜平が花火職人を諦めると知った時、心のどこかで安心したのだ。竜平が自分のところまで降りてきてくれたようで。竜平が知られたくないと思っているんだから、それしかしょうがないんだからと、自分でその感情を正当化して、それを受け入れようとしていた。そんな自分のちっぽけさへの嫌悪と罪悪感をなだめすかして。
でも、違うのだ。こんなのは竜平じゃない、とどこかで和真は思ってしまう。和真がずっと見てきた竜平は、ずっと花火職人になりたくて、なる為に努力していた竜平なのだ。
和真は痛いくらい掌を握り締めて、きっぱりと尋ねる。
「お前、花火職人になるの、諦めたのか?」
竜平の顔が、ぴくりと動いた気がしたけれど、それも気のせいだったのかもしれない。返事をした竜平は静かな声だったから。
「そうだよ」
「諦めんなよ」
「は?」
なんで、と言ったら前のように堂々巡りなってしまうから。和真は自分の気持ちを押し付けた。そうしたら、今度こそ本当に、イラっとした声。それにも負けず、和真は自分の気持ちを更に押し付ける。
「だって、お前の将来はお前のもんだろ。虎太ちゃんがいなくなったって、何でお前が魚屋を継がなきゃいけないんだよ」
竜平は、黙っていた。けれどその顔は、今はもう隠しもしないで怒っていた。剣呑な目付きで和真を睨みつけていた。それでも、和真は怯まなかった。ますます拳を強く握り締めて、言葉を重ねる。
「お前はお前なんだから、花火作れよ。竜平は、花火職人目指してるのが、竜平だよ。花火の話してる時が一番楽しそうだったじゃんか。お前から花火とったらなにが残るんだよ」
「魚屋が、残るよ」
竜平は、ようやく喋った。喉に何かを押し込んでいるような、低い声で。
「いいじゃん魚屋。っていうか、ひどいよその言い方」
「いいとか、思ってないくせに。平気で魚屋やれるなら、花火大会行けばいいじゃんか。チケット捨てないで行けよ。花火の本だって前みたいに置いておけばいいだろ。捨てたのか隠したのかしらないけど、全部見えなくして」
「うっさいなあ。和真には関係ないだろ」
「関係ないけど、関係あるんだよ。なんか、あるんだよ」
友達だろ、なんて少年漫画に出てくるような臭い台詞は言えなかった。違う、と言われたらそれまでだし。
言われるだろうか? お前なんか友達でもねーよ。
でも、和真にとっては友達だし。見捨てられない、と思った。ここで竜平が諦めてしまったら、今までの竜平ではないものになってしまう気がする。それはそれで、竜平なのかもしれないけれど、和真の好きな竜平じゃないような気がする。とにかく、和真には妙な使命感があった。竜平は、花火職人になるのだ。
「お前が言わないって言うんなら、俺からおじさんとおばさんに言うからな。竜平は花火職人になるんだって」
「はあ?」
「おじさんとおばさんだって、きっと……」
またもや、突然だった。竜平が、手を上げた。殴られる、と和真は悟って体を強張らせて身構えた。
だけど、殴られなかった。竜平は殴る気満々だったと、和真は思う。だけど、殴ろうとした瞬間、本棚の本たちが二、三冊ばさばさと音を立てて床に零れ落ちた。その音に、竜平の振り上げていた手は止まって、和真に振り下ろされる事はなかった。竜平は少し沈黙した後、落ちた本を苦々しい表情で一瞥して、また和真の方を振り向いた。
「帰れよ」
「やだね」
乱暴な口調の竜平に、和真はむきになったように返す。
「俺の家だぞ。帰れ」
「帰らない。竜平が正直に言うまで帰らない。花火職人になりたいって言うまで帰らない」
「ふざけんなよ」
怒鳴り声が、狭い部屋の中で反響した気がした。その語尾が、震えていた。
泣いている。声に涙が混じっている。和真は気がついたけれど、それでも怯まなかった。
「何も知らないくせに勝手なことばっか言うなよ。ほっとけよ。俺は魚屋になるって言ってんだろ」
「知らないけど、竜平は花火職人になりたいのは知ってる」
それでも、と竜平は言葉を詰まらせた。一度、それを嗚咽と共に飲み込んで、もう一度口を開く。
「それでも、どうしようもないんだよ」
ぽろりと、竜平の目から一粒が零れ落ちた。それを皮切りに、次々と。そのせいで、声は途切れ途切れになる。言いたい事が喋れなくなって、言葉に詰まる。くるりと部屋の壁の方を向いて、和真に背を向けてしまった竜平の背中を、和真は黙って見つめた。肩が震えて、声を押し殺して、竜平は泣いている。右手でしきりに顔を拭っている。時折、鼻をすすり上げる音が響く。和真は、その姿から視線を外した。
閉めている部屋の窓の外から、蝉の声が聞こえていた。時折外を自転車が通る車輪の音がする。遠くの方で立ち話するおばさんたちの声が途切れ途切れに伝わってくる。窓を見上げると、ただ空が青かった。真っ青だなあ、と思った。窓からじゃ、雲さえ見えない。快晴で、明るいなあ。どこかの家の風鈴の音が、微かに聞こえる。ちりん。
「兄ちゃんが死んで、家の中が暗いんだ」
声が聞こえたので、和真は竜平の背中に目を戻した。竜平は、ひとつまた、鼻をすすり上げる。
「父ちゃんも母ちゃんも、無口なんだ。全然元気ないんだ。……兄ちゃんは、ウチの跡を継ぐって決まってたし。高校卒業したら父ちゃんと一緒に店に出るって決まってたし」
はあ、と竜平は溜め込んでいた息を大きく吐き出した。もう一つ、鼻をすすり上げる。
「この店は、父ちゃんが頑張って建てた店だし」
腕で、もう一度顔を拭う。
「俺にできるの、それくらいだろ。兄ちゃんの代わりになるしかないだろ?」
だから、と竜平は搾り出すような声で言う。
「頼む。そっとしといて」
和真は小さい頃泣き虫だったから、よく泣き顔を竜平に見られたりしたけど。竜平が泣く姿は滅多に見たことがなかった。特にここ数年は一度も見た事がない。葬式の日も、竜平は泣いていなかった。こんな声を出す竜平を、和真は知らなかった。ずっと一緒にいたけれど、知らなかった。
やっぱり、自分は余計な事をしたのだろうか。徒に竜平を傷つけるだけ傷つけて、その傷を暴くだけ暴いて。
和真は床に目を落とす。先ほどばさばさと落ちた本棚の本が足元に落ちている。乱暴に、折り重なって。ふと、足元にあった一冊の本に目が行く。その本の間から何かの紙が半分ほどはみ出していた。手を伸ばして拾ってみると、鉛筆で書かれた沢山の丸。丸の中に色々注釈が書いてあって、少し見てすぐに花火の絵だと分かる。竜平が考えた、花火のデザイン。色や形の指定がある。いくつもの、丸。実現される事のなかった空想の花火たち。
「一発、作ってみない?」
紙を見つめていたら、ぽろっとそんな言葉が口から出てきた。
「は?」
竜平が、涙が止まった為なのか、こちらを振り返り聞いた。
「折角たくさん勉強してたのに、お前。勿体ないじゃん。花火、内緒で作ってみようぜ。一発だけ。お前だって、心残りだろ。一度も自分作の花火作ったことないんだから」
こちらを向いた竜平は呆れた顔をした。涙の後のせいか、鼻は赤いけど少しすっきりしたような顔をしている、と和真は思った。
「なに言ってんの」
毒気を抜かれたように、少し笑って。
「それ、犯罪」
「そうなの?」
「うん」
そうか、犯罪か。と和真は呟いたけれど。
「でも、いいじゃん。どうせ、俺たち信号ムシとか何度もしてるし。それだって犯罪だし。見つからなきゃ大丈夫だって」
「違うだろ」
「だってお前、作ってみたいだろ?」
和真は紙を竜平の目の前に突き出す。竜平は、目を見開いてそれを見つめた。どこでそれを、と声にならない口が動いた。
ちょっと戸惑ったように表情が揺れて。
それから、こくりと頷いた。
「うん。作ってみたい」
その言葉に、和真は笑う。いししししし、と笑う。嬉しかった。何でかはわからないけれど、竜平が花火を作りたいと言った事が、嬉しかった。