08
乙女に肩車をされて窓から抜け出した吾輩が、降り立ったのは駐輪場とされているであろう庭の一角であった。その狭い面積とは不釣り合いなほどにおびただしい数の自転車、およびその残骸が積み重ねられている。どれほどの時間、変則的九畳間に囚われていたのだろう。空を見上げれば太陽も大きく傾いている。周囲の住宅街から、おそらくは夕飯の用意だろう、コメを炊く香りが漂ってきていた。
吾輩が脱出のために汗をかきながら、自転車を積み上げて塀を乗り越えるための足掛かりを作っていると、便所の窓から富田君の声が追いかけてきた。
「どうやら私はここまでのようです」
今までに聞いたことのない、悔しさを絞り出すようなその声に吾輩は驚く。
「あきらめてはいけない。吾輩が君を見捨てられると思うのか」
「物理的胸囲的に無理なのです。私ではこの窓を通り抜けることは不可能です」
「しかし!!」と声を荒げた私に、富田君は静かにするように伝えると、「相川先輩」と続けた。
「先輩の目的はディックさんと再会することでしょう。ここで立ち止まってはなりません」
「……大器晩成互助の会の男たちはどうする? 吾輩が逃げ出したと知ったら富田君に何をしでかすか知れない」
「大丈夫です。私を信じてください」
乙女を信じることは吝かでない。だが有り余る青春エネルギーをこじらせた極めつけの阿呆どもが吾輩を逃した怒りに駆られて何をしでかすか。それは阿呆ども本人たちすらわかるまい。私がディックと恋人のどちらをとるかの運命の選択を強いられているうち、
「小便にしてはいやに長いな」「入るか」「やめてくださいこの変態、女性の用足しとはかくも長いものなのです」「信じられん」「そもそも水音がしないのでは?」「音にまで気を配っているなんて。そちらのほうが信じられません」「これは警備的責任感からくる当然の行為だ」「そうともそうとも」「いいえあなたたちの変態性の発露に根拠などありません、むしろ人間失格」「なんという言葉の暴力。我々だって泣くんだぞ」「男の涙ほど気持ち悪いものはないんだぞ」
乙女の声と言い争うこのような声が聞こえてきた。
だが聞くがよい。ありとあらゆる困難を、返す言葉の刃でばっさりと切り伏せる富田君の頼もしさといったら。彼女に背を任すことに対して一抹の不安も抱かせない。たとえ万の軍勢に取り囲まれようとも彼女はすべてをねじ伏せてしまうであろう。
ならば――。
吾輩は、めったやたらに打ちのめされ、それでもどこか嬉しそうな男たちのうめき声に後を押されるようにして、民家の木塀から飛び降り、虫の鳴き始めた夕方の庭を駆け抜けた。
○
吾輩はディックとの再会という目的のために力いっぱい走る。
――そもそも吾輩はディックと合体がしたいのか? それとも黒髪の乙女と合体がしたいのか?
どちらもしたい。したいが――。
今のこの状況は、なんだか目的への大逆走をしているようにも思えるが――とにかく走る。
路地を抜け、住宅街を抜け、出町商店街を東に駆け抜けていると、後ろから大勢の男たちが追いかけてきた。大器晩成互助の会メンバーである。歩幅の違い、足の回転数の違い、スタミナの違いから、差はぐんぐんと縮まっていく。吾輩も必死に逃げているつもりであるのだが、便所のスリッパがぺたぺたと音を立て、どうにもしまらない。互助の会メンバーもまた、のんびりと吾輩を追いかけ「まてー」と間の抜けた声まで上げている。吾輩としては必死であるのに、どこか牧歌的ですらある。
やがて牧歌的な追いかけっこは賀茂川べりにまで及び、そして近所の買い物客と大学生がのんびりと歩く出町橋の上で吾輩は追い詰められた。西側からも東側からも追手らしき男たちがやってきているのだ。出町橋の中央で足を止めた吾輩に「もう逃げられんぞ」と言い、無精髭の大器晩成互助の会会長がじわりじわりと近づいてくる。
――万事休す。ここでつかまり、ディックとの再合体も、これから先続くであろう乙女との薔薇色のキャンパスライフも夢と潰えるのか。
出町橋の欄干の上に飛び乗り、逃げ道を探していると間抜けな電話の着信音が響いた。吾輩のワンピースの中からである。
「タイム!!」
両の手でT字を作り宣言し、男たちの反応を待たずに電話に出た。「もしもし」との言葉を告げ終わる前にいい加減な声が耳に飛び込んでくる。茨木先輩の声である。
『どうやら困っているようだね』と、彼女はのんびりと口にした。『助けが欲しいかい?』
「……喉から手が出るほど」
『ふふふ、おそらくはそのような塩梅であろうと予想していた。では仙術同好会の会長として会員である君に術を伝授してやろう』
「仙術ですか!! それはありがたい!!」
『まさか』電話の向こうで先輩は鼻を鳴らした。『恋にバイトに学業に大忙しの君が使えるはずもないだろう。仙術とはもっといい加減な生活態度と心構えでなければ使えない』
「では何を?」
『私の言うとおりにしてごらん――』
「……なんということだ……」
先輩から支持された内容は、まさに男である吾輩と、長男である吾輩のアイデンティティを根本から揺るがしかねないものであった。
電話を耳に当てたまま、紳士的態度で吾輩と先輩の通話を見守っていた男たちに向き直る。そしてそのまま電話から聞こえる先輩の声に従う。業腹ではあるが仕方がない。
『まずは適当な相手に――』
「お兄ちゃん!!」
「なん……だと……」
声をかけられた互助の会会長の体がびくりと跳ねた。
『違う! もっとたどたどしく言わずしてどうする!!』
「おにいちゃん」
「くぅっ……」
『相手が怯んだならば、次はこうだ』
声の通りにワンピースの裾を握り、視線を落とす。情けなさから声も体も震えた。
「どうしてこんなことをするの!?」
『阿呆!! しゃきっとするな!! もっと蚊の鳴くような声で!!』
「どうして……こんなこと……するの……?」
「俺が、俺がお兄ちゃんだ!!」
無精髭が吠えた。そしてくるりと反転し、互助の会の集団の中へと飛び込んでいく。男たちの一団はリーダーの突然の裏切りに騒然となった。
「うわ、会長がおかしくなった!!」「もともとおかしいだろ、あの人は」「止めろ止めろ」「いや、いっそ死ね」「下剋上だ」などと口々にわめいている。なおも続く『これだけで済ますなよ?』との先輩の声に従い、手当たり次第に吾輩を取り囲む男たちを『お兄ちゃん予備軍』に変えていくと「俺がお兄ちゃんだ」「いや俺だ」などというみみっちくも壮絶な仲間割れが始まった。アリのはい出る隙間もないかと思われた出町橋包囲網にもほころびができている。
その隙間に飛び込むと幾分正気の残っている――このようなくされ青春に耽っているのに正気もクソもないのであるが――男が吾輩を捕まえようと手を伸ばす。が、すぐにゾンビのごとくに増殖したお兄ちゃんたちに飲み込まれてしまった。そうしてできた突破口から吾輩は再び出町橋を東へと駆け抜けた。
背後で切ない怒号が上がったが気にするものか。吾輩はディックに会わねばならぬのだ!!