竜平 12
「こんにちは」と明るい声に、ちょっと耳が痛くなった。挨拶してきたのは病院の廊下で会った、崎村の病室から出てきたばかりの崎村の母親と一緒にいた小学生中学年くらいの女の子だった。女の子は、白地に朝顔の柄の浴衣に、ひらひらとした朱色の三尺帯をしていた。
こんにちは、と挨拶を返して、崎村の母親を見ると、ちょっと微笑んで「いらっしゃい」と言った。
「花火大会は明日なのに、お姉ちゃんにも見せるって聞かなくて」
「崎村さんの、妹ですか?」
和真が聞くと、崎村の母親は頷く。
「そう」
女の子は嬉しそうにニコニコと笑って浴衣を誇るように立っている。
「じゃあ、ゆっくりして行ってね」
崎村の母親のそんな言葉に促されて、二人は慣れっこになった病室のドアをくぐった。
「こんにちは」
和真の明るい声に、ベッドに座っていた崎村がこちらを振り向いた。振り向いただけで、特に言葉はなかった。和真は特にそれを気にするわけでもなくずかずかと入って行くなり話を始めた。いよいよ明日なんだ、と声を弾まして。毎年行っている花火大会のことだから、一度も行った事がないという崎村に詳細に花火大会の事を語っていた。当日の近辺の人ごみのすごさとか、見やすい会場だとか、どんな屋台が出ているとか、何時ごろから並ぶだとか、どんなに暑いかとか、そんな事を思いつく限り話していた。
「崎村さん」
和真の話が一息ついたところで、竜平は口を挟んだ。竜平が崎村に話しかけるなんてあまりないから、二人が珍しそうに竜平を見る。
「俺たちの花火は、真ん中が赤で外側が青で、外側の青が段々緑色に変わっていくやつだから。……できるだけ、崎村さんの見えるような位置に上げられるように色々考えてみたから」
花火玉ができてから空いた時間、竜平は実際に打上場所になるはずの場所に行ってみて場所を確認した。地図を広げて、会場と崎村のいる病院を線で結んだりして打上の場所として使う場所を考えた。本物の打上隊から見つからないような場所があるか不安だったけれど、暗闇の中でならなんとか人に見つからないだろうと思われる場所に位置を決めておいた。崎村の病院から見えるかどうかは、残るはもう間にある建物などの問題だから確実とはいえないけれど、以前崎村が花火大会の花火は小さく見えると思う、と言っていたからもしかしたら見えるかもしれない。
「それが、崎村さんの為に上げる花火だから」
言ったら崎村はちょっと不意をつかれた顔をして、それからちょっと慌てた顔をした。
「ごめんね。もう一度聞いていい? 何色?」
「真ん中が赤で、外側が青から緑に変わるやつ」
「真ん中が、あか。外側が青から緑、ね。分かった」
崎村は復唱確認してから、ちょっと微笑んだ。
「見えるの、待ってるね」
崎村の為、だなんて嘘で、本当は自分の為でしかないけれど。それでも、崎村に感謝している事も確かだった。だから、自分の為を除いたら、崎村と、なによりきっと和真の為に打ち上げる花火だった。
終わったら報告に来るよ、と調子に乗った和真が言った。病院閉まっているよ? と返した崎村に、悪巧みする顔で笑って見せて「一階のさ、自販機の奥の窓開けといてよ。こっそり。そしたら忍び込むよ」と言う和真にちょっと呆れてしまう。竜平は終わった後の事までさっぱり考えられないのに。
崎村はちょっと悩んでから、わかったと頷いた。
翌日の為に早めに崎村の病室を出る事にして、少し話をしてから別れを告げた。「頑張ってね」と微笑んだ崎村に和真は笑顔で手を振って、ドアを閉めた後竜平の方を向き直った。
「楽しみだな」
何の疑いもなく、失敗する可能性なんてこれっぽっちも考えていない笑顔を竜平に向ける。だから、竜平も同じような顔をして笑ってそうだな、と言った。
そのまま翌日の約束をして竜平は家に帰る。
自転車を置いて、家に入ろうとしたら玄関前で思わぬ人と出くわして、竜平は足を止めた。相手も竜平に気がついて、顔を上げる。
「竜平か」
「ん。店は?」
「一服してただけだ。すぐ戻って母ちゃんと代わるよ」
玄関先の石段に座っていた父は覇気のない声で言うと、手に持っていた煙草を吸い込んだ。父と話すのは、久しぶりのような気がした。特に言うべきことが思い浮かばず、頭の中が白紙のように真っ白になる。家の前に設置してある、空き缶を再利用した煙草の吸殻入れの中から吸殻が溢れているのを見て、父の煙草量が増えたのではないか、と思った。
話すこともないから、家に入ろう。そう思って父を通り過ぎて玄関の戸をくぐろうとしたら背後から声が聞こえた。
「お前、明日は行くのか」
どきり、と心臓が跳ねた気がしたのは罪悪感から。父を騙しているような心持ちがするからだ。それを押し隠して、努めて平気な顔を保ったまま、平気な声で答える。
「和真と見に行く」
「そうか」
「父ちゃんは?」
「行かねえ」
ふうん、と竜平は呟く。沈黙がおりて、道路を通る自動車の音が聞こえてきた。会話の続かない居心地の悪さ。
父は手に持っていた煙草を地面に押し付けて、その火を消すと、大儀そうに立ち上がった。吸殻入れに煙草を押し込んで、何も言わずに店に戻っていく背中を、竜平は黙って見送った。
花火大会当日。竜平は作り上げた花火とその他諸々必要なものを詰めたリュックを背負って、家の倉庫からこっそりと拝借したスコップを抱えて、朝から家を出た。その足で和真の家に行くと、洗濯物を干していた和真の母親に見つかって朝から元気ねえ、と笑われた。家から出てきた和真は苦い顔をして自分の母親を見ていた。母親がいては、堂々と打ち上げ筒を運び出す事はできないからだ。だけど、もたもたしてもいられないので二人で和真の部屋で大きなスポーツバッグに筒を詰め込んで、それを抱えて運ぶ事にした。砂を詰めているせいで重いそれは運ぶのも一苦労で、二人で和真の母親の目を盗んで小走りでそれを抱え上げて自転車まで運んだ。
重い筒を自転車に積んで一息ついて、それから二人は地元の駅に自転車を走らせた。駅前の自転車置き場に自転車を置いて、電車で二つ先の駅まで行って、そこから歩くつもりだ。
「わ。ちょっとヤな感じ」
電車から降りると、和真が空を見上げて顔をしかめた。竜平もそれに倣って空を見上げる。最近ずっと晴れていたのに、今日になって朝から曇りだしたのだ。
「天気予報見た?」
和真の問いかけに、竜平も顔をしかめて頷いた。
「微妙。50%とか」
「ほんとに微秒だな」
そんな会話をしながらまだ人の多くない道を二人で歩く。この駅からも、打上場所はそんなに近くはない。だけど、最寄り駅には朝から会場整備の警備員が張っているから、この大荷物で、しかも持っているものが持っているものだから、警備員の前を通るのは避けたかった。
重い筒を交代で持ちながら、二人はもわりとした熱気に包まれた住宅街を通り抜け、川沿いの土手を歩いた。今日は湿気が多くて肌に熱気が纏わりつくようだ。日差しを雲が隠しているから、直射日光からは免れることができるけれど、不快指数はかなり高い。それに加えて、髪の間や額や首筋からひっきりなしに汗が流れ落ちて気持ち悪いし、時々それは目に入って痛い。長距離の歩行には向いていない不快さだった。リュックを背負った背中が蒸れて暑い。
晴れている日よりも垂れ込めて低く見える空の下で、蝉の声は相変わらずけたたましく、反響するように聞こえた。
重い荷物と長い距離に、段々二人の口数は少なくなって行った。足は重く、腕は痛い。ひたすら黙々と足を動かして、目的地に足を運ぶ。
ようやく目的地に着くと、竜平は素早く辺りを見渡してまだ花火業者が到着していない事を確認した。業者が到着してからだと、見張りが厳しくなってとても近づけない。人が来る前に入り込むと、あらかじめ確認しておいた、少し離れた橋の下に腰を下ろす。
そして、石をどけて地面を露出させ、その場にスコップを突き立てた。
「何やってんの?」
「見つからないように、隠しとかないと。目立つだろ」
「なるほど」
花火業者が到着するまでに穴を掘って筒と花火玉を埋め込み、石を載せて隠しておかなければならない。それから、自分たちの隠れる場所に行かなければ。業者が到着して、警備員がうろつき始めたら身動きが取れなくなるし、そこで見つかって追い出されたらここに入り込む機会はなくなるだろう。
二人がかりで交代でも、固い河原の土を掘るのは大儀だった。汗でシャツが体に張り付いて、一動作する毎に不快な感触が体に纏わりついた。額から落ちた汗が粒になって掘っている地面にぽたぽたと垂れた。
このくらいの穴で入るかな、何度かそうやって和真が尋ねては、試してみるけれどなかなか筒は埋まらなくて、三度目でようやく筒がきれいに埋まった。横に、菓子箱に入れて厳重に梱包した花火玉を置いておく。それらを埋めて、上に石を乗せて置くと、近づかない限り普通の地面と変わらないように見えた。
手が泥だらけになったので、二人で仲良く川で手を漱ぎ、スコップを草むらに隠してしまうと大分身軽になった。
「これからどうすんの?」
「ばれないような場所で身を隠して夜を待つ」
「マジで!? 忍者みたい」
「そういえば和真将来の夢忍者だっけ」
「生まれてから一度もんなこと言った事ないよ」
適当な会話をしながら、下見の時に見つけた背の高い夏草の生い茂った藪の中に潜んで時間を潰す。和真は自分のリュックサックをごそごそと探って色々なものを取り出した。
「俺、お菓子持ってきた。あとゲーム」
「用意いいな」
「あと、お母さんが麦茶くれた」
「妙に大荷物多いと思った」
「っていうか、あちいなあ」
二人で厚い雲の空を仰いでため息をつく。天気の事は、なんとなく口に出し難い。言ってしまったら懸念が本当になりそうな気がして。
だから、いつも二人でいる時のように学校の話をしたりお菓子を食べたりした。それに尽きると無言になった。いつの間にか、胸の辺りがむかむかとしていることに気がついて、初めて自分が緊張している事に思い当たった。和真はいつの間にか河原に横になっていて、寝ているのかもしれなかったし違うのかもしれなかった。
いよいよだな、と思った。顔が熱くなって、風景がぐるぐると回っているような気がした。はっと気がつくと、同じ河原で座っている。和真のように眠ってしまった方がいいのかもしれない。だけどもし眠りこけて寝過ごしてしまったらどうしよう。それにとても寝れる心境じゃない。蝉の声がどこからかひっきりなしに聞こえてくる。自分が今立っているのか座っているのかわからなくなる。時間の感覚もなくなって、ひたすらじっとそれを耐えていた。
遠くで車の音がして、静まり返っていた河原に少しずつ人の声や足音、物を運ぶ音がし始めたので、花火打上の業者が到着したのが分かった。
河原で準備する人々の活気が伝わってくると、何もない時よりは少し平静を取り戻す事ができた。自分も去年同じ事をしたから、立ち働いている人々の音に耳を澄まして、行動を頭の中でなぞる。そうしていると、余計な事を考えなくてすむ分落ち着いた。混ざり合う人の声の中に、知り合いの声が聞こえそうで、耳に神経を集中する。
「腹へらねえ?」
むくりと、和真が起き上がって側においてあったリュックサックをごそごそと漁りだした。
「え、まだなんか持ってきたの?」
近くにはいないとはいえ、設置作業をしている人に聞かれないように声を潜めて聞き返す。
和真は頷いて、ラップに包んだ白米を取り出した。
「おにぎり」
とてもおにぎりの形とは思えない、海苔も巻いていないそれを竜平にひとつ手渡して、和真は言う。
「……ありがとう」
ラップを解いて一口食べる。塩気も何もない。おにぎりではなく固めた白米だ。
「聞きたくないけど、もしかして手作り?」
「もっとありがたがって食うべきだと思う」
「手作りなんだな」
真ん中に、ひとつ梅干が入っていた。
酸っぱいのを我慢して飲み込んで、種を地面に吐き出して、二人で代わり代わりに麦茶を飲む。一服しているうちに、少し緊張感が抜けていた。強張っていた体がほぐれるのを感じる。
ふう、と息を大きく吐き出した丁度その時だった。がさがさという音がすぐ側でした。藪を掻き分ける音だ。咄嗟に気がついて和真とほぼ同じタイミングで音のする方を見る。
そこに姿を現した人物を見て、竜平は息が止まるかと思った。
深い皺の入った浅黒いその顔も、厳しく睨みつけるような目も、老人の割に頑丈な体躯も、竜平にはよく見覚えのあるものだった。息を詰めて見つめている竜平の前に立って、その人はじろりとこちらを見下ろした。
「こんなところで、何してるんだ」
よく聞きなれた低い声に、竜平はびくりと跳ねて、背筋が伸びる。
「師匠」
無意味に呟いた言葉にはただ、じろりと厳しい視線が返されたのみだった。
次の瞬間、頬に強い衝撃と受けて、竜平は一瞬目の前に星が散るのが見えた。まるで、漫画のように。そして、その後に強い痛みが襲う。
殴られた頬を押さえて、竜平は辛うじて体制を立て直した。
「さっさと出てかねえと、警備員を呼ぶぜ」
睨み返す勇気がなくて、視線を地面に落とした竜平の頭にそんな言葉を落として、祖父は監視するようにそこで微動だにしない。
「竜平……」
和真の気遣わしげな声が隣から聞こえる。
指先が震えていた。息が苦しかった。誰よりも尊敬している祖父に、どんな目で見られているかと思うと耐えられなかった。
竜平は立ち上がって和真の手を握って引っ張った。逃げるように早足で足を踏み出した竜平の背中に、祖父の声が追いかける。
「きったねえ靴下が倉庫の中に落ちてたぜ。さっさと返せよ」
背筋が冷たくなったけれど、聞こえないフリをして、そのまま足を踏み出す。駆ける。逃げ出す。
和真の慌てた声も、人々のざわめきにも、気を使っている場合ではなかった。




