03
「相川先輩、いらっしゃいますか?」
吾輩が筋肉とディックを失ったことを嘆きつつ、風呂場に戻り、漂うアンモニア臭をシャワーと洗剤で洗い流し、尿のかかったシャツのすすぎも終えた頃、扉の向こうから富田君の声が聞こえた。「ここにいる」と答え、失礼かとも考えたが「やむなし」と自身を納得させ近くにあったタオルで股間を隠し、脱衣場の外へと出た。富田君は吾輩が風呂場から出てきたことに驚いていたようだったが、すぐに顔をほころばせ、吾輩の下へとやってきた。
「ああ、よかった。一人でどこかに行ってしまったのかと思ってしまいました」
「富田君は吾輩が相川である、ということを疑わないのか?」
「だって先輩、昨日、私の目の前でその姿になったんですよ。酒に酔った幻覚か夢かとも思いましたが、そのお体に触れてみればふにふにつるつる。自分の頬をつねってみればじんじん痛い。これでは受け入れる他にないじゃないですか」
「そうか、富田君、ありがとう」
吾輩が彼女を見上げるようにしてそう答えると、彼女は吾輩の胸筋の失われた胸やら、すっかり頼りなくなってしまった肩やら、ゴリラの面影の一片もない少女の顔やらを優しくぺたぺたと触ってきた。
「やっぱり……先輩、随分と変わっちゃいましたねえ」
確かに変わり果てている。特に身長。小柄な乙女である富田君よりもさらに低い。もしや一四〇センチもないのではなかろうか。そして最大の変化と言えば。富田君が口を開いた。
「やっぱり先輩の……その……ちん――」
「ディックだ」
「はい?」
「彼の名はディックだ。その……手前勝手で済まないが、乙女が『ちんこ』という単語を口にするのはひどく憚られる。ぜひあいつのことはディックと呼んでやってくれないか」
「は、はい、わかりました。そのディックさんが先輩の体をそんな可愛らしい女の子の姿に変えたのでしょうか?」
「わからない。吾輩もこんなことは生まれて初めてだからな。あの時、ディックを追いかけることができなかったことが悔やまれる」
「今さら過ぎてしまったことを悔やんでも仕方のないことです。それよりこれからどうするべきかを考えなくては」
「決まっている」
吾輩は答えた。ディックを見つけ出し、ひっ捕まえて、吾輩の体に戻すのだ。そう吾輩の決意を富田君に伝えると、乙女は「わかりました、お手伝いいたします」とかわいらしく力こぶを作って答えてくれた。
「ではディックさんを追いかけるための準備をしなくては」
そう言うと彼女はいつの間にか座卓の上に置いてあった紙袋から純白のものを取り出す。何やらふわふわ柔らかそうな外見であるが、吾輩に一抹の不安を与えるデザインでもある。
「富田君、それは――」辛うじて口から絞り出すことのできた吾輩の問いに、乙女はさも当然、というような顔をして「パンツです」と答えた。
「さらに言うならば女性用下着です。最初、私の下着を失礼ながらお貸ししようとしたのですが、先輩のそのお体に少しサイズが合わなかったようでして。そこで新しいものを買ってきたというわけです」
「それを――」
「はい、履いてください」
「何を言っているんだ、富田君! 吾輩は男だ!! そんなもの履けるわけがない。もしもためらわず女性用下着を装着するような人物がいたならば、吾輩はそいつを一般的日本人価値観から逸脱した変態である、と認定する!!」
「相川先輩、聞いてください」
富田君は真面目な顔をして吾輩に詰め寄った。現在における彼我の身長差から、彼女を見上げる形になる。今までに感じたことのないプレッシャーに、吾輩は少し呑まれてしまった。体が小さいというだけで、こんなにも不安になるものなのか。
「確かに男であった相川先輩が女性用下着を着用することは耐え難いほどの変態行為ではあるでしょう。ですが一般的日本人価値観において下着を履かないことは変態とされます。また先輩は今は女性の姿をしているのですから、男性用下着を着用することは客観的に見て、やはり変態とされます。どう転んでも変態となるならば、ここは女性用下着を選ぶべきです。女性用下着はその名の通り、女性の体に最適化された下着なので」
「くっ……」
確かに富田君の言葉には一理ある。だが。吾輩は差し出された下着に目を落とす。吾輩のがっしりとした臀部を包み込む大きさだったボクサーパンツに比べて、その女性用下着は小さく、いかにも頼りない。
「どうしました? 履き方がわからないのであれば、お手伝いいたしましょうか?」
「いや、いい。結構だ」
吾輩がためらっていると、富田君がさらに何かを紙袋から取り出しながらそう言った。
二十歳にもなった男が乙女にパンツを履かせてもらうなど!!
吾輩の精神はその背徳的情景に耐えられる自信がなかったので、慌てて下着の前後を確認し――桃色作品による情報によれば、小さなリボンがついている方が前であろう――に足を通す。小さく思えたそのパンツは想像以上に伸び、吾輩の臀部を優しく包み込む。さらにはディックのいなくなった股間を優しく支えてくれているような不思議な頼もしさまで感じられる。そのわけのわからない頼もしさと心地よさ、そして男である吾輩が女性用下着を身に付けてしまったことに対する情けなさがごた混ぜになり、思わず「くぅっ……」などという嗚咽のような声が漏れた。
「それでは次です。これはミニスリップといいます。失礼ですが、先輩のおっぱいはブラジャーをつけるほどのサイズではないと判断させていただいたので、これを選ばせていただきました」
富田君が渡してきたものは、タンクトップのような形状の裾の長いシャツ(?)である。吾輩の下宿に大量にあるタンクトップとは違い、肩紐がいやに細いのが特徴か。これも女性用下着であるのだろうと、若干の抵抗感を覚えたが、既に女性用パンツを履いてしまった吾輩にとってはそこまで大きなものではない。それにブラジャーをつけろなどと言われるよりもよっぱどましである。富田君に言われるがままにそれを身に付ける。
「ではこれを」
次に彼女が渡してきた白い布製品。ファッションに疎い吾輩でも名称は知っている。これは――。
「スカートではないか!! ワンピースではないか!! これを吾輩に着ろ、と言うのか!? これならばまだ吾輩のさっきまで着ていたTシャツの方が――」
「相川先輩、聞いてください」
富田君は再びそう言った。
「相川先輩は男性です。私はそのことを知っています。ですがそれは先輩が変身する場面に私が居合わせたからです。ですが事情を知らない他の方たちが今の先輩を見たならばどうなるか。十人中八人は美少女である、と答えます。残りの二人は超美少女であり自分の嫁である、と答えます。そんな容姿の美少女である先輩がTシャツ一枚でディックさんを探すために街を歩けばどうなるか。治安の悪化、人心の荒廃が叫ばれる昨今、それはもう言葉にも映像にもできないような物凄い目に遭ってしまうのではないでしょうか。遭ってしまうに違いありません。遭うのです。それは避けなければいけません」
「しかしわざわざこのような服を選ばずとも……」
「すみません。ですが、女性となった先輩のサイズが正確にはわからなかったのです。ズボンがよろしければ後で買い直しましょう。ですが今はディックさんを追いかけるのが先です」
そしてワンピースを着るように急かす乙女。吾輩は渋々、ワンピースを頭からひっかぶり、身に付ける。そんな吾輩に「かわいいですよ」と声をかけながら、富田君は吾輩の白いノースリーブワンピースの裾や肩紐の位置を整えてくれた。
「かわいい、と言われても吾輩としては反応に困るのだが」
吾輩は二十年間『ゴリラ』と呼ばれ続けてきたので、そのような言葉とは一切無縁であった。そもそも二十歳となったむさくるしい男を可愛いらしい、と評して誰が喜ぶというのか。そのようなみっともないとまどいと、やむにやまれぬ自分への怒りに駆られて憮然としていた吾輩を、富田君は「やっぱりかわいいですよ」と言いながら、体ごと部屋の片隅に置いてあった姿見へと向けた。
「ほら、どうですか?」
「むぅ」
確かに可愛らしい。先ほど脱衣場で鏡を見た時もそう思ったが、今はそれ以上である。女性らしい顔立ちが女性らしい服装で引き立てられているのだ。だが吾輩にとっての理想にはほんの少し届かない。というか幼すぎる!! 吾輩の理想は、このような顔立ちでありながらおっぱいの大きい――ありていに言えば、黒髪の乙女たる富田君である。それでもやはり可愛らしいことは可愛らしいので、自分がこのような姿になったことに驚きを感じながら鏡に見入っていると、富田君が吾輩の髪に櫛を入れてくれた。
「やっぱりかわいいですねえ」
はふう、とため息をつきうっとりと口にする富田君。その言葉も、髪に入れられる優しい櫛の感触も心地よいのだが。
「富田君、こうしている場合ではない。早くディックを探しに行こう」
「ああっ、そうでした。まるで妹ができたようでつい……」