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09

 加茂川と高野川を渡ると京阪出町柳駅に出た。改札内に掲げられている時計を見れば、短針は文字盤の半分をとうに過ぎ去っている。このすぐ近くが富田君の下宿先であるため、吾輩は実に半日以上もかけて巨大なすごろくの振出しに戻った形になる。吾輩は乙女を見捨て、何をやっているのであろう。そのことに気づかされれば徒労感が、ドッと津波のように押し寄せてきた。高野川沿いを遡り、自分の下宿先である元田中を目指す。陽はとうに松尾山の向こうに沈んでしまったが、あたりにはアスファルトに未だ残る夏の熱気がこもっており、快適とはいいがたい。

 ――風が通ればこの鬱屈とした気分もむしむしと我が身を苛む不快な空気も吹き飛ぶのであろうか。

 川端通を北上しながらそんなことを考え、御蔭橋に差し掛かろうとした時、思いがけないものを見かけた。煙である。雰囲気抜群で橋の上にわだかまるその白い塊は幽霊と言われれば納得するようなおどろおどろしさを称えていたが、通り過ぎる車のヘッドライトに照らされて闇の中にぼんやりと浮かび上がるそれはやはり煙であった。どこかで見た覚えのある煙である。

 そのことに思い当たった瞬間、ただすの森からごうごう、と強い風が吹きつけてきた。吾輩の肩ほどまである髪を、糺の森の青葉を、ワンピースの裾を、大きく揺らし、ざわめかせ、翻させるその風に巻かれたというのに、件の煙は一切たなびきもしない。やはり御蔭橋の上にわだかまったままである。

 ――先輩の煙だ。

 その不可思議な光景に、すぐにそう思い当たった。ディックの行方を示そうと三条大宮を発ったソレが今ここにある理由。それは――。

 暗い森から吹き付ける風が吾輩の気分も熱気も吹き飛ばしていった。

 吹き付ける風に抗いながら吾輩が一歩、御蔭橋に踏み出すと、風上である糺の森の方へと煙もゆっくりと動き始める。通りの暗く陰気な蛍光灯の下を抜け、河合神社の鳥居の下をくぐる。小川のせせらぎを聞きながら、風が奥から吹き付けてくる長い下鴨神社の参道を北へ北へと歩く。歩いているうちに先輩の喫っていた煙草――ポプリの瓶を開けたような香りのする煙に包まれた。ただでさえ暗く、見通しの悪かった視界がさらに悪くなる。まっすぐに進んでいるのかさえ不確かなまま、歩み続けていると先に輝く御神燈が見えた。それと同時に吾輩を包んでいた紫煙も参道の奥からの風に消える。夏だというのにひやりとした空気があたりを包み始めている。そして開けた視界の先には――オレンジ色の光に照らされて怪しく、神秘的に浮かび上がる真っ赤な下鴨神社の楼門とちんこ――ディックの姿があった。


       ○


「来ると思っていた」


 ディックが口を開いた。「俺たちはいまだ奥の奥でつながっているからな」


「戻ってこい、ディック」

「そうはいかない。一度、宿主であるお前の体を抜け出したのだ。こうなれば最後まで意地を貫かせてもらう」


 そう言うとくるりと背を向け、立ち去ろうとする。そのディックを追い抜き、吾輩は再びディックに向き合った。


「――なんだ?」


 ディックが不機嫌そうに裏筋をひくつかせる。「もうお前とは十分語り合っただろ。これ以上語ることはない」


「いや、まだだ」

「何を言う。桃色体験への慕情に目覚めてこの方、雨の日も風の日も語り合ってきただろう」

「それは桃色体験についてだ。……乙女との未来についてではない」

「同じことだろう!! お前は土壇場で何もしない!! 抜き差しならない状況に陥ることさえない!! 抜きつ差しつすることこそが俺の本分だというのに!!」

「それについては謝ろう。……だが乙女を穢すという行為は許されるのか?」

「そんなものは理想主義に凝り固まった阿呆の妄言だ!! 案ずるより産むがやすしというじゃないか!!」

「思うがままに縦横無尽に桃色欲求を振りまくことを紳士的行為と言えるのか? たとえ乱れに乱れた性風紀の嵐の中でも、限界まで耐え続けることこそが紳士たる者の定めだろう!! それに産ませるようなことをまだしてはいけない!!」

「だが俺はもう二十年も虚しい境遇に甘え続けていたのだ。これ以上は……」

「お前の言うことも理解できるし、報いてやりたい。だから――」


 吾輩は一つの答えを口にした。これはある人物にとっては人生の始まりであり、終わりでもある。またろくに社会経験もない吾輩にとっては無謀な試みであり、成功する保証もない。それ以前に我が黒髪の乙女たる富田君に受け入れてもらえる保証もない。

 だが――。


「吾輩は富田君と一つになろうと思う。戸籍的に、そして桃色的に」


 その言葉にディックが大きくピクリとはねた。そのまま軽く震えながら、ぴょんとこちらに一歩近づく。吾輩もそれに応えるように一歩距離を縮めた。


「嫌とは言わないだろう、お前なら。生まれてこの方、吾輩と共に過ごしてきたお前なら。もう一人の吾輩でもあるお前なら」

「何を阿呆――、いや馬鹿なことを言っている」

「馬鹿ではない、阿呆でもない」


 もう一歩距離を詰める。

 吾輩が口にしたことは社会通念道徳論理全てにおいて無茶苦茶な意見である。誰もが「なぜそういうことを言うのか」と鼻で笑うであろう。口にした吾輩だって昨日までは鼻で笑っただろうし、明日になれば鼻で笑うかもしれない。床にひっくり返って子供が捏ねる駄々と大差ない。だが現在この時この瞬間、これは紛れもない事実として吾輩のミニマムな胸の中に立ち上がっているのだ。


「吾輩は黒髪の乙女と桃色遊戯に身を委ねることができるのならば、どんなことでも受け入れられる。吾輩はディック、お前と同様、桃色遊戯がしたいのだ!!」

「なら今までなぜしなかった?」

「ものすごくしたかったが、我慢できる範囲だったからだ!! だが今、この物寂しい森の中では乙女の肌が恋しい! 乙女の香りが恋しい! そういうわけで今はとてつもなくしたいのだ!!」

「お前、本気か!? 正気か!?」


 さらに距離を詰める。もうディックに手を伸ばせば届く位置に来ている。

 ディックの言葉に吾輩は無言でうなずいた。富田君との桃色遊戯――セックスのためならば吾輩は何でもやろう!


「だから戻ってこい。桃色遊戯にはディック――お前が必要だ!!」

「今更――」

「新たな、だ。吾輩の肉体は変わり、ディック――お前は逃げ出し、我々の関係性はリセットされた。そのうえでもう一度言わせてもらう。ディック、戻ってきてくれ!! 戻ってこい!! 吾輩には、望む桃色体験の向こうに行くためにはお前が必要だ!!」

「まったく……」ディックが吐き捨てるように言った。


 そして吾輩の胸に飛び込んでくる。「阿呆にも程がある」


「そう言うな」吾輩は飛び込んできたディックを受け止めて、彼の言葉に返した。「大学生というものは悉く阿呆なものなのだ」


 ディックを受け止めた瞬間、我々を取り囲んでいた空間にひびが入った。亀裂はどんどん大きくなり、それに合わせるかのように周囲の景色が、茹で卵の殻が落ちるようにぼろぼろと崩れていく。


「これは――?」

「お前を迎え撃つためだけに作り上げた偽下鴨神社だ。その役目を終えたのでこの世界は崩れていっているのだ」

「――すまんな、吾輩が不甲斐ないばかりにいらぬ苦労心配労力その他諸々を強いてしまった」

「気に……するな……」

「ディック!?」

「慌てるなよ……お前の望んだ……ことだろう……元に……戻るだけだ……」


 元に戻る。それはディックがあるべき場所、吾輩の股間に戻るということ。物言わぬちんこに戻るということ。

 だが――。


「元に戻るんじゃあない。乙女との桃色体験を経て幸せになってやる。――もちろんお前も一緒にだ」


 ディックの返事は偽下鴨神社の崩壊していく音に飲み込まれ聞き取ることができなかった。だが再びちんこを我が身に取り戻した吾輩には彼が何を言おうとしたのか、はっきりとわかっている。


「できるもんならやってみやがれ」


       ○


 やがて全ての風景が崩れたかと思うと、吾輩は再び生ぬるい空気に包まれ、暗い糺の森の中に立っていた。どうやら下鴨神社に戻ってきたらしい。

 ふと股間を圧迫するような緊張感を感じた。右手を股間にやって確かめてみれば、たった一日離れていただけだというのにどこか懐かしい感触。ディックが股間に戻ってきているのだ。

 だが。

 この視点の低さはどういったことであろう。この股間に伸ばした腕が華奢なのはどういったことであろう。胸に手を伸ばしてみればうっすらとした膨らみはあるものの、慣れ親しんだ大胸筋によるものではなくぺたんこにされたマシュマロのようである。

 まさか――。と考えた瞬間、股間から記憶の奔流が流れ込んできた。

 ディックは吾輩から離れるとき、吾輩からマッチョパワーを持って行ったのだ。それを使い、吾輩を少女に変え、動き回り、偽下鴨神社を作りあげ――。再合体を果たしたときにはその力が一片たりとも残っていなかったというわけである。

 ――ありえるものか!!

 喉まで出かかったその言葉を吾輩は飲み込んだ。ディックは吾輩の想いを良しとして、その肉体を再び吾輩に預けてくれたのだ。

 たとえ姿形は少女となっていようとも、桃色遊戯に必要な部分が戻ってきているのだ。

 ならば。

 吾輩の進むべき道をオレンジ色の明かりに照らされてぼんやりと伸びた影が指し示していた。


       ○


 不本意ながらも、大器晩成互助の会に置き去りにしてしまった富田君は鼻歌交じりで川端通沿いの下宿先に帰ってきていた。携帯電話に連絡を入れると余裕綽々で「心配いりません」と返事をしてきた。電話の向こうで力こぶを作っているような雰囲気である。そしておそらく、その通りなのだろう。


「それよりどうなったのですか? お声が戻っていないようなのですが」

「むう……心配はいらない。ディックは戻ってきている」

「そうですか」


「よかった」との声が、電話の向こうで安心したようなため息とともに聞こえてきた。


「富田君――」

「では相川先輩――」


 そんな乙女に対してひねりだそうとした言葉が、富田君の言葉にかぶってしまった。「かぶっちゃいましたね」と乙女がクスクスと笑う声が電話越しに吾輩の耳をくすぐる。


「では先輩からお先にどうぞ」


 吾輩の言おうとしたことは社会通念上猥褻とされる欲求である。つまりは桃色遊戯を富田君としたい。だが富田君は一言で言って「世界一可愛い」とまで言える黒髪の乙女である。黒髪の乙女は何にも穢されてはならないのだ。ましてや婚前交渉などと。

 ならば。婚後交渉ならばどうであろう。

 この相川、一世一代の恥ずかしいセリフではあるが、電話越しになら何とかなるかもしれない。吾輩はろくに推敲もしていない言葉を富田君に対して口にすることを決意した。

まずはごめんなさい、をば。

これから忙しくなり、執筆する時間が取れるかどうかわからないので、エタるよりはマシかと強引に打ち切らせてしまいました。

およそ半年かそこらの先、再び時間が取れるようになってからもう一度小説を書かせていただきたいと思います。

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