五 外務大臣エセル・キシュン
「ほう。庇った者がね」
「そうだ、エセル。その者がよくわからないことを言って」
エセルはライベルにとって最も信用できる者であり、王宮で彼だけには心を開いていた。ライベルの母であり、エセルの妹は出産の際に死亡していた。王は残されたライベルを愛してはいたが、どこか距離を置いていた。父との距離を縮めるため、彼は王子として努力した。しかし王の態度は変わらず、彼は絶望していった。そんな時にライベルの心を救ったのが、エセルだった。
長い間隣国エイゼンにいたのだが六年前、先王にその能力を買われ、王宮に入った。初めの三年はライベルの教師として、それから外務大臣が引退することになり、彼が就任した。
エセルは誰よりもライベルに親身で、時には彼を叱ることもあった。ある意味本当の父である王よりも、父親らしく、ライベルは彼のことを深く信用するようになっていった。
「まあ。道理を得てますが。誰にも惑わされず、あなたの目で事実を見極める、ですか」
そうつぶやくとエセルは宙を仰ぎ、黙ってしまった。
「エセル?」
「あなたは気にすることはありません。ところでその者の身元は?」
「わからない。俺はシズコを部屋に運ぶので精一杯だったから」
「そうですか。まあ。いいでしょう。とりあえずあなたには私以外にも味方がいるということです。それよりも、暗殺者が気になります」
「……やはり、クリスナだと思うか?」
「どうでしょう。確かにあなたが亡くなれば一番得するのは第一継承権者であるクリスナ様ですが」
エセルは腕を組み、また黙る。
「クリスナ様だと思いたくありませんが、ニール様はわからないですね」
「ニール!あいつか。警備兵団団長に収まっているが」
「それも作戦だったかもしれませんね。あの方は民衆からも好かれていますから」
ニールは先王の弟であるクリスナの息子で、ライベルの従兄弟に当たる。
十五歳から兵団に入団し、王族であるにも関わらず近衛兵団ではなく、警備兵団を選んだ男だ。今では民衆の支持も厚く、団長まで勤めていた。
「あなたがお飾りだと、風潮しているようですし」
「なんだと!あいつ!」
「放って置きましょう。そのうち私が決定的な証拠を見つけますから」
「証拠……」
「そうです。証拠が必要です。証拠なしに取り調べることはできないでしょう。彼はクリスナ様に次ぐ第二継承権を持っているのですから」
「そうだな」
「それよりも、陛下。シズコ様は可愛らしい方ですね。お子に恵まれれば、第一継承権はお生まれになったお子様に移られます。そちらをお考えなさいませ」
エセルは目を細めて、柔らかい笑みを浮かべた。
それに対して、ライベルは口をへの字に曲げる。
「……そんなことは考えておらん。本当は、あいつは俺の愛妾でもなんでもない。あいつは故郷に帰りたいらしい。ニホンという国だ。聞いたことがあるか?」
「ニホン。そんな国が存在しているのですか?」
エセルは、近隣諸国の事情はすべて理解していた。しかし世界は広い。他の大陸や、北方の離れたところに、知らない国が存在していてもおかしくはなかった。
「エセルでも知らないのか。相当、辺鄙な国なんだな。そのニホンは。しかし、どうやってこのアヤーテに来たのだ?」
「池に不意に現れた。そうおっしゃっていましたよね」
「ああ。俺は池をずっと見ていた。賊と戦っていたのはそんなに長い時間ではない。その間にどうやって」
「おかしな話ですね。私のほうで調べてみます」
「そうか。よろしく頼む」
ライベルはエセルに笑みを見せた後、溜息をついた。
「どうしたのですか?」
「あいつ。本当に何も知らないんだ。最初同じベッドで寝ようとしたぞ」
静子を飼うことに決めたが、ライベルは同じベッドで寝ることは考えていなかった。いくら、少女といえども、女であることには変わらない。ベッドと共にすることで、間違いが起きる可能性を避けるためだった。
「それは、」
子供すぎる静子に対して、エセルも言葉に詰まる。
「本当おかしな奴なんだ。あいつは」
そう言って口を歪めるライベルは子供のようだった。
近寄りがたいほどの美男で、誇り高い。
人々のライベルの印象はそうであったが、こうしてエセルの前では、彼は少年の日々と変わらず、無邪気な姿を晒していた。
☆
「まだ起きていたか」
夕食を取り、蝋燭の明かりの下、文字の練習をしているとライベルが部屋に現れた。
彼の姿を見ると安心するようになっていた静子は、そんな自分がわからなくなっていた。日本に戻ることばかりを考えていたのに、今では彼のことをこうして心配している。
「どうした?」
「別に。あの人、確かエセルだっけ。今日初めて見たのだけど、どこか行っていたの?」
「ああ、隣国のエイゼンにいっていたからな」
「隣国のエイゼン。遠いの?」
「ああ、三週間ほどかかる」
「三週間。それじゃ、三週間あれば隣国にいけるんだ。ほかにはどんな国があるの?」
「アヤーテは大陸の一番下にあり、隣国は国境を接しているエイゼンだけだ。エイゼンの向こうにはサシュラ、ライーゼ、ケズンが広がっている。ケズンの先はわからんな。大陸にはこの五つの国だけだと聞いている」
小学校で世界の国については少し習った。そして従姉妹のタエから教えてもらい、中国、ロシア、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スペイン、オランダの国名は知っていた。世界は広いと聞いていたので、他にも国があることは知っている。だからライベルがあげた国がどこかに存在しているかもしれないと考える。
だが、一方、静子はこの世界は本当に鬼の世界ではないかと頭をよぎることもあった。それは外国語を知らない静子が日本語のようにアヤーテ王国の言葉を話すこと、目を覚ましたら移動していた、などの理由からだ。
「どうしたのだ?」
ライベルは黙ってしまった静子に訝しげな視線を投げる。
「なんでもない」
鬼の世界なんていうと笑い飛ばされるに決まっていた。だいたいライベル、先ほどみたエセルも、よくしてくれる使用人のパルも色彩や体格は違っても普通の人間だった。
「ニホンが恋しいか?」
静子が沈んでいると思ったのか、ライベルは彼女に近づきその頭を撫でる。
「ううん。そうじゃない」
そう答えながら彼女は不思議な気持ちに包まれる。頭を撫で、髪に触れるライベルに対して愛しいという感情が生まれる。
「エセルも調べると言っていたぞ。だから安心しろ」
「うん。ありがとう」
彼の緑色の瞳を眺めながら、静子は泣きたくなるのはなぜだろうと思っていた。