和真 9
翌朝、しっかりとご飯と鯵の干物と味噌汁と納豆と漬物の朝食を頂いてから老人に別れを告げて家に帰った。無断外泊帰りだからとても気まずい。足音を忍ばせて家に入ろうとしているところを早速母親に見つかった。怒られる、と和真は身構えたのだけど、母はいつものようにその場で怒鳴ることはしなかった。代わりに「居間に来なさい。お父さんが話しがあるって」と言った。
「お父さん、なんでいるの?」
「今日日曜日よ?」
和真がちょっと嫌そうな顔をすると、母親は何故だかひとつため息をついた。
母親の後について居間に入って、和真はちょっと驚いて目を見開いた。居間のテーブルの前に座って、和真に「おかえり」と言った父親の目の下に大きな痣ができている。そして、頬が赤く腫れている。和真がぽかんとして立っていると、母親が「座りなさい」と和真を促した。和真は父親の顔を物珍しげにじろじろと見つめたまま、言われたとおりその正面に座った。父の顔にあるのは、どう見ても殴られた跡だ。
「殴られちゃったよ。竜平君のお父さんに」
和真が座ると、父親はいつも通りの頼りない口調で情けなく言った。
「なんで? 俺のせい?」
「流石に高橋さんもお前の発言の責任とらせて殴らないだろ。これは俺自身のせいだよ」
「なんかしたの?」
「ここはひとつ和真に免じて竜平君に花火師になれって言ってやってはどうでしょう、って提案した」
母親が隣で大きく、聞こえよがしにため息をついた。どうやらその現場に立ち会っていたらしい。
「謝りに来たんじゃないのかお前って怒鳴られて。いやいやうちの息子の言い分も一理あると思いませんか、とか言ってみたら、ガツン、とね」
父親の緊張感のない言い方で言われてもいまいち緊迫感が伝わってこない。
「それで、どうしたの?」
「何発か殴られた挙句、お前なんかに俺の気持ちが分かってたまるかって追い出されたよ」
「……そうなんだ」
「これから私、高橋さんとどうお付き合いすればいいか分からないわよ」
母親がとうとう我慢しかねたように横から文句を言った。
「いやそれ昨日の夜散々聞いたから」
父親は母親の愚痴を止めて、和真に向かって続ける。
「ごめん和真、一応やれるだけの事はやってみたけど、竜平君のお父さんの気持ちを変えることはできなかったよ」
そう言って、父親は和真に向かって頭を下げた。
「なんでお父さんが謝るの?」
「父親として息子の願いをかなえてあげられなかったから。……それに、大人の我儘で犠牲になっている若い子を助けられないから」
母親は怒ったのに。和真が悪いと、竜平の父親が正しいと言い切ったのに、父親はそうではないらしい。いつも絶対に母親に逆らわない父親が、今日はきちんと座ってまっすぐに和真を見ている。
「竜平君は高橋さん家の子だから、大人のルールのせいで僕にはこれ以上なにもできないけど。でも、お前は竜平君の力になってあげなさい。いざとなったら竜平君を連れて一緒にうちに逃げておいで。本来なら、未来はいつだって若い人のものなんだから」、
初めて父親が真面目な話をするのを聞いた。。いつも頼りなく、女子高生の姉に言い負かされてしょぼんとなっているような父が、こんな派手な殴られ傷を作ってまで。母親の延々続くうんざりするような愚痴も覚悟の上で。
「うん」
和真がきっぱりと頷くと、父親は嬉しそうに笑った。
母親が、和真を睨みつける。母親の言いたいことは分かるけど、父親はきっと自分の気持ちは分かってくれていると思うから、無視をした。
「カズ、帰ってきたんだ。朝帰りおめでとう。竜ちゃんたち帰ってきたってもう聞いた?」
姉が話が終わったのを見計らったかのように……実際、部屋の外で見計らっていたのかもしれないけれど、入口から顔を出して言った。
「え。マジ?」
「うん。崎村さんって子が倒れちゃったらしくて、きのうの夜東京の病院から連絡入ったんだよ。竜ちゃん、多分もうこっち戻って来てるんじゃない?」
和真は立ち上がる。母親が止める声が聞こえたけれど、聞こえないフリをして部屋を飛び出した。大人たちの事情とか気まずさとかは気にしない。母親の後ろで父親がひらひらと手を振っているのが見えたし。
和真が自転車の鍵を外していると、なぜか付いてきていた姉が背後から言った。
「あのさあ。あたし、竜ちゃんにお金貸してるんだよね」
「は?」
発言の意図が汲み取れなくて、和真は姉を振り返る。姉はなんとも言えない複雑な顔をしていた。半分笑っているような、呆れているような。
「夢にトラが出てきてさ、ちょっと竜平助けてやってくれ。金貸してやってくれって言うから。まあ、夢だから全然信じてなかったんだけど。ちょうどその日偶然竜ちゃんに会っちゃうし。お金に困ってるみたいだったし。どうしても旅費が必要って言うから、貸してあげたんだ。利子つきで」
「利子つきで」
「そう。利子つきで」
それって仮に本当に夢枕に立たれたとして、故人の意志には適っているのだろうか?
首をかしげながら、和真は鍵を外し終わった自転車にまたがった。
「まあ、うん。そんだけ」
姉は言うだけ言って、特に和真を見送るわけでもなく家の中に引っ込んでいくので、和真はそのまま自転車を発進させた。
姉の夢の意味だなんてわからないし。幽霊なんて半分以上信じてないし、信じていても怪談怖い、程度の信じ方だし。第一なんで姉のところなんだ、とか色々信じ切れないところはあったけれど。不思議な偶然もあるもんだ、と思う半分、ちょっとだけ幽霊の存在もほんとにほんのちょっとだけ信じてしまいそうになるような話だ。
相変わらず暑い中を強くペダルを踏んで自転車を漕ぐ。顔一面に風をうける。髪が後ろに流れて気持ちが良い。気持ちが良いから、立ち上がって前屈姿勢で、更に強くペダルを踏む。自転車はスピードを増して、風は更に強くなる。蝉の声も、道行く人の話し声も、自動車のガソリン音も追いつかないくらい和真は早く漕ぐ。そうすると、道と先に広がる空しか見えないような気がしてくる。
調子に乗って猛スピードで疾走していたら前方に、ゆっくりと歩く見慣れた背中を見つけた。なんとグッドタイミング。和真はおおい、と大声で呼ぶ。その人影は振り返る。右手に向日葵を三本持っていた。お見舞いかもしれない。和真はちょっと笑えてしまった。怒るって決めていたのに笑えてしまった。意味もなくテンションが上がってる。自転車の漕ぎすぎで脳内に興奮物質が生じてしまったのかもしれない。馬鹿みたいだ。でもテンションが上がっているのでノリで大声で叫んでみる。
「竜平、魚屋なんて止めちまえよ。花火師になれよお」
「やーだよ」
立ち止まって和真を待っていた竜平は、同じく大声で迷いもせずに返してきた。和真は残り十メートルを1秒で駆け抜けるつもりで更にペダルを踏む。ぐんぐん竜平が近づいてくる。違う。和真が近づいていく。
「なんでだよ」
突然自転車を止めたから、顔から一気に汗が噴き出してきた。竜平はちょっと笑って、それから歩き出したから、和真は並んで自転車を引く。並んで歩く竜平は、和真よりも数cm身長が高い。いつもは気にならないそれが、今日は妙に悔しい気がした。
「和真、俺がいないうちに家ん中引っかき回したんだって?」
「お前が無断でいなくなるからいけないと思うんだ。どこ行ってた?」
「東京の花火大会。和真が捨てるの止めてくれたから、いい席で見れた。花火見たかったって、怒ってたから、見せてやらなきゃって思ったんだ」
「駆け落ちって話だけど?」
和真が言うと、竜平は「まさか」と笑った。
「崎村は和真の、だろ」
「は!? 何が」
「ばればれじゃん」
「なんだよその余裕っぽい顔」
軽く蹴りを入れると、竜平はひょい、とそれを避けた。
「一緒に来るだろ? 崎村の見舞い」
竜平は言って、向日葵を一本和真に差し出す。
「行ってもいいけど花は持たねえ」
「お前が渡したら喜ぶよ」
「その手には乗らん」
「俺が2本で和真が1本なんだからいいだろ」
竜平が引き下がらないので、和真は嫌々その一本を引き受けた。
「俺たち馬鹿みたいじゃん。向日葵持って」
「みたい、じゃないかもしれない」
「馬鹿か……」
「少なくとも俺は」
竜平は「あ」と思い出したように付け足した。
「もし、崎村のおばさんに怒鳴られて追い出されたら悪いな。一緒に逃げてくれ」
「あ。そういえば絶対そうなりそうだよな。崎村、倒れたんだって?」
「うん。救急車で運ばれた。……命に別状はないみたいだけど、無理さしたから退院は延びるかもって。病院ですごい嫌味っぽく言われた。崎村母に」
「うわあ」
やだなあ、あの人優しげに見えて結構恐かったから、和真が考えていると竜平がちらりと和真を見た。
「何?」
和真が聞くと、竜平はちょっと首を横に振った。振ったくせに、ちょっと話したそうにしているから、和真は後手でその後頭部を殴った。「いってぇ」と竜平が言ったのを無視して、和真はもう一度「何?」という。竜平はちょっと黙って、青空を見上げた。夏らしい、真っ青な空だった。端の方から白い入道雲がにょきにょきと立ち上っていて、夏の本番を告げているようだった。雲の白さは眩しい程だった。
「変な話だから信じなくて良いんだけど。兄ちゃんが死んでからさ……葬式から、ずっと変なのが俺の部屋に住み付いてたんだ。兄ちゃんそっくりの顔で、そっくりの声で、そっくりの仕草なんだけど、酷い事いっぱい言うんだ。それで、俺に魚屋継げよって言ったんだ」
幽霊だろうか。話を聞きながら和真は思う。本当に虎太郎の幽霊だろうか? もしかして。まさか。でも、姉の夢枕の話もあるし。でもまさか幽霊なんて。
「そいつに触ろうとしても、触れないんだ。殴れないし。俺が崎村と東京に行くまで俺の部屋にいて超邪魔だったんだけど、帰ってきたらいなかった。なんとなくだけど、多分もう、出てこないと思う」
「それって……」
和真が半信半疑の言葉を口に出そうとすると、竜平はちょっと和真を振り返って、うーんと唸った。
「もしかしたらやっぱ、兄ちゃんだったのかもな。認めたくないけど。……昨日まで仏間に骨あったし」
そういえば、納骨は四十九日にあわせて昨日だった。
和真の中で心霊肯定派と否定派が戦っているのなんて気づく様子もなく、竜平は言う。
「でも、言われたからじゃなくて、魚屋になるって言うのは言われる前から、葬式で父ちゃんと母ちゃん見ててずっと思ってたし。あいつに言われた事、全部俺も思ってたことだし。父ちゃんも母ちゃんも兄ちゃんが死んだのに耐えられないみたいだから、俺がなんとかあの家明るくしてかなきゃいけないし。兄ちゃんだって本当は魚屋じゃないものになりたかったのに俺が花火師花火師って騒ぐから、自分が魚屋継ぐって言ってたのかもしれないし。俺が我慢さしてたのかもしれないし。……せっかく和真が色々やってくれたけど、やっぱ魚屋継ぐよ」
でも、と竜平はちょっとはにかむように笑う。
「もしかしたら魚屋続けながらこっそり花火の勉強するかもしれないし、専業の花火師にはなれなくても、夏場だけ手伝いに行けるようになるかもしれない」
和真はちょっと意外な気がして、竜平を見る。竜平はどこか落ちついたように見えた。虎太郎が亡くなる前の竜平が、やっと戻ってきたような気がした。
「そっか。じゃあ、どうしても途中で魚屋やになったら言ってくれ。いつでも俺が一緒に逃げてやる」
和真が言うと、竜平は噴き出して、それからうん、と頷いた。
「和真、ありがとな」
そんな事を改めて言われても、照れくさい。和真は聞こえないふりをした。空を見上げる。青くて明るくて、とても遠く高く見える。竜平の言った事は本当だろうか? 虎太郎は本当に、ずっと竜平の側にいたのだろうか? それは、何のためだろうか? 竜平に魚屋を継がせる為だろうか? それとも、一人で家族を支えていかなければいけなくなった竜平を支える為だろうか? 和真には分からない。
隣の竜平を見ると、やはり竜平も空を見上げていた。和真の視線に気づいた竜平はこちらを向くと、無理しているように微笑んだ。
「やっぱりいざ出てこなくなると、淋しいな」
「当然だろ」
「……うん」
そうだな、と同意した声は声にならなかった。
東京での事を聞いたりしながら歩いていたら病院はすぐだった。二人で慣れた病院内を歩いていたら、竜平が「あ」と呟いた。和真も前方に崎村の母親の姿を見つけて「あ」と思う。二人で顔を回せて、次の瞬間には回れ右をして逃げ出した。
「病院の外で張ってて、崎村のおばさんが出てきたのが見えたら入ろうぜ」
「何それスパイごっこ的な?」
「和真好きだろ? そういうの」
「実は大好き」
二人で声を殺して笑いあって、病院を飛び出す。
冷房のきいた病院から外に出ると、暑さと湿気が体を包み込むようだった。蝉の声がレコーダーのボリュームをとつぜん上げたかのようにけたたましく耳を攻撃した。日中の空は遠慮なく、太陽がぎらぎらと照らしていた。夏のど真ん中だ、と和真は思った。夏休みはまだまだ残っているし。
わくわくしながら竜平とお揃いの向日葵を揺らして駆けた。
読んでくださった方、ありがとうございました。




