五十二 王ではなく個人として
「ふざけたことを!」
ライベルは机の上を叩き、それから立ち上がる。
緑色の瞳は怒りで鮮やかに閃き、砦から早馬で戻ってきた使者が怯えるほどだった。
ニールが使者として砦を出発してから翌日、彼自身からではなく、エイゼンとアヤーテを行き来する商人達から噂話が入った。
――エイゼンに新しい王が立った。
――王妃として異世界の娘が傍にいる。
砦側は真相を確かめようと、新たに使者を送り、同時にニールの居所も掴もうとした。砦に戻った使者がもたらした情報は、砦を騒然とさせ、すぐにライベルへ早馬が走った。
静子が浚われてから十六日後。ニールが使者としてエイゼン入りしてから八日後。使者は王宮に辿り着き、疲労を隠さないまま報告をした。
シェトラ・エイゼンが新王に立ち、その妃は「異世界の娘」静子が内定。ニールは拘束されたということ。
「シーズ。軍に準備させろ!エイゼンに進軍する!」
「陛下!お静まりください!それでは戦争になってしまいます」
「そうだ。俺はエイゼンを侵略する。そしてシズコを奪い返す。始めからそうすればよかったのだ」
「陛下!」
「シーズ・ブレイブ。余の命が聞けぬか?余はアヤーテ九代目のライベル・アヤーテだ!」
「陛下!」
王室にいるのは、ライベル、国防大臣のシーズ、そして使者の三人だけだ。怒声の後、部屋は静まり返り、使者は戸惑うしかなく、成り行きを見守る。シーズは両腕を震わせ、怒りで我を忘れかれている王を仰いだ。
「シーズ・ブレイブ。何度も言わせるなよ」
「陛下……」
国防大臣は王に命に従う義務がある。今のライベルであれば命に従わぬ場合、職を解くくらいはしかねなかった。それであれば、状況を少しでも改善するため、自らが国防大臣として軍を率いたほうがよいとシーズは判断する。
「畏まり」
彼が諦めて了承の返事をしかけた時、扉が大きく開かれた。
「陛下!」
「……クリスナ」
入ってきたのはレジーナに支えられたクリスナであった。顔色は完全回復までとはいかなかったが、その青い瞳は静かにライベルに向けられていた。
「クリスナ様!」
シーズは安堵した表情を浮かべ、ライベルは不快そうに眉を顰める。
「陛下。また過ちを犯す気がですか?」
「ああ」
ライベルは迷うことなく、頷く。王として間違った行為であることは冷静ではないが、理解していた。それでも、静子がエイゼンの王妃としてシェトラの隣に立つことが許せなかった。
「……いいでしょう。それであれば、あなたは王失格だ。以前お話したように私が代わりに王になります。あなたは王としてではなく、一個人として自由にすればいいでしょう。それであなたがエイゼンに向かおうと、それは私の知るところではありません」
「クリスナ」
「クリスナ様?!なぜ、そんな馬鹿なことを!」
ライベルは王位を下ろされることに衝撃を受けたが、それと引き換えに自由を得たことのほうが重要だった。
シーズの方は、目を剥いてクリスナに抗議をする。
「あなたに私の兵を貸しましょう。あなたは思うままに動き、シズコ様と、我が愚息を救出してください。その後、私は怪我が悪化し、また床にこもってしまうかもしれません。その時は再び王に戻ってもらいますから。わかりましたね」
「クリスナ……」
「クリスナ様」
粋な計らいとしかいいようがない方法だった。シーズは苦笑するかしかなく、ライベルは胸が熱くなり、頷く。
「わかった。いえ、かしこまりました。陛下」
ライベルは片膝を床に付き、頭を垂れる。その様子にシーズは口を歪め、クリスナは頷く。
「それでは。準備を。私兵はカラスから借り受けたものばかり。数は少ないが、一個中隊分の働きはするはずです。陛下、いえライベル。これは私の一種の償いのつもりだ。足りないほどだが、受け取ってくれ」
クリスナは口調を変え、彼の叔父として笑う。それが先王の姿に重なり、涙腺が緩みそうになった。だが、それを堪えるとライベルは顔を上げた。
「陛下、いえ。ライベル様。結婚の儀のため、シズコ様のドレスを用意するのが楽しみなのです。お願いしますね」
「はい」
クリスナを支えながら穏やかに微笑むレジーナに、ライベルは笑顔を返す。
王としてではなく、個人となり、彼は初めて自分の気持ちに素直になれた気がしていた。
「これはここのだけの話に。ジャン。お前はこの件が終わるまで、俺の下にいてもらうぞ。わかったな」
三日寝ずに馬を換え走り続けた使者――ジャンはシーズの脅しにただ頷く。彼は疲労困憊で状況に追いつけずにいた。ただ眠りたいとただその願いを胸に立っている。
「陛下、いえ。ライベル様。まぎらわしいな。あなたが王宮から出ることは内密にします。何が何でも戻ってきてください」
「わかってる。シズコとニールを連れて必ず戻ってくる」
「クリスナ様。カラスから借り受けたとは、信用置けるものなのでしょうか?」
「ああ、なにやらエイゼンにカラスの逸れ者がいるらしく、その回収も兼ねていると言っていた」
「そうですか。それならいいですが」
シーズはクリスナやライベルと異なり、楽観的になれなかった。カラスがライベルを裏切った場合は敵地で確実に殺される。しかし、二人が納得しているのだから、何も言えるはずがなく、大きな溜息をつきながらライベルを見送るしかなかった。
☆
「ご機嫌いかがですか?」
血に塗れた日――シェトラが城を占拠してから一週間が経過していた。今朝も着替えを済ませて待っていると、エセルが部屋に現れる。
罪悪感、苦しみなどの感情を一切外に見せないエセルに、静子は憎しみを覚えるようになっていた。それはシェトラに対するよりも強く、彼女自身が驚くほどだった。
「シズコ様。そんな顔もされるんですね。笑顔よりも似合っていますよ。その黒髪と黒い瞳は闇に属するもの。光溢れるアヤーテ王よりも、シェトラ陛下の隣があなたには相応しい」
「……そんなことどうでもいい。早くニールのところに連れて行って」
「せっかちですね。畏まりました」
エセルは優雅に頭を垂れ、歩き出した。
あの日、ニールが静子を連れて逃げようとした日。
コスタ相手に奮戦をしていたが、ハイバンが中に入り、すぐに勝敗が決まった。
殺そうとしたコスタを止めたのは、静子だ。
静子が命乞いをして、ニールは命を取り留め、牢獄に入れられることになった。
エセルは、シェトラが静子の願いを聞き届けたことに驚きながらも、彼の決断に口を挟むことをしなかった。
さらに静子はニールが殺されないように、毎朝彼を見舞うことをシェトラに約束させた。もし約束を守れない場合は、彼女が自害すると脅したせいもある。
こうして、静子は二人の人質を取られることになり、状況はますます不利になっていた。