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05

 三条会商店街と御池通の間にひっそりと建つ古いアパート。ここの二〇三号室が先輩の下宿先である。軽く息を整えて薄い扉をノックし「相川です」と告げると、すぐに「入りなさい」との声がした。それを受けて「お邪魔します」と、乙女と共に先輩の六畳間に入る。

 先輩の部屋は魔窟である。薄い玄関の扉と台所を抜けて一歩六畳間に踏み込んでみれば、何の役に立つのかわからないガラクタが山のように積まれ、古びたインクの匂いを立ち昇らせる古本が部屋を占拠している。そのガラクタと古本の間にいい加減な美女が座っていた。彼女こそが我らが『仙術同好会』会長の茨木先輩である。先輩は吾輩たちに片手を上げて挨拶をすると


「やあやあ、よく来たね。とりあえずはお茶でもどうだい。昼ご飯は食べたかい? ちょうどカレーがある」


 と、聞き捨てならないことを口走った。

 ここで聞き捨てならないこと。と評したのには理由がある。確かに茨木先輩の言った言葉は、先輩が後輩をねぎらう言葉としてはいたって普通である。だが、先輩は普通ではない。仙術を行使するために地に足のつかない生活を断固として貫き、いつも光熱費、通信費、学費に遊興費とピーピー言っているのである。食費だけは霞を食うことでなんとかしているようだが、いつも財布が貧相な先輩が誰かに何かを驕るなどと。奇妙を通り越して不気味ですらある。


「何を企んでいるのですか?」

「企んでいるとは?」


 吾輩の問いに先輩はさらりと答えた。


「そんなことよりもカレーを食べなさい。水でかさ増しをしたシャバシャバキャンプカレーじゃないぞ。じっくりとろとろ煮込んだ仙人カレーだ」

「……では先輩も吾輩たちと一緒に食べませんか?」

「私は仙人だ。霞を食うだけで十分だ。だから食べない」

「しょっちゅう相川先輩や私に牛丼やらフライドチキンやらを買わせて、貢ぎ物として食べていたのは……」

「私は過去を振り返らない」

「せめて二日前くらい振り返りませんか。それともボケ始めたのですか」

「私は若い。若さとは振り返らないことさ」

「……富田君、ちょっと茨木先輩を抑えていてくれたまえ」


「はい、わかりました」と乙女はするりと古本と古本の間を蛇のように潜り抜けて、畳と先輩後輩の上下関係の上に胡坐あぐらをかいていた茨木先輩の後ろへと回りこみ、がっしりと羽交い絞めにする。「こら、やめろ。何をする。離しなさい」とジタバタ足掻く茨木先輩であるが、長年いい加減な生活を送ってきた彼女が、力強さのない体つきでありながら数々の苦難を潜り抜けてきたエネルギッシュな富田君にかなうはずもない。むしろ足掻けば足掻くほど、蜘蛛の巣に捕らわれたウスバカゲロウのようにドツボに嵌っていくのであった。

 やがてこれ以上の抵抗は無駄と判断したのだろう。先輩はキッと吾輩を睨みつけながら「なぜこのようなことをする?」と訊ねてきた。


「師匠であり先輩である私になんてことをするのだ」

「これもまた一つの愛です」吾輩はうそぶいた。「愛とは何か。躊躇わないことです」と富田君が続ける。


「では改めてお聞きしましょう。何を企んでいたのですか?」

「企みとは?」先輩は答えた。「いったい何の事だかわからないな」

「何を企んでいたのか。教えてくだされば福沢諭吉を一枚進呈しましょう」

「私が金に頓着するような人間に見えるのか。そんな人間ならば仙人生活を送ってなどいやしない」

「二万円」

「しつこいな君も」

「五万円」

「犬と呼べ」


 先輩との交渉が成立したので富田君は吾輩の合図に頷き、彼女を解放した。先輩は力が抜けたかのようにドッと畳に倒れ伏して


「君の言うディック君とやらが深夜ここに来たのだ。そしてもし君たちがここに来た暁には、なんとかして日付が変わるまで足止めしておいて欲しいと頼んできた。だから私は特製仙人カレーを作り君たちを待っていたのだ。君たちがカレーを食べて入れば丸一日トイレから離れることができなくなったはずだったんだがな」


 と吾輩を見上げながら言った。吾輩は先輩の目の前に胡坐をかいて座り込む。吾輩と乙女をトイレの住人にしようとしたことは許しがたいが、今はそれどころではない。腰を据えてディックの行き先を聞き取る心構えなり。


「ディックはなぜ先輩にそのようなことを?」

「相川君とディックは喧嘩別れをしたのだろう。彼はもう君の下には戻らないと鼻息を荒くしていた。だからおそらく――日付が変われば君とディック君が再合体をすることができなくなるのだろう」

「どうして先輩はそのままディックを引き留めてくれなかったのです。そうすれば今頃、吾輩は元の屈強な肉体とディックを取り戻すことができたのに」

「どちらに非があるかわからないじゃないか。相川君に言い分があるように、ディック君にも言い分がある。私はこう見えてちんこに偏見は持たないので、相川君もディック君も同列に扱う。そして同列であるならば――頼みごとの報酬としての三万円という重みの分、私はディック君に肩入れをしたというわけだ」

「ならば今は差し引き二万円分、吾輩たちに重きを置いてください。ディックはどこに行くと言っていましたか?」


 吾輩の問いに茨木先輩は「さあ、聞いてないな」と答えた。


「おっとそんな顔をするな。可愛らしい顔が台無しだぞ。君はもうゴリラではないのだから外見にも注意すべきだ」

「不機嫌な顔にもなるというものです。ディックがいなくなった上に、五万円も出して情報なしとは」

「そもそも、なぜ相川君はディック君と再合体を果たしたいのだ?」

「それは――」


 吾輩はちらりと富田君の方を見た。彼女は散らかった先輩の古本やガラクタなどを片付け始めている。先輩は畳に座り直して、吾輩の目線の先を追ってから「ああ」と馬鹿にしたような声を上げた。


「富田君とセック――」

「先輩、声を小さく」慌てて彼女の口をふさぐ。


 じろりと吾輩を胡乱な目つきで見た後、先輩は吾輩の彼女の口をふさいだ手を造作もなく払いのけた。やはりことごとく力が失われている。こうもあっさりと押さえつけていたつもりの手が払われるなど。

 今日何度目かのショックを受ける吾輩を見下ろし、先輩はため息をつきつつこう言う。


「まったく。したいならしたいで行動に移していれば、ディック君と喧嘩することもなかったんじゃないのか」

「それは……そうです……。ですが、嫁入り前の乙女に――」


 吾輩の声を先輩は「あーあ」と面倒くさそうに遮って、煙草に火をつけ「阿呆、とくに男の腐れ大学生の悩みは、真面目に考えるだけバカを見る」と言い捨てた。「ならばいい加減に対処することとしよう」と続け、部屋の片づけをしていた富田君に窓を閉めるように言う。富田君が言われたとおりに窓を閉めると、先輩は煙草をぷかぷかとふかし始め、大量の煙を吐き出した。やがてその紫煙は床を這うようにして広がり、床に散らばった古本を覆い隠していく。先輩の魔窟のような六畳間にいたはずなのに、何やら乾燥した花のような香りのする雲の中にいる気分になる。阿呆面でその様子を見守る吾輩と乙女をよそに、先輩は火のついた煙草を指揮棒のように軽やかに振った。その動きに合わせて、さらに紫煙はもうもうと立ち込めていく。やがて先輩の姿も乙女の姿も、胡坐をかいて座り込んでいる自分の膝ですら見えなくなった。


「さて」煙の向こうから茨木先輩の声がした。

「これは占いだ。今から玄関の扉を開けるから、煙の流れる方へと付いて行ってごらん。手がかりが見つかるかもしれない」


 続けて「当たるも八卦当たらぬも八卦だがね」という先輩の声が頭の中で、うわあんと響いた。

 その声が終わると同時に生ぬるい風が吹き込んできて吾輩たちの周りで渦を巻いた。周囲でわだかまっていた紫煙も風と共に渦を巻き、そのまま風が吹いてきた方向――玄関から外へと流れ出ていく。幾分視界を取り戻した部屋の中で富田君が玄関を目指して動くのが見えた。


「相川先輩、煙を追いかけるのならばお早く」


 そう言って乙女は先輩の部屋から飛び出していった。吾輩も彼女の後を追う。外へ出ると煙が蛇のようにアスファルトの上を這いながら四条通の方へ流れていくのが見えた。

 扉を閉めようと振り向いたが、もう部屋の中には誰もいなかった。部屋の主である茨木先輩はどこに消えたのか、いないのならば鍵をどうすればいいのか。少しの間逡巡したが、どうせ金目のものなど何一つないおんぼろアパート。大した戸締りも必要ないと断じ、吾輩は再び乙女の背中を追って走り出した。

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