三十三 決別
――まずシズコに会わせてくれ。
ライベルがそう言い出すのは予想済みだったらしく、エセルは軽く承諾し、執務室から彼を連れ出す。
とても王を脅したものはいえない位堂々とエセルは王宮内を闊歩していた。しかも丸腰、無防備な背中をライベルに向け、歩いている。
このまま、彼を捉えるか否か、そんな選択肢が頭をよぎる。
しかし、彼が先ほど吐露した気持ちが邪魔をして、踏み切れなかった。また、エセルをここで捕らえたら、状況がますます悪化する可能性も捨て切れず、ライベルは黙って彼に従い、歩いていた。
馬に乗り、王宮の森に入る。
馬も事前に用意されており、道筋も同じな気がしてライベルは静子の襲撃事件のことを思い出す。
エセルが起こしたことではないかと思い、彼は激しく動揺する。そうなると今まで襲撃、毒混入など事件はすべてエセルに繋がっている気がして、ライベルは自分が暗い穴に吸いこまれていく気分に陥った。
「どうしましたか?」
突然馬を止めた彼に、エセルは振り返る。
表情はいつもの柔和なもの。彼の伯父の顔。しかし、今はそれが怖かった。
「行きますよ」
何も答えない彼に、エセルは背を向けると先を急ぐ。
距離的にも遠くなっていく背中。それだけでなく、慕っていた伯父の存在が遠くにいなくなっていく錯覚に陥る。
――ライベル。
だが、愛する者の声が脳裏で聞こえ、彼を現実に引き戻す。
「シズコ……」
ライベルは彼女の名を呼び、自分の目的を思い出す。
まずは静子の安全を確かめることが先だと、馬を駆った。
☆
馬の嘶きがして、ダンソンが壁から体を起こした。
小屋の入り口に近づき、板目の隙間から外を伺う。
それから、扉を開けた。
薄暗い部屋に急に光が差し込み、静子は反射的に目を瞬いた。
「シズコ!」
逢いたかった人の声が聞こえ、その人の輪郭が徐々に明らかになる。
口の中の布のせいで、名が呼べず、ただ食い入るように彼を見た。
「離せ!」
ライベルの隣に立つのはエセルだった。
冷えた表情をしており、彼を押しとどめる。
「安全は確認したはずです」
「エセル!」
ライベルが噛み付くような態度をエセルに取るのを静子は初めて見た。そして、同時に今回の首謀者がまたエセルであり、それをライベルが知っていることを確信する。
「ダンソン。お前は近衛兵団副団長だ。シズコを開放しろ!」
ライベルにもすでにダンソンは彼の命令は聞かないということはわかっていた。しかし、少しの望みをかけて命を下す。
「陛下。臣下を困らせてはいけません。彼はあなたの臣下でした。だが、私の私兵でもある。ダンソン」
ふいに、静子はひやりとした感触を覚える。ダンソンが抜いた剣が首筋に当てられていた。
「ダンソン!エセル!やめさせろ!」
「陛下。お分かりですか。彼はいつでも彼女を殺すことができる。だから、あなたには選択肢はないのですよ」
エセルが微笑み、ダンソンの剣先に力が篭る。
「エセル!わかった!お前の言うとおり、クリスナとニールを反逆罪で裁く。だから、シズコから剣を退けろ!」
「素直なことはよいことです。ダンソン」
「はい」
エセルの命に、ダンソンはすぐさま剣を収めた。
近衛兵団は王と王宮を守るために存在している。けれども、ダンソンはエセルを主と仰いでいるようで、ライベルには目すら向けなかった。
「ダンソン……。お前がなぜ……」
ダンソンは有力の貴族の嫡子で、副団長。不満などあるはずがなく、ライベルはその裏切りが腑に落ちなかった。
「私は、ニールが嫌いなんですよ。あいつを蹴落としたい。このままではあいつが国防大臣になる可能性が高い。だから、王派のエセル様に加担しました」
彼の告白にライベルは言葉が出なかった。王派と語りながら、ライベルに危害をなす。彼の理解を超えており、唖然とするしかなかった。
されどもエセルは気にすることなく、口を開く。
「さて、すぐに手続きをいたしましょうか。証拠は私のほうで揃えますから」
「まずシズコを、シズコを解放してくれ」
今考えることは静子の安全であると、ライベルは我に返った。
けれどもエセルは口を歪ませ冷たく答える。
「それはできません。そうですね。クリスナ様とニール様が処刑されたら、解放しましょうか」
「エセル!」
ライベルが怒りのままエセルに掴みかかった。
しかし、彼はただ冷静に、ライベルの手首を握り、自らの胸倉から手を離させる。
「陛下。落ち着いてください。飲食の不自由はさせません。ただ、叫んでもらっては困るので、口の中には布を入れたまま、手足は縛らせていただきますけど」
目を吊り上げ、凄惨な笑みを浮かべるエセルは別人のようだった。
静子は彼が黒幕であることを知っていた。それでもこのように変貌した彼に対して衝撃を受けていた。ライベルはそれ以上だろうと、そっと様子を伺う。
ライベルの顔は青ざめており、唇は一文字に結ばれている。握られた拳からは血が流れているようにも見えた。
彼の痛みを全身で感じて、静子は後ろで結ばれた両手を強く握る。
ただこうして見るだけしかできない自分が辛かった。
(違う。できる。私にも)
手足を縛られているが動けないわけではなかった。
(なんで気が付かなかった?)
もっと早く気が付けばよかったと思いながら、静子は実行に移した。
彼女は立ち上がり、ダンソンに体当たりする。
それを見て、ライベルはすぐさま駆け寄ろうとした。だが、事はそう簡単にいかなかった。エセルが彼の腕を掴み、静子は一瞬でダンソンによって気絶させられた。
「抵抗は無駄ですよ。陛下」
「シズコに何をした?」
「少し、少し眠っていただいただけです」
ダンソンは獣のような唸ったライベルに少し動揺しながら答える。
「陛下。ご安心ください。目的が達せられるまではシズコ様の安全は保証しますから」
「安全か、」
ライベルは、手足を縛られ力なく床に倒れる彼女を眺めながら、そう吐き捨てる。
「さあ、陛下。行きましょう」
しかしエセルはそんな彼の気持ちを無視して呼びかけた。
「エセル様!」
そうして扉に向かおうとしたエセルの動きが止まる。
急に馬の嘶きが聞こえ、ハイバンが緊迫した様子で小屋に飛び込んできた。
エセルの力が弱まった隙をついて、ライベルは静子に駆け寄る。
「計画は失敗いたしました。お逃げください!」
「どういう意味だ?」
背後で二人の会話を聞き、静子をその胸に抱きかかえながら振り返る。
今まで戦闘でもしてきたのか、ハイバンの服装は乱れ、所々に傷付いていた。顔の布も破れ、顔の半分が覗いている。
「国防大臣が動きました。クリスナ様が先を読まれていたようです」
「クリスナ……!」
敬称を初めていれず、エセルが底冷えする声が名を呟く。
そこで改めてライベルは、彼のクリスナへの憎悪の深さを悟る。
「エセル様。このままでは」
「わかってる。陛下。今回は私の負けです。しかし、私は必ず復讐を成し遂げる。それは覚えていてください」
エセルはライベルをしっかりと見つめ、そう宣言し、背を向けた。様子を伺っていたダンソンも一瞬躊躇したがそれに伴って動く。
「エセル!」
「私は裏切っていません。あなたが先に私を裏切ったのです」
ライベルの呼びかけに、彼は一度だけ振り返る。彼の緑色の瞳は暗く沈み、淀んでいた。
「待て!」
ライベルは静子の体を再び床に横たえると、後を追う。
外に出ると、怒声と蹄の音と共にニール筆頭に数人の兵士が走ってくるのが視界に入った。
「陛下。御機嫌よう」
エセルは既に馬に乗っていた。一礼をすると手綱を握り駆け出す。ハイバンもダンソンのそれぞれの馬に乗ると彼の後に続いた。
「エセル!待て!」
ライベルは走る去る背中に呼びかける。
しかし、エセルが再び振り向くことはなかった。
☆
「ライベル……」
目を覚ますとライベルの姿をすぐに見つけ、静子は胸を撫で下ろす。しかしその金色の髪は光を失い、その緑色の瞳は虚ろだった。
「シズコ……」
目が合ったライベルは薄く笑い、彼女の髪をすく。
「お前は、知っていたのか?」
何を、と聞くほど鈍くはなかった。
嘘をついてはいけない、と静子は心を決める。
「うん。最近だけど」
「そうか。だから、お前は、」
いつもの彼なら怒鳴りつけてもおかしくなかった。
だが、ライベルは目を閉じただけ。
静子はその手に触れる。
「ライベル。私は絶対にあんたを裏切らないから。側にいる。だから、」
「ありがとう。シズコ」
彼女の手を掴み、ライベルはその温かみを得ようと自らの頬に当てた。
「クリスナには悪いことをした。ずっと誤解していた。俺は、王に相応しくない。彼に王位を譲るべきかもしれないな」
「ライベル……」
彼の瞳は濡れ、今にでも大きな涙がこぼれそうだった。
「……私はわからないよ。でも、ライベルが選ぶ道ならどこにでも私は付いていく。だから、安心してよ」
「シズコ……」
彼の瞳からとうとう水滴が零れた。
静子は体を起こすと彼を抱きしめる。
「大丈夫。大丈夫だから」
何が大丈夫か、静子にもわかっていなかった。
だが、そう言わずにはいられなかった。
☆
エセル達は馬で森の端まで走り、そこから舟に切り替えた。後を追えない様に他の舟には穴を開けている。
夜が明け、海面が日の光を浴び輝き始めた頃、彼達は一隻の帆船に遭遇した。
帆船はこの世界において大変貴重な存在だった。
五十年前まで、各国で争うように帆船作りを行い、航海に出た。しかしながら戻ってきた船が一隻もおらず、沖合に出る船がいなくなった。海洋に出る必要がなければ、大型の帆船は必然的に作られなくなる。
アヤーテでは早々に帆船作りを諦め、現在では一隻も保有していない。
隣国エイゼンでも同様で、帆船保持をしているのは、ケズンだけのはずだった。
優雅に近づいてくる帆船は見上げるほどの高さで、エイゼンの深緑の国旗を掲げ、マストには大きな帆が張られていた。
甲板には完全装備した兵士達が三十人ほどおり、構えを取っている。
「エイゼン……。味方ではないのか?」
アヤーテ近衛兵の制服をまとったダンソンの台詞は状況から見るとおかしい。けれども、彼はすでに祖国を捨てた気持ちであり、「味方」であるエイゼンに敵意を受けられ、絶望的な気分になる。
対するハイバンは向けられた矢からエセルを庇うように立ち、柄に手をかけた。
緊張する双方。
だが、白髪に、深緑色のマントを翻す男が号令を出す。
「構えを解け。あれは僕の友人だ」
半信半疑のエイゼンの兵士たちだが、命令には逆らえず、弓を下ろした。それから縄を投げエセル達を船に招き入れる。
「お久しぶりです。シェトラ殿下」
甲板に上がると、エセルはすぐさま白髪に赤い瞳の男――シェトラに片膝をつき頭を垂れる。ハイバンとダンソンもそれに習い、後方で平伏する。
「お帰り。エセル。やっぱり失敗したみたいだね。まあ、想定内だったけど」
「……申し訳ありません」
「なんで謝るの?アヤーテの外務大臣殿」
シェトラは深紅の瞳を細くして、笑う。
「ははは。もうその地位も追われる身か。今日から君はまた僕の配下だね。エセル・キシュン」
エイゼンの王太子シェトラ・エイゼンは、平伏するエセルを見下ろし可笑しそうにそう言った。