3.高貴なご身分:貴族称号その2(イギリス系・ロシア・北欧系)
★ 2016.10.31にN6704DP【西洋風ネーミング雑話】その姓、なにモノ?? として投稿した作品を改稿しました。既読の方におかれましては、一部にあった誤情報を修正しておりますので、よろしければ再確認下さい。
★ 2017.08.24:ご教示いただいた内容を元に、英国貴族の女性敬称「レディ」に関する記述を一部修正しました。
では、前置詞などを姓名に組み入れるタイプでは無い他の言語文化圏においては、貴族称号はどうなっているでしょうか。
ロシア系や北欧系貴族(スウェーデンやノルウェー)の場合、前置詞や冠詞で貴族の姓を区別する慣行がありません。一部で「フォン」がつくケースもありますが、かなり例外です。
たとえば、フランス王妃マリー・アントワネットとの関係で有名なスウェーデン貴族「フェルセン伯爵」の姓名は「ハンス・アクセル・フォン・フェルセン」(Hans Axel von Fersen)で、フォン(von)がつきますが、スウェーデン貴族でもフォンがつく貴族は少数派です。スウェーデン王家の場合は、英語の「オブ」(of)にあたる「アヴ」(av Sverige)が使われますが、これは姓ではありません。
なお、ロシア人の姓名も別にルールがあり、貴族でも平民でも同じ形式でした。ドイツ系ロシア人で、「フォン」(von)や「ツー」(zu)がつくケースがありますが、姓に組み入れるロシア語の貴族称号はありません。
ロシア人の名付けルールは、現在においても厳密です。
まず、ロシア人の姓は男性と女性で綴りが違い、発音も変わります。そのため、兄弟姉妹で姓が違う表記・音になります。
たとえば、文豪「トルストイ」(Tolstoy)と同じ姓の妻・姉妹・娘は「トルスターヤ」(Tolstaya)です。
そのトルストイの代表作でもある小説『アンナ・カレーニナ』は、そのまま女主人公「アンナ・カレーニナ」(Anna Arkadyevna Karenina)の名前ですが、彼女の夫は「アレクセイ・カレーニン」(Alexei Alexandrovich Karenin)です。
また日本語などの外国語表記では省略されることが多いのですが、ロシア人の姓名は必ず《三部構成》です。
一人の姓名は、「固有名」「父称」「姓」の三要素から成り立っています。
後ほど説明しますが、欧州圏では「○○の息子」を意味する《新しい姓》を付ける慣例があります。しかしロシア系では採用されませんでした。代わりに「○○の息子」を意味する《記号》を名前に組み込んだのです。
息子には「○○ヴィッチ」(~vitch)、娘には「○○ヴィナ」(~vna)を付けます。正式には、前に来る父の名がどの音で終わるかで多少異なりますが、基本的には男性には「○○ヴィッチ」、女性には「○○ヴィナ」のいずれかが、必ず二番目の名前としてつきます。
つまり、ロシア人名の二番目を見れば、その人の父親の名前が分かります。その代わり《固有名としての名前》は常に一つで、ミドルネームに相当するものはありません。
先の例にあげた「トルストイ」の場合、「レフ・ニコラエヴィッチ・トルストイ」(Lev Nikolayevich Tolstoy)ですので、父の名前は「ニコライ」(Nikolai)です。また、彼はロシアの由緒ある伯爵家の生まれですが、ロシア語の名称としての貴族称号はありません。
※英語圏では「Count Lev Nikolayevich Tolstoy」(Countは「伯爵」の意味)と記されます。
同じように「伯爵」を意味する「paф」を冠することもありますが、ロシアではあまり一般的ではありません。
さらに、ロシア人の《名》は種類が決まっていますので(男女合わせても百も無い程度)、バリエーションはあまりありません。他国のように《新しい名前を勝手に創造する》ことができません。
(そもそも欧米圏では《名》に用いるパターンは聖人や過去の偉人、父親の名前などに由来するものが多く、バリエーションが少ないです。近年になって《新しく創造した名》を使うケースが増えましたが、国や言語文化圏においては名付け不可の場合もあります)
その代わり、それぞれに《愛称》があります。有名どころでは「アレクサンドル」(Alexandre)を「サーシャ」(Caшa, 英語ではSasha)呼びする、とかですね。
この《愛称》は一つの《名》で、様々なバリエーションがあります。おかげでロシア文学を読んでいると「同一人物が、異なる名前で呼ばれる」ことが多く、人物把握に苦労するのです……。
なお《愛称》であって《省略形》ではありません。例えば「イワン」(Ivan)の《愛称》「ヴァニューシャ」(Baнюшa)のように、元より長くなるものが多いです。
……なぜ、そうなる??
* * *
さて、身近でありながら大変面倒なのが、英国貴族の場合です。
よく「サー・○○」などと呼ぶケースがありますが、この「サー」(Sir)は敬称・尊称で、前置詞ではなく名詞です。
一般男性への「ミスター」(Mr.)や女性への「ミズ」(Ms.)・「ミス」(Miss)・「ミセス」(Mrs.)の敬称の代わりに、地位ある方に呼びかける際の敬称です。
ならば、貴族なら皆「サー・○○」と呼ばれるかというと、違います。
基本的に「サー」(Sir)は、ナイト階級(準貴族)の男性名につきます。
女性の場合、本人がナイトの称号を得ている場合は「デイム」(Dame)です。
つまり「本人だけが貴族」の場合に用いる敬称です。
これらの敬称は、いずれも《名に冠する》称号ですので、「サー・○○(名)・△△(姓)」や「デイム・○○(名)」と呼ぶことはあっても、「サー・△△(姓)」と呼ぶことはありません。必ず「名前の前に付ける」称号です。同じ姓を持つ一族全体では無く、あくまで「本人のみが、高貴な地位を得ている」という意味からでしょう。
たとえばミュージシャンの「エルトン・ジョン」(Elton Hercules John)や女優の「ジュリー・アンドリュース」(Julie Elizabeth Andrews)は、大英帝国勲章の「CBE」(コマンダー)や「DBE」(デイム・コマンダー)に叙勲され、以降はそれぞれ「サー・エルトン・ジョン」(Sir Elton Hercules John)、「デイム・ジュリー・アンドリュース」(Dame Julie Elizabeth Andrews)と呼ばれます。
貴族階級を含む上流階級の女性に対しては、「レディ」(Lady/lady)を用います。
ただし、「レディ」を用いる場合には、さらに注意が必要です。
「レディ・○○(名)・△△(姓)」や「レディ・○○(名)」のように《名》の前に冠するのは、伯爵家以上の「未婚の令嬢」のみです。
結婚後は、公爵夫人は「ユア・グレイス」(Your Grace)、侯爵以下の爵位ある男性の夫人、準貴族階級の夫人は「レディ・△△(姓)」です。
文字で書く場合、必ず「Lady」と最初を大文字のエル(L)で記します。日本語では「令夫人」と訳されるパターンです。なお、女性ナイト(Dame)の夫は「ミスター」(Mr.)のままです。
子爵や男爵、および男女ナイト階級の令嬢は「ミス・△△(姓)」。「レディ・○○」でも「レディ・△△」でもありません。『そこの、ご令嬢!』という意味で「レディ」とだけ呼びかけることはあっても、名前とセットにはしません。
D.H.ロレンスの作品『チャタレイ夫人の恋人』の原題は『Lady Chatterley's Lover』です。
女主人公コニーこと「コンスタンス・チャタレイ」(Constance Chatterley)は、准男爵である「サー・クリフォード・チャタレイ」(Sir Clifford Chatterley)氏の妻ですので、正式な呼び方は「レディ・チャタレイ」(Lady Chatterley)、日本語なら「チャタレイ令夫人」です。姓にレディを冠する形式です。
彼女自身は爵位貴族の令嬢ではなく、ロイヤルアカデミー(王立芸術院)会員である「サー・マルカム・リード」の次女でした。よってサー・クリフォードと結婚する前は「レディ・コンスタンス」ではなく、「ミス・リード」でした。
当時、女性は出生身分を問わず、婚姻後は夫の身分に応じた敬称・呼称で呼ばれました。よって、彼女は「サー・クリフォード・チャタレイ」と結婚したことで、初めて「レディ」と呼ばれる資格を得たのです。
なお、離婚後の女性は、再婚するまで「前夫の身分に応じた敬称」を用いることができます。よって、コンスタンスがチャタレイ氏と離婚し再婚しない場合は、引き続き「レディ・チャタレイ」と名乗ることが出来ました。
しかし、作中での恋人「オリバー・メラーズ」は労働者階級である森番(Game Keeper)に過ぎないため、彼と再婚した場合は「ミセス・メラーズ」となります。
このように、女性は結婚によって社会的身分と呼称が大きく変化します。「社会的身分が落ちない、もしくは上がる結婚」は、彼女らにとって一生を左右する重大事項だったのです。
* * *
では、由緒正しき世襲貴族の男性はどうでしょうか。
この場合、自身が爵位を持っているかどうか、および、誰が誰に対して呼びかけるかで「敬称」が異なります。……面倒くさいったら、ありゃしない。
まずは基本形。
侯・伯・子・男爵の爵位を持っている場合は、【ロード・□□】と称します。
「ロード・□□」などと呼ばれる際の、この「□□」部分は、通常は爵位号や領地名です。
面倒なのは、本人の姓とは違うことが多い点。
例えば、サンドウィッチ命名由来として有名な「サンドウィッチ伯爵」の場合、彼の名前は「John Montagu, Earl of Sandwich」です。
彼は「ジョン」が名前、姓は「モンタギュー」、爵位号が「サンドウィッチ」です。(なお、正式には「Earl」(伯爵)の前に「The Right Honourable」という尊称がつきます)
彼自身が爵位を持っていますので、「ロード・サンドウィッチ」(サンドウィッチ卿)と呼びますが、姓に冠して「ロード・モンタギュー」(モンタギュー卿)とは呼びません。
地位や爵位が下の人間が、上位貴族の方に呼びかける場合は「マイ・ロード」です。よって、爵位が上の方への答礼(返事)は「イエス、マイロード」です。「イエス、サー」では失礼になります。
なお、公爵の場合は「デューク」(Duke)です。爵位貴族やジェントリ階級以上の場合は「デューク・□□」と呼び、ジェントリ階級未満の人が呼びかける場合は「ユア・グレース」(Your Grace)と呼びます。
王様への呼びかけは、日本語での『陛下』に相当する「ユア・マジェスティ」(Your Majesty)です。王子などは『殿下』に相当する「ユア・ハイネス」(Your Highness)です。基本的に、公式の場では名で呼びかけません。
…………ええい、忘れましょう、こんなもの。
なお、英国の場合は「爵位を継ぐのは継嗣一人で、次男以下は一般人」という扱いのため、貴族の子息を呼ぶ場合は注意が必要です。
公・侯・伯爵の長男は「法定相続人」と言い、父親に準じて貴族扱いです。基本的に、跡継ぎ長男(継嗣)は当主が持つ二番目の爵位号を名乗ります。
公・侯・伯爵の令嬢および次男以下の子息と、子・男爵の子女は「儀礼称号」という継承権の無い爵位号を持ちます。ですが、「有爵者」(本人が爵位を有している)とは異なる扱いです。
よって、家族であっても呼び方が異なるのが当たり前なのです。
たとえば□□侯爵の△△家の場合。
侯爵である当主本人は「ロード・□□」(爵位号)、
その長男が「ロード・■■」(二番目の爵位号、もしくは儀礼称号)、
次男以下は「ロード・○○」(個人の名前)、です。
親子で皆「ロード」でも、続く名称が全部違うという罠……。
なお伯爵以下の爵位の場合は、また変わります。
伯爵の「次男以下」は「オノラブル・○○・△△」(The Honourable ○○:爵子と訳される)です。書く場合は「The Hon ○○・△△」、口頭での呼びかけの場合、「ミスター・△△(姓)」(Mr. △△)です。
子爵・男爵の場合、「長男以下全て」の子女が「オノラブル・○○・△△」、呼びかけは「ミスター・△△」です。
……知らんがなっ
十八~十九世紀の貴族社会当時も大変面倒なルールだったらしく、どの家のどの人(息子)が、どんな爵位号で呼ばれるのかを確認するための『貴族年鑑』(デブレットやゴータが有名)は毎年のベストセラー(社交界デビューや婚姻で増減変化が大きい)で貴族教養の必須教材でした。お貴族様相手も楽じゃない。