和真 5
和真は初めて来る家の、初めて入る和室の、初めて寝る布団で横になっていた。横になってはいたものの、なかなか寝付けなくて何度も寝返りを打ってはもぞもぞと体を動かした。疲れているはずなのに、頭は冴えていて全く眠気が襲ってきてくれない。家の外からは側の田んぼからなのか、蛙の声が低くひっきりなしに聞こえてきていた。
今日は色々なことがあった。ありすぎて、目を瞑ると色々考えてしまう。今日は色々、嫌な事があった。「一日の中で嫌な事が起きた回数」ランキングがあるのならば、ぶっちぎりで一位だ。そして、今日ほど大勢の人と喧嘩した日もないから、両方揃って嬉しくない自己新記録更新だ。
今日は、虎太郎の四十九日だった。竜平の家ではその法要が行われたのだけど、竜平はそれに姿を現さなかった。それだけでも、結構な大事であるのに、更に和真がそれを台無しにした。
そもそもの始まりは、夏休みだし花火計画も無念のうちに終わってしまったし、とまだ和真が布団の中でごろごろとしていた時間帯の訪問客だった。和真の母親が慌てて小走りに和真を起こしに来た。
「あんた、崎村さんって子と知り合い?」
寝ぼけ眼の和真を引っ張り起こすようにして母親は尋ねた。大声で怒鳴るものだからうるさい。和真はちょっと顔をしかめた。
「友達」
「ご両親が来てるんだけど」
「は? どこに?」
「うちに」
「今?」
驚きで目が醒めた。母親は神妙な顔で頷くと、とにかく着替えて早く来なさい、と言った。
寝巻き代わりに使っていたタンクトップとジャージは汗でびっしょりと湿っていたので、慌てて箪笥から出したTシャツとハーフパンツを身に着けて居間に行く。居間のドアをくぐるとすぐ、かっちりとしたスーツ姿の男の人と崎村の母親が凍りついたように座っているが見えた。目の前に置いてある麦茶に手を付けた様子さえなくて、グラスにびっしりと水滴がついている。
「あのお」
重苦しい空気に和真がおずおずと入って行くと、二人はまるで示し合わせたかのように同時に和真を振り返るので、和真は怯んでしまった。
「和真君、果穂子を知らない?」
挨拶もなしに、崎村の母親は和真に尋ねた。真剣な崎村の母親の視線と、その隣の男の人の厳しい視線に気圧されて、和真は逃げ出したいような気持ちになる。二人の態度は、まるで和真がひどく悪い事をしたと確信しているような様子だった。
「崎村さん、はおとといの夕方会ったきりだけど」
夜中、病院に行ったのは隠しておいた。もしかしたら、それがバレて怒られるのかも、とは思いはしたけれど。でも、ちょっと病院に忍び込んだだけでこんなに怒られるものだろうか? やはりあれだろうか? 年頃の男女のうんたらかんたら。それとも、募金のお金を借りたこと事がばれてしまったのだろうか? 今でも思い出すと落ち込むけれど、あの時果穂子はすごく怒っていた。両親にいいつけた、ということもあり得るかもしれない。
身に覚えがあるから、鼓動が早くなる。二人はなんと言って自分を責めるのだろうか?
「本当?」
崎村の母親は疑わしそうに言う。
白状した方がいいだろうか? 夜、病院に忍び込んで崎村さんに会いました、と。この疑り深い様子はすでにそれを確信しているからではないのだろうか? 白を切りとおすよりは正直に言って謝った方がいいのかもしれない……。覚悟を決めて言おうとした時、崎村の母親が意外なことを言った。
「果穂子が病院を抜け出したのだけど、本当に何も知らないの?」
「へ?」
「多分、昨日の夜中。朝の検診の時にはベッドが空だったの」
思いがけない話に和真はぽかん、としてしまった。
「なんで?」
「こっちが聞きたいくらいだわ」
無意識に漏らした和真の問いかけには、少し感情的な返答が返ってきた。普段の温和な印象からは考えられない棘のある口調だった。和真はちょっと目を白黒させる。
「だけど、駅で見かけた人がいるのよ。同い年くらいかちょっと年上くらいの男の子と一緒に電車に乗ってどこかへ行った、って。和真君じゃなかったら、高橋君ね」
「なんで」
決め付けるのだろう、という前に先回りして崎村の母親は答えを言う。
「果穂子と面識のある同年代の男の子ってあなたたちくらいしかいないの」
突然すく、と崎村の母親の隣に座っていた男の人が立ち上がった。いかにも出勤前のサラリーマンという出で立ちのその男性は、和真を冷たい目で見下ろして、落ち着いてはいるけれど有無を言わせない強い口調で言う。
「高橋君の家に案内してくれないか?」
疑問系で終わっているのに、その言葉は命令だった。
和真が何か言う前に、崎村の両親の正面で居心地悪そうに座っていた母親が身を乗り出すようにして口を挟んだ。
「高橋さん家は、今日はちょっと……」
男性が、母親に険しい視線を向ける。母親は少し怯んだけれど、それでもこればかりは言わなければという使命に燃えているかのように、説明する。
「今日は息子さんの四十九日をやってるので」
「四十九日?」
「竜平君のお兄ちゃんの虎太郎君、先月亡くなって」
男性はちょっと黙ったけれど、すぐにまた和真を促すように見る。
「ちょっとお聞きしてすぐに帰りますから」
「でも、やっぱりそんな時に伺うのは……」
「うちの娘は入院しているんですよ。悠長な事言っていられないんです」
男性がついに尖った声を出したので、母親はショックを受けたように黙り込んだ。
「失礼しました」
男性は全然失礼したと思っているようには思えない口調で言って、横においてあった鞄をとりあげて歩き出す。崎村の母親も慌てて和真の母親にぺこりと一つ礼をして、その後を追いかけた。
「お願い、和真君。案内して頂戴」
そう言われて、通り過ぎ様に強引に手を掴まれて引っ張られるから、和真も引き摺られるようにして家を出る。
ずんずん前を歩く崎村の父親は、家を出た瞬間くるりと振り返って和真を見た。まるで、和真がついてきているのを疑ってもいない態度だった。視線が、案内しろと促していた。
竜平ではないと思うのだけど、と内心で反発を覚えながらも和真は逆らえないで渋々歩き出す。どちらにしろ、竜平ではないのだから大丈夫だ。疑いはすぐに晴れて崎村の両親は謝罪するはずだ。そう思っていた。
自転車ではないからいつもより時間がかかる。急かすような大人二人の歩調に、無意識のうちに早足で歩いていた。競歩並みの歩き方だ。高橋家に到着して足を止めたとき、息が荒くなっていて初めて気がついた。
チャイムを鳴らすと少し間があって、その後乱れた足音が近づいてきた。ドアが開いて、出てきたのは竜平の母親で、和真は一瞬ぎょっとする。ぎょっとしたのは、竜平の母親が真っ黒な喪服を着ていて見慣れない姿だったこともあるけれど、それ以上にその形相にぎょっとした。すごく恐い顔をしていた。顔中にいくつも深い皺が刻まれていた。それは、和真の顔を見るなり一瞬で消えてしまったけれど、何かに似ている、と和真は思った。ああそうだ、教科書で見た木彫りのお面に似てる。女の鬼のお面。
「カズちゃん」
竜平の母親は和真の背後に立つ二人の大人を認めてちょっと怪訝な顔をしたけれど、チャイムを押したのは目の前に立っている和真だろうから、と言う感じで結局和真に話しかけた。
「どうしたの?」
「おばちゃん、竜平いる?」
「それが、いないのよ。今日兄ちゃんの四十九日だって言うのにどこにも見当たらなくて、おばちゃんも探し回ってるとこ」
和真の心臓がドキッとなったと同時くらいに、和真の背後に立っていた二人が動くのが見えた。
「いつからですか?」
崎村の父親が和真を追い越して竜平の母親に近づいて聞いた。
「え? わからないですけど、朝ご飯食べにこなかったから、朝からかしら」
竜平の母親の顔には、この人たちは誰だろう? という疑問が分かりやすく浮かんでいた。崎村の父親のきつい物言いに竜平の母親が不安そうな顔をしたから、和真はなんだかつられて不安になって、慌てて言った。
「クラスメイトの崎村さんのおばさんとおじさんだよ」
「崎村さん?」
それでも、竜平の母親は不思議そうだった。目の間の人たちの目的が全く分からなくて、少し混乱しているようだった。
「うちの娘も今朝から姿が見えないんです。娘と息子さんは最近親しくさせてもらっていたようですし、一緒ではないかと思って伺ったのですが」
「そうなんですか?」
「娘が同い年くらいの男の子と連れ立って電車に乗ったと、駅員が覚えてるんです。息子さんが行きそうなところ、心当たりはありませんか?」
「そんなこと言われても……」
畳み掛けるように詰め寄る崎村の父親に、竜平の母親は困りきって、今にも逃げ出したいような顔をする。和真から見ると、まるで崎村の父親が竜平の母親をいじめているように見えた。
その光景を見ながら、和真は胸の中に嫌な気持ちが広がっていくのを感じていた。
「うちの娘は入院してたんです。早く連れ戻さないと。症状が悪化したらどうするおつもりですか?」
「息子さんの行きそうな場所くらいわかるでしょう? 親なんだから」
「言い方は悪いですけど、これはもう誘拐ですよ」
正気か脅しで言っているのか。
とにかく、崎村の父親は竜平の母親を追い込めて行く。和真には、竜平の母親がどんどん小さくなっていくように見えた。首を縮こめて、背を丸めて、頭を垂れて。
「何やってんだ、もう竜は放っておけ」
唐突に、家の奥から大きな訛声が聞こえたので和真が視線を上げると、竜平の父親が家の奥から出てきたところだった。こちらもいつものビニール製のでかいエプロンではなく、黒いスーツを着ていて見慣れない。
竜平の父親は玄関先まで来て、初めて来客に気がついたようだった。訝るような顔をして崎村の両親を見た後、和真に顔を向けた。
「カズ坊、誰だ?」
「……崎村さんのおばさんとおじさん」
「竜と崎村さんって子が、駆け落ちしたかもしれないんだって」
と心細そうに付け足したのは竜平の母親で、和真はその表現にぎょっとする。
こうして明確に言葉に出されてしまうと、それが本当なのだと突きつけられたようだった。ショックだった。竜平は、崎村と二人そろって消えてしまった。和真だけおいてけぼりにして、何も告げずに。裏切られた気分だった。自分だけ、蚊帳の外。しかも、駆け落ち?
大人たちが言い争いを続けているのに構わず、和真は踵を返して家に駆け戻った。家に着いた時は汗だくで、洗濯物を干していた母親にびっくりした顔をされた。「失礼な事をしなかったでしょうね」と言う母親の言葉におざなりな返事をして、クーラーの効いたリビングの、扇風機の前にごろりと横になる。蒸し暑い中を帰ってきたから、汗だくだった。クーラーの冷気が汗を冷やして、数分すると体が冷たくなった。それでも起き上がらずにそのまま横になっていた。




