6.呼びかけ時の敬称:称号としてのドクター(Dr.)
ところで。
相手を呼ぶ場合、“呼び捨て”にはしづらいですね。
日本語では「~様」「~さん」「~君」「~氏」を始めとして、多くの敬称があります。
外国語の場合も同様です。
【英語】
「ミスター」(Mr.)や「ミズ」(Ms.)
【フランス語】
「ムッシュ」(Monsieur)や「マダム」(Madame)
「マドモアゼル」(Mademoiselle)
※なお、現在のフランス公文書では「マドモアゼル」は使用不可です。
【ドイツ語】
「ヘル」(Herr)や「フラウ」(Frau)
【スペイン語系】
「セニョール」(señor)
「セニョーラ」(señora)「セニョリータ」(señorita)
【イタリア語】
「シニョーレ」(Signóre)や「シニョーラ」(Signóra)
【ロシア語】
「ガスパジーン」(господин)や「ガスパジャー」(госпожа)
※これらはかなり畏まった呼び方で、通常は「固有名+父称」だけで呼ぶと敬称扱いです。
などが有名ですね。
これらは広く使用できる敬称ですが、相手の身分や肩書きによって異なる敬称を用いる必要があります。
これらを全て紹介してゆくとキリがありませんので、とりあえず一例だけご紹介。
・王族に対する「陛下」「殿下」
・貴族に対する「ロード」や「サー」(「卿」)
・高位の聖職者に対する「聖下」や「猊下」
※「聖下」はローマ教皇およびギリシャ正教の総主教に対する尊称
※「猊下」は仏教の門主や僧正、キリスト教の枢機卿に対する尊称
・高位の官職者や軍人に対する「閣下」
※英語では、軍人に対して「Galant」という敬称も使います
このあたりの「敬称」については、言語文化、社会制度、職能階級(職位)の種類によって大きく異なる部分がありますので、あまり気にしない方がいいかも知れません……。
* * *
貴族称号として「サー」(Sir)や「デイム」(Dame)および「ロード」(Lord)について触れましたが、一般人が“称号付き”で呼ばれるケースはあるでしょうか。
あります。
現代物に応用できる「尊称(称号)」が【ドクター】(Dr.)です。
いわゆる「○○博士」です。
ただし『ドクター・○○』と称する場合には、注意が必要です。
まず、この「ドクター・○○」といった呼び方。
残念ながら現代日本では、大手マスメディアですらきちんと用いておりません。欧米の方からすると、驚くほど“いい加減”な取り扱いなのが現状です。
日本語の発声や表記では「ドクター・○○」と呼ばれる方々には幾つかのパターンがあり、本来“冠する呼称”も異なるものです。
最も敬されるものは【Ph.D.】([Doctor of Philosophy]、発音は『ピー・エイチ・ディー』)という「学位」を得ている「ドクター(Dr.)」です。
この【Ph.D.】
日本では「哲学博士」と訳されることもありますが、本質的な意味では『学術学位(研究学位)』と呼ばれるものです。つまり学術研究の世界で十分な知見や実績を挙げ、博士論文を執筆し成果が認められた方に対して与えられるものです。【博士号】取得者への敬称です。
欧米では、Ph.D.取得者を呼ぶ際には、『ミスター(Mr.)○○』や『ミズ(Ms.)○○』とは決して呼びません。男女問わず、必ず『ドクター(Dr.)○○』と呼びます。
フルネームなら名の前、姓だけなら姓の前に付けます。書く時は「○○・△△,Ph.D.」の様に書きます。
というのも、この【Ph.D.】ですが、欧米圏では【GBE】などの「Sir」呼びされる勲位と同じように「Title」(称号)の一種として扱われます。とても重い《肩書き》なのです。
実際、欧米の入国カードやホテルの宿泊カードなどには「Title」を記載する欄があり、Ph.D.取得者はここにその旨を記すことができます。
実はこれ、場合によってはブラックカード出すより有効な《肩書き》として機能します。
それ以降、呼びかけが『ミスター・○○』や『ミズ・○○』から『ドクター・○○』に変わり、明らかに待遇がよくなります。
なお我が同僚は【Ph.D.】ですが、一人だけ部屋がアップグレードされました。露骨っ!
作中でそんなシーンを登場させても面白いかも知れません。実際『日本の博士号を取得していない大学教授が、博士号持ちの弟子と旅すると、明らかに弟子の方が優遇されてご機嫌斜めになる』という、あまり笑えない話があります……。
また、興味がある方はノーベル賞に関する記事や宇宙飛行士などを紹介する英文記事を読んでみて下さい。新聞やテレビなどの欧米マスメディアは、博士号取得者は必ず「Dr.○○」と記し、博士号を持っていない人と明確に区別して記しています。日本では、大手新聞ですら「○○氏/○○さん」と書きますが……。
なお【Ph.D.】の敬称は、通常は職業などの肩書きよりも優先される称号です。
よって【Ph.D.】を取得している人に「ミスター・○○」「○○さん」「○○先生」などと呼ぶのは、敬意のない表現として受け止められます。特に気にしない人も多いですが、一般に特に欧米ではその傾向が強いので、気をつける必要があります。
(時々、欧米映画やドラマなどで、本人が『私はドクター・○○だ』と呼称修正を求める台詞があったりします。こだわる人は、大変にこだわるのです)
例外が、「大学教授」(最上位の大学教員職)の場合で、この場合は「プロフェッサー・○○」(Prof. ○○)と呼びます。(基本的に、大学教授の多くは博士号を取得していることが多く、博士号持ちの中でも一段階上と見なされます)
その他の大学教員である准教授(associate professor)や講師(lecturer)の場合は、博士号を取得している場合は「ドクター・○○」、博士号を取得していない場合は「ミスター・○○」や「ミズ・○○」と呼びます。
なお北米の大学においては「終身雇用の権利を有する教員」と「権利を有さない教員」との間には、非常に大きな待遇の差があります。この終身雇用の権利(資格)のことを「テニュア」と呼びますが、これは最低ラインが「博士号取得者」とされます。テニュアになるためには通常五年以上の勤務期間で支障なく教育活動に従事することが必要で、かつ、その期間内に一定の学術的業績をあげる必要があります。
その仕組みの所為もあって、北米の「大学教授」(通常はテニュア)は《基本的に博士号持ち》であるため、「プロフェッサー・○○」の方が優先されるわけです。「職位」に対する敬称ではなく、「一段階上のドクター」という意味での敬称ですね。
日本の場合は、人文系を中心に「大学教授でも博士号を取得していない」ケースがあるので、『プロフェッサー・○○,Ph.D.』のように「Ph.D.」を付加して記します。
日本語で書く場合は全て「○○先生」でも構いませんが、欧米を舞台にした作品でリアリティのある表現にするならば、呼び方にこだわってみるのもオツですね。
『プロフェッサー・○○』と『ドクター・△△』と『ミスター・□□』の三人が居たら、学術世界および社会的な地位は先に記した順となります。
また『プロフェッサー・○○』と『ドクター・△△』は、男女で同じ呼び方になりますので、性別に関係するミスリードに使うことも出来ますよ。
ちなみに、フランス語では「Dr」と最後にピリオドを付けない書き方になります。ドイツ語の場合は「Dr.」のピリオド付きで「ドクトル」もしくは「ドクトア」と発音します。
なおドイツ語の場合、「Dr.」の肩書きの《前》にさらに敬称を付けることがあります。つまり「Herr Dr. ○○」(ヘル・ドクトル・○○)や「Frau Dr. ○○」(フラウ・ドクトル・○○)のようになるので、英語のような性別のミスリードには使いづらいですね。
さらに、イタリアの場合。
イタリア人で「Dottore」と姓名の前に称号が付いている場合は「大学卒の学士」であることを意味します。『大卒で称号?』と思われるかも知れませんが、イタリアの大学はかつて五年制で、大学院並みの高度な教育を行っていたためです。(現在は三年+二年に分かれ、三年修了時にいわゆる「大卒学士」となります)
イタリアは欧州最古の大学(ボローニア大学)があり、伝統的に大学の教育レベルは高いのです。
もう一つの「ドクター」が【職能学位(専門職学位)】に基づく「ドクター(Dr.)」です。
法律関係の【J.D.】と医学関係の【M.D.】が代表例です。前者は「法務博士」、後者は「医学博士」と訳されることが多いです。
彼らは「ドクター」と称されますが、Ph.D.と異なり、「職能資格を有している」というだけでは《称号》とは見なされないことが多いです。
たとえば「お医者さん」の場合。
イギリスやドイツで「ドクター・○○」「ドクトル・○○」と呼ばれるのは【医学分野のPh.D.取得者のみ】で、単なる医師免許取得者は「ミスター・○○」や「ヘル・○○」と呼ばれます。
アメリカでは「医師の養成」は高等教育機関(専門職大学院)で行われますので、「医師免許取得者」の職能学位としての「M.D.」は、そのまま「博士号」と見なされます。よって普通は、皆「ドクター・○○」です。
アメリカ以外では、単なる「医師免許取得者」の場合、[○○・△△,M.D.]と記し、博士号取得者の医師の場合は[○○・△△,M.D.,Ph.D.]と記します。(アメリカの場合、[M.D.,Ph.D.]の両方を名乗る人は、大学院で高度な研究生活をこなしてきた超エリートさんですね)
アメリカの高等教育で取得する学位は、学術研究を主とする「学術学位」と、職能大学院・専門職大学院で実務に直結する知識・技術を習得する「職業学位」に分かれます。経営学の「DBA」(MBAの一段階上の学位)、教育学の「Ed.D.」などが有名ですね。これらは欧州では「博士号(Ph.D.)」とは見なされません。
なお、これら「ドクター(Dr.)」の学位を日本語で記す場合【博士】と書きますが、このときの発音は基本的に【はくし】です。
【博士(はかせ)】と呼ばれるのは『ある分野の専門家としての《呼称》』です。いわば自己申告か他者申告のニックネームに過ぎません。
欧米圏での現実社会では、Ph.D.を取得していない人を公式の場でドクター呼びすると、変な顔をされたり、場合によっては軽蔑されます。こちらも気をつけましょう。
『○○博士』『ドクター・○○』と相手を呼ぶのは、『サー・○○』や『○○卿(ロード・○○)』などと呼ぶのと同じくらい、敬意ある表現です。
上手く使いこなせると、現実社会風の物語に奥行きがでますよ。
* * *
以上、現実社会(主に欧米圏)での名前表記について、基本的な「雑学」を記してきました。人によっては当たり前過ぎることも多いとは思いますし、知っていても知らなくても別に構わないような内容ですが、少しでも誰かのお役に立てることが出来れば嬉しいです。
異世界物の登場人物ネーミングの場合は、皆様が工夫を凝らしてオリジナル世界を構築されるものですから、ここに書いたルールを当てはめなければいけない、というものではありません。ちょっと現実に近づけたい方向けの、単なる雑学としてお楽しみ下さい。
ここに記した内容の多くは、多少事典などを調べれば分かることが大多数です。筆者も、今までの“調べもの人生”の中で、少しずつ蓄えてきた情報です。これをきっかけに何か興味を持ったネーミング規則があれば、ぜひともご自身で調べて見て下さい。…………いわゆる「沼にはまる」こと、保障します(苦笑)
それでも、そんな(ある意味無駄な)知識も人生の糧です。ちょっと創作に行き詰まった時など、娯楽としてネーミングの由来などを考えてみてはいかがでしょうか。
ちょっと暇があったら『辞書・事典を読む』のも、あなたの創作の幅を拡げる、一つの手段かも知れません。
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■「ドクター呼び」に関しましては【宮沢弘】様(ID:569588)にご協力いただきました。ありがとうございました。
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≪余談:博士号を取得する“たたかい”≫
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とても“どーでもいい”ことですが。
一般に「博士号(Ph.D.)」を取得するには[博士論文]を執筆提出し、その成果を広く認めてもらう必要があります。詳しいことは国や学問分野、授与組織(大学など)によって異なる部分も多いので省きますが、一般には以下の手順です。
1.研究活動成果を「学術論文」として複数発表する
→2.授与機関より[Ph.D. Candidate]として認めてもらう
※Ph.D. Candidate:博士論文を提出する権利を有する人物のこと。
「博士」の候補者。ところによっては筆記試験もある。
→3.「博士論文」を執筆し、定められた時期に授与機関に提出する
※博士論文:[dissertation/Doctoral thesis]
自らの研究成果の集大成(?) 数百ページあることも……。
→4.審査結果を待つ
→5.「博士論文口頭試問」に臨む
→6.認められれば「Ph.D.」取得へ
で。
この5.[口頭試問]ですが、かなり厳しいものです。特に欧米では、場合によっては半日~丸一日かけて行われます。
この口頭審査。英語では「Ph.D. Defense」と呼ばれます。
defense……「守る」ということは、攻める側もいて。審査員たちは「opponent(敵対者)」とも呼ばれ、彼らからの「自分が博士となる権利を守る」ために、審査に臨みます。
一人の発表者(論文提出者)に対し、通常5人程度の審査者がいます。彼らはその分野の専門家かつPh.D.取得者で、必ず外部の人間が混ざります。また、基本的には外部一般公開で行われます。
欧米では本当に重要な「審査」にあたるため、挑む方も受ける方も真剣です。
国や大学によっては、審査対象者(candidate)や審査官(opponent)には第一礼装を求めることがあります。
北欧や英国などの大学では【燕尾服+シルクハット】に加えて【帯剣】モードだったり。
……学位審査ですが【剣を持って臨む】のです。こわっ。
でもカッコいいですね。……「defense」に成功すれば、ですが。
大勢の聴衆の前で、ズタボロに(学術的)公開処刑を喰らうこともあるので、油断禁物。
こんな苦しい“戦い”を乗り越えてくるからこそ、欧米でのDr.に対する敬意は構築されてゆくのでしょうね。
≪余談おわり≫
■【後書き】と【御礼】■
前作を投稿してから約半年を過ぎてからの【修正改稿・再投稿】となりました。
その間、予想以上に多くの方の目にとまり、また数多くのご指摘や情報提供をいただき、深く感謝する次第です。
今回の改稿にあたっては、感想その他で寄せられました情報をフルに活用し、新しい情報源などにもあたりながら情報を更新しております。
また、前作は「短編」投稿であったため長い本文でしたが、今回の再投稿にあたって「連載」形式とし話分割しました。一話が約3~4000字台ですので、後日必要な情報だけを確認しやすくなったかと思います。
加えて、例示をかなり増やしました。そのため、全体量が倍以上に増えております(汗)
いずれにせよ、皆さまの創作活動に、少しでもお役に立てれば幸いです。
今作もご愛顧下さいまして、誠にありがとうございます。
何か追加するネタができて執筆できそうならば、次話作成してみたいと思います。