果穂子 5
一度具合を悪くしたせいなのか、竜平は時々込み合う電車の中や行列を作るような人の道の中で果穂子を気遣うそぶりを見せた。
実は、息の詰まるようなその人ごみの中で、時々くらくらと眩暈がしたり、吐き気がしたのだけど、果穂子はそれを表に出さないように努力した。今ここで体調不良を訴えれば確実に、花火大会は見られなくなってしまう。それは嫌だった。ここまで来たら、なんとしてでも見たくなってきた。なにせ、大勢の人たちが花火のためだけに集まって交通機関も道もこんなに混み合ってしまうのだ。
花火なんか、興味がなかったのに。いつの間にか、気分の悪いのも耐えてでも、絶対に見てやる、と思っている。最初は、はずみのようなものだったのに。気分がくさくさしている時に、竜平が連れ出してくれるというから深く考えずついてきた。もしかしたら、母親たちを困らせてやりたい、という気持もどこかにあったのかもしれない。でも今は、本当に花火大会が見たくなっている。
和真と竜平があそこまでこだわった花火。そんなにすごいものなのだろうか?
ざわざわと、人々の話し声が何の話とも判然としないまま四方八方から耳に流れ込んでくる。それが耳から脳内に入って脳味噌を掻き回すようだった。日も落ち始めて、空は藍色になってきているのに、いまだ屋外は蒸し暑い。体中が汗でべたべたした。
駅からの道は人の波で大渋滞だった。目の前の道いっぱいに人がひしめいている。いったいこんな大勢の人間が今までどこにいたのだろうと呆れてしまうくらいだ。列はなかなか進まず、止まったりゆるゆると足を進めたりを繰り返していた。
「崎村さんは、無口だな」
「え?」
歩きながら不意に竜平が言うので、果穂子はぼうっとしていた意識が急にはっきりとして、目をぱちくりとさせて傍らの竜平を見上げた。竜平は特に果穂子のほうを見るでもなく、話を続ける。
「女って、みんな武井さんみたいにかしましいのかと思ってた。和真のおばちゃんも姉ちゃんもそうだし、うちの母ちゃんもそうだったし。だから、別に俺が話をしなくても平気かと思ってた。俺はそんな話せる方じゃないし……」
悪かったな、と竜平は言った。果穂子は何故球に竜平がそんな話をするのか分からずにぽかんとして竜平を見上げた。特に竜平からの説明はなかったけれど、その横顔を見ているうちに、朝方の喧嘩を思い出した。その事を、夕方の今頃になって謝ったのだ。なんてタイムラグ!
「俺んトコ、兄貴が死んで、俺が魚屋継ぐことになっちゃって、今までずっと目指してた花火師を諦めなくちゃいけなくなったんだ。そしたら、和真が最後に一発花火上げようって言ってくれて、ずっと付き合ってくれた。俺の我侭だったのに。別にアイツには何もいいことないのに。……だから、これ以上和真に迷惑かけられないし。俺で我慢してくれ」
「ごめんなさい」
果穂子はようやくその言葉を喉の奥から搾り出した。いつもは平気で口癖のように、母親に対しても看護婦に対しても同級生に対しても、誰に対しても使っている言葉なのに、今に限って酷く口に出すのに力が必要だった。
「酷い言い方してごめんなさい。最近私、性格悪いの。高橋君は私の事を思って連れてきてくれたのに」
口を開いたら、言葉はすらすらと出てきた。
「花火大会の夜も、別に花火とか見たくなかったのに、むしゃくしゃして二人に当たっちゃったの。家族もみんな花火大会に行っちゃったし、友達もみんな行ってるのになんで私ひとりだけこんなところにいるんだろうって思うと悔しくなっちゃって、好きでこんな体に生まれたわけじゃないのにって。でも、お母さんに言っても困った顔されるだけって分かってたから恐くて言えなくて。そういう我慢、最近たくさんしてて、だから、二人に八つ当たりしちゃったの」
急にまくし立てた果穂子に、竜平は面食らったような顔をした。だけど、すぐにもとの顔に戻る。
「そっか。良かった」
その言葉に、果穂子は拍子抜けする。
「良かった?」
「崎村さんに嫌われたりしたら、和真に怒られる」
「それだけ?」
「は?」
果歩子の問いかけに、竜平は怪訝な顔をする。本当にそれ以外なにも考えていない、というような竜平の顔を見て、果歩子は拍子抜けした。
「……嘘つきって怒られるかと思った」
「お前じゃあるまいし」
その言葉に、果穂子はうっと詰まる。竜平はかすかに笑った。笑うといっても、してやったり、というようなちょっと意地悪な笑い方だけど。それでも、一緒に病院を抜け出して初めて果穂子に見せる笑顔だった。
「俺も、気持ちなんとなく分かる」
「高橋君も、我慢してるの?」
聞いたらちょっと黙ってしまった。列が進んで、二人でゆっくりと足を進める。遠くの方から日が沈んでいるから、空は藍からオレンジのグラデーションがかかっている。綺麗な夕方の晴天だ。
「してるかもしれない。和真はちょっとそれが不満みたいだけど、でも、しょうがないよなあ」
しょうがないよなあ、と言った竜平の声は、気の抜けたような声だった。諦めたような声だった。ちょっと切ない声だった。
「大人の方が強そうに見えても、きっとそう言うわけでもないんだろうし。俺のほうが強いかもって感じたら、俺がその分守ってあげなきゃ」
しょうがないんだよなあ、と竜平はもう一度言った。
竜平は果穂子と同い年のはずなのに、どこか大人びていた。和真と並んでも、時々兄弟のように見えることがあった。もちろん、和真が弟だ。
だから、花火師を諦めたの? と果穂子は聞けなかった。多分そうだろう、という確信があったから、それを敢えて聞くほど果穂子も無邪気ではなかった。代わりに頷いた。
「しょうがないよね」
母親はすごく果穂子に良くしてくれている。でも時々果穂子に苛立っている。果穂子の言動に、ではなく果穂子が病弱なこと自体について。それは一時的な感情なのだろうけれど、確かに苛立っている。自分の時間が制限される事について。やりたいことができないことについて。常に病院に来なければならない事について。だから、果穂子は我慢するくせがついた。母親は時々果穂子に丈夫に生んであげられなくてごめんね、と謝るけれど、それは本当に、本心からなのだろうけれど。果穂子を大切に思っているのも本当なのだろうけれども。一人の人間にはきっと色々な感情が詰め込まれている。果穂子は母親をとても大切に思っているけれど、時々無性に困らせたくなる。けれど、果穂子はそれを無理やり押さえ込めるのだ。母親のように表に出さないように、果穂子ならできる。だから、押さえ込む。押さえ込んできた。今回以外はずっと。
「天気が良いな」
雲ひとつない夕暮れの空を見上げて、竜平は呟いた。きらきらと金星がほぼ藍色になった空の端のほうに輝いていたので、そちらが西側なのだろう、と思った。
「今日はちゃんと見れるな」
「そうだね」
一昨日の花火大会を思い出す。外側は青から緑色、中心は赤。頭の中にその言葉が浮かんできて、ちょっと悲しい気持ちになった。竜平がそれにどんな思いを預けていたのかはわからないけれど、きっとそれには色々なものを詰め込んでいたはずだ。火薬と一緒に、叶える筈だった夢だとか、今までの我慢だとか、期待とか、諦めきれない気持とか。そういうものを全部詰め込んで、火花と一緒に散らしてしまうつもりだったのだ。きっと。だけど、それが不発に終わってしまった。どんな気分だっただろうか。また、我慢をしたのだろうか? これからも我慢していくのだろうか? 彼はそれに耐えられるのだろうか?
日はどんどん傾いて、果穂子たちも着実に会場に近づいていた。周囲を歩く爽やかな浴衣姿の女の子たちが目にまぶしく映った。みんなはしゃいで、大きな声で笑ってお喋りして、とても楽しそうだった。その中で自分たち二人だけが、どこか場違いな気がした。
会場にはもう大贅の人がいたけれど、大きなグラウンドの後ろの方ならばまだ開いている場所もあった。会場に近づくと、有料席の入場券を持っている人だけ、とスピーカーで大袈裟にアナウンスしていたから果穂子は不安になったけれど、竜平は平気な顔で進んで行った。入口で竜平が係員に差し出したチケットで二人はその会場に入れたので、果穂子はそこでようやく胸をなでおろした。
ビニールシートの端の方に、二人でちょこんと座り込む。来る途中にちらほらと見かけた屋台で焼きそばとたこ焼きを買い込んでいた竜平はそれを無造作に果穂子の方に差し出して「適当に半分にしよう」と言った。ペットボトルのお茶二本もビニール袋に入っていて、妙に竜平がこなれている事が頼もしい反面なんだかおかしかった。本当は食欲はなかったのだけど、せっかく買ってきてくれたのだからと、きちんと二膳ついている割箸のひとつを手にとってそれを割る。ふにゃふにゃの柔らかい焼きソバは妙に味が濃くて喉が渇くし、たこ焼きはたっぷりソースとマヨネーズがかかっていて胸焼けがしそうだった。それでもなんだか美味しく感じる気がする。あまり食べられなくて、三分の一ずつなんとか食べて竜平に渡してしまったけれど。
ビニールシートに腰掛けて飲み物を飲むと、先ほどから断続的に襲ってきては去っていく吐き気がおさまった気がした。騙し騙しである事は自覚していたけれど、とりあえずこの夜がもてばいいのだ。
「やっぱ、具合悪いか?」
竜平が尋ねてきたので果穂子はぎくりとした。けれど、すぐに首を横に振る。
「大丈夫」
「ふうん」
竜平は、それ以上追及してくることはなかった。やっぱりお互い会話は少ない。
周囲の人々の昂揚した気分が空気の中にどこでも漂っているような気がする。ざわざわと絶え間ない会話の交じり合った音が一帯を包んでいる。空は刻々と色を濃くして夜に変わっていく。
隣に座る竜平も、今はもう焼きそばとたこ焼きを食べ終わって、ただ真っ直ぐに空を見上げている。周りの人たちみたいに喋りもしないで、二人してぽかんと空だけ見つめている。
どん、と突然大きな音が響き渡った。ハッと我に帰るけれど、目を凝らしても特に花火のようなものは見えなかった。
「今のは合図だよ」
隣から竜平の声が聞こえて、そうなのか、と思う。
「もうすぐ始まるよ」
周囲の昂揚が一層高まるのが肌で感じられるようだった。お酒を飲んでいたおじさんたちも、暑そうに団扇で自身を扇いでいたおばさんたちも、退屈し始めたようだった小さな子供たちも、お互いしか目に入っていないようなカップルたちも、みんな一瞬空を見た。
どれくらい待ったのかよく分からない。視界が空だけだった。
前方を、ひゅう、空に吸い込まれていくような音がして金色の火の玉が空へと上って行った。続けざまにふたつ、みっつ。それが上空に届いたとき、どん、とお腹の底まで響き渡るような大きな音が空気を揺らした。その振動が肌にぴりぴりと感じられるくらい大きな音。それに身を竦ませる暇もなく、頭上で大きな火の花が散った。
それはまるで、見上げる果穂子に降りかかってくるように、包み込むように。怖いくらい大きくて、きらきらと眩しかった。オレンジや赤や青や緑やピンク。次々に色々な色の花火が、大きな音とともに振ってくる。気がつくと、息を止めて見入っていた。苦しくなってそれに気がついて、大きくため息をつく。
花火は続けざまに、息もつかせないように上がり続ける。次々に大きな音がしては、空一面が様々な色に輝く。雨のように火の粉が舞い落ちてくるようなもの、大きく花開くもの、キラキラときらめくもの。たくさん種類がある。
どのくらい魅入られていたのか、ふと我に返って周囲をちらりと見ると老若男女みんなが同じ方向を見上げていた。少し笑えてしまって傍らの竜平を見上げて、ぎょっとする。
竜平はじっと、瞬きもしないような真剣さで空を見上げていた。その目から、筋になって涙が流れているのにも気づかないような真剣さで、じっと見つめていた。
見てはいけないものを見てしまった。
果穂子は慌てて視線を空に戻す。花火は相変わらず空一面に花開いていた。
泣いている。男の子がこんな風に泣くなんて! しかも、あんなにしっかりしている高橋君が。果穂子の頭の中には、言ってみたい事も聞いてみたいことも色々渦巻いたけれど、それを口に出す事はできなかった。
どん、どん、どん。音がする度動揺も徐々に収まって、また花火に気持ちを集中することができた。
どれくらいそうして見ていたか、突然視界がくらくらとして背筋が冷えた。治まっていたはずの眩暈が再発してしまった。今回は、今までと比べようにならないくらい激しい。目の前がくらくらと回るようだ。ブラックアウト直前。だけど、花火はまだ続いている。空はまだ輝いている。自分は結構満足するくらい見たけれど……。竜平の涙が。最後まで、せめて見せてあげたい。だって、あんな風に泣くのだもの。脂汗がこめかみを流れて首筋を伝う。息が苦しくなる。あとどれくらいだろう? どれくらいで花火は終わるだろう? 自分はそれまで耐えられるだろうか? 絶えなければ。せめて。せめて……。
頭の中で花火の音が反響する。どん、どん、どん……。目の前が花火以外のものでちかちかとする。
意識が遠のきそうになるのを、奥歯をかみ締めて、手を握り締めて耐える。お茶を飲む。とにかく、何か気を紛らわせなければ。
突然、どん、どん、どん、が聞こえなくなった。しん、と静まり返った。
側にいた誰かが「終わっちゃったね」と呟いた。
終わった。
その言葉を聞いた時、どっと力が抜けた。耐え切った、そう思った。良かった。本当に良かった。最後まで見せてあげられた。連れて来て貰った分際でそんな事思うのは変だけど。でも、よかった。
意識が遠のく。もう、我慢する必要がないと思ったから、果穂子は遠慮なく意識を手放した。




