四 愛妾生活の始まり
「シズコ様。おはようございます」
翌朝、目覚めると二人の使用人に囲まれた。一人はいつも彼女の世話をしているパルでもう一人は初めて見る茶色の髪の女性だった。
アヤーテに来てから六日目の朝。
部屋の様子、使用人が二人いることに驚き、静子は昨晩のことを思い返す。
「陛下より今朝はゆっくり休まれるようとのことです」
パルの言葉を聞きながら、昨日の出来事を頭の中で整理してみる。
暗殺者に狙われたライベルを見つけ、脱走を断念。
それから逆に襲われそうになったところを彼に助けてもらった。
血に塗れた彼は見惚れるほど美しく、まさしく鬼神だった。
「鬼……」
「何か申されましたか?」
彼女にドレスを着せていたパルが顔を上げ、訝しげに静子を見る。
その瞳は琥珀色で、彼女は猫のような目だと思った。
「なんでも」
自分とは違う人種のアヤーテ人。
自分だけが毛色が違う。
身に着けるものの、食べるものも、すべてが異なる。
なぜ言葉が通じるのか、おかしいくらいだった。
「食事になさいますか?」
「うん」
気分は優れなかったが、力を蓄えるため、食べるべきだと頷いた。
昨晩から静子の立場は一転、ライベルの愛妾として扱われた。
部屋は個室を王室の隣に与えられ、使用人も王ではなく彼女専用に付けられた。
ライベルと同じ部屋で眠らずにすむことに静子は安堵していた。
彼はあまりにも美しくて、一緒にいると緊張してよく眠れなかったからだ。
――俺は命を狙われている。お前が俺の愛妾だと広まればお前も同じ運命だ。
彼は別れ際にそう言い、せいぜい気をつけろと彼の部屋へ戻った。
おかげで静子は折角一人になったのに眠れなかった。
「お茶はいかかですか?」
黙々と食事を取る彼女にパルが声をかける。
静子は、煮詰まった鼈甲色のお茶が好きではなかった。
緑色の日本のお茶が恋しいと思いながら、首を横に振る。
「体調を崩されましたか?」
そんな彼女にパルは優しく尋ねた。
「大丈夫」
短く答え、静子はパンを手に取る。
食欲はない。しかし、食事を残すことはなかった。
「寂しかったか?」
食事を終えるとライベルが現れた。
昨晩のことが嘘のように彼は普通で、静子の方が戸惑う。
「よく寝れなかったようだな。俺が一緒のほうがまだましだったか?」
「……それはない。ただよくわからない」
「わからない。まあ、確かにそうだろうな。昨日までお前は俺の鳥籠の間者だった。だが今日からは愛妾扱いだ。だが、俺と一緒の部屋で暮らしていたのは事実だから、愛妾扱いされてもしかたなかろう。暗殺名簿にも載っただろうな」
「愛妾、暗殺。どれもこれも意味がわからない。なんで私があんたの愛妾?愛妾って妾のことでしょ?暗殺も。あんた王様でしょ?」
「愛妾は当然だ。俺に飼われていたからな。嫌か?」
「嫌に決まってる。愛妾って、妻以外の女の人のことでしょ。そんなの嫌だ」
「ふーん。じゃあ。俺の妻になるか?案外、お前は欲深いのだな」
「妻!そういう問題じゃない。私はあんたの何者でもない」
「何者でもない……か。まあ、お前は俺の命の恩人ではあるわけだ。愛妾扱いは放っておけ。説明するほうが面倒だ。今、俺がお前を放り出したらお前も困るだろう?」
「……うん」
静子は一人でこの世界で生きて行けるか、その可能性を探って断念した。右も左もわからない別の国。愛妾といわれても、何をされるわけでもなく、衣食住は保障されている。それなら、その呼び名にこだわることはなかった。
「素直だな」
「……おかしい?」
「いや、別に」
ライベルはいつもの皮肉な笑みでなく、口元に優しげな笑みを浮かべた。
☆
静子の愛妾生活は、飼われていた時とほぼ変わらなかった。
違うところは、ライベルと一緒であれば、部屋を出ることが可能になったことだ。
「あれは何という花?」
「ティンデルだ」
「食べられる?実は成るの?」
「実は見たことがないな。食するのは無理だろう」
二人は並んで庭園を歩く。
一日に一回、二人はこうして庭園を歩くことにしていた。静子にとっては珍しい植物ばかりで、いつも彼に尋ねる。ライベルは静子の質問にはいつも必ず答え、わからないときは確認させていた。
「守る兵士がいるのに、なんで剣を持ち歩く必要があるの?」
ある日彼女はふと聞いてしまった。
後ろに近衛兵が控えており、安全は保障されているはずだった。
「まあ。念のためだ」
しかしライベルはそうはぐらかし、静子はそれ以上聞けなかった。
アヤーテ王国に来てから十日程、愛妾生活が始まり四日が過ぎたころ、静子の部屋に来客が訪れた。
静子に関してはライベルの許可がない限り、何者にも面会は許されていない。
したがって、目の前に立つ中年の男はライベルの信用たるものだろうと、彼女は部屋に招きいれた。
王宮の礼儀など知らないので、ただ頭を下げて挨拶をする。
「はじめまして。谷山静子です」
「外務大臣のエセル・キシュンと申します。陛下同様、シズコ様とお呼びしても構いませんか」
「はい」
エセルはライベルと背恰好が同じで、身長が静子より頭一つ半ほど高く、髪は茶色で短髪。瞳は王と同じ緑色だった。
「私は陛下の伯父に当たります。ですので、そう緊張する必要はありません」
ライベルと同じ瞳で見つめられ、彼女は安堵して頷く。
「突然現れて陛下を篭絡したと報告があったので、どのような妖婦なのかと思いましたが可愛らしい少女だったのですね」
「篭絡? 妖婦?」
静子のわからない単語を使われ、彼女は首を捻る。
「エセル!」
そうしていると扉が開かれ、ライベルが入ってきた。
「シズコに余計なことを吹き込むな!」
彼は焦っていたが、その口調はどこか子供じみていて、静子はいかに彼がエセルを慕っているか悟る。
「おやおや。陛下は相当この少女がお気に入りの様子ですね」
「エセル!」
「ははは。怒らないでください。シズコ様が健全な少女でよかったです。出張先で陛下が愛妾を持ったと聞いて肝を冷やしましたから」
「エセル!」
二人のやり取りはどこか楽しげで、静子はこの王宮でもライベルに味方もいるのだと心底安堵する。
ライベルと共に過ごし、常に彼が緊張しているのを知った。その上、彼は命を狙われている。
愛妾として広まるきっかけになったあの夜は、薬を盛られた上の暗殺だった。近衛兵は遠ざけられ、どうみても王宮内の者の仕業だった。
そういうこともあり、剣を離さないのは王宮内、しかも近くに敵がいるのだからと、アヤーテ人ではない静子すら理解できていた。
「さて、陛下。私の心配事がひとつ減ったところで、私がいない間に大変なことになっているようですね」
「ああ」
「執務室でお話しましょう。シズコ様。陛下をお借りしますね」
「シズコ。今日の夕食は遅くなる。先に用意させておく。お前が寝る前には、一度顔を見せる」
そう言って微笑まれ、静子はとりあえず頷く。
愛妾ではない。
友人でもない。
静子とライベルの関係はよくわからないものになっていた。
食事はライベルが空いていれば常に共に取り、毎日王宮内を一緒に散歩する。
傍から見れば完全に愛妾の立場なのだが、寝室は別でライベルが静子に触れたことは一度もなかった。
男女の何もわからない静子はそのことに疑問を持つことはなかった。ただ毎日が過ぎ、日本へ戻る手がかりも掴めず、このままどうしていいかわからなかった。
部屋に取り残されて、とりあえず彼女は本を開く。
勉強嫌いの静子なのだが、文字は知っていたほうが役に立つだろうと、最近は使用人のパルに教えてもらっていたのだ。
「……でもよかった。ライベルには信用できる人がいる」
自分のことは置いといて、孤独な王に信頼できる者がいることが嬉しく、静子は微笑を浮かべると羽ペンを取った。