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<おもいで文庫より その1> 母と叔父の物語

作者: まおちゃり

 かけがえのない肉親との別れを、ありのまま綴ってみました。

 作品を通して、同じような経験をされた方々と思いを共有し、これからの方々にはささやかな手引きとしていただけたなら幸いです……。

 「お母さんの字、きれいだね。」そう言われることが、私の自慢のひとつだった。紺色のインクでしたためられた家庭からの連絡事項に目を通すたび、担任の先生は異口同音にそう言って、達筆な母の字を褒めて下さった。

 ことに年度初めは「家庭調査票」など様々な書類の提出が相次ぎ、それらを出すたびに先生から頂けるこのコメントが私にとっては快感であり、家に帰ってそれを伝えた時の「あらそおぉ?」と半分照れながら微笑み返す母のうれしそうな表情が何よりの喜びだった。

 私にとって、母の書き物を提出することは、学校へ通う楽しみのひとつと言ってもよかった。

 美しい文字を書く母は、私の憧れだった。それは年を重ねるごとにますます味わいを増し、進化し続けると思っていた。あの病魔が忍び寄るまでは――。


 「もしもしみぃちゃん?おばあちゃんだよ。ママおる?」長野に住む母方の祖母から電話があったのは、昭和57年12月4日の昼下がりだった。

 当時中学3年生でまもなく高校受験を控えていた私は、北陸の冬には珍しく暖かな日差しが降り注ぐ居間の窓辺で、大好きなオフコースの「Yes-No」を聴いていた。「15の春」を目前に不安と緊張が続く中、小田さんの甘く透き通った歌声は、何よりの癒しとなってくれていた。毎朝毎晩、特にお気に入りのこの曲で目覚め、眠ることが日課となっていた。

 その上この日は土曜日。午前放課で帰宅した私は、日中にも聴ける週末の特権を(ほしいまま)にしていた。「うんいるよ。ちょっと待ってね」そう言って私は母に受話器を渡した。そして次の瞬間、小春日和の午後の至福のひとときはぶつりと途切れた。


 「えっ、邦彦が……」そう叫ぶやいなや、母は受話器を握りしめたまま(くずお)れた。「わぁぁぁぁ、どうしてあの子が……それで……えぇ……えぇ……えぇ……あぁぁぁぁ……」

 ただごとでないことは明らかだった。邦彦おじちゃんの身に何か起きた――そのことだけは、小田さんの甘い歌声が流れる穏やかな部屋の空気を鋭く引き裂いて伝わってきた。


 「邦彦おじちゃんが倒れたって……」しゃくり上げながら母が話し始めたのは数分後のことだった。母の弟にあたる叔父の一家と祖母は、叔父の仕事の関係から地元を離れ、長野に移り住んでいた。

 その日叔父は、隣町にある美術館へ祖母を車で送る途中だった。突然おじは苦痛に顔をゆがめ、ハンドルを切って車を路肩に停めた。と同時に「うわぁぁぁぁぁ!」と叫びながら、祖母の方へ倒れ込んで意識を失ったという。祖母はすぐさま救急車を呼び、おじはK脳神経外科へと運ばれたのだった。


 「脳幹出血」――これが叔父の病名だった。脳卒中の中でもとりわけ重症の部位だった。「たとえこれからどんなに医学が発達したとしても、半永久的にメスを入れることはできない場所でしょう」「90パーセント死刑の宣告をされたものと思って下さい」――そう先生から告げられたという。まだ30代半ばの妻と、小学4年生と2年生の娘を持つ、働きざかりの叔父。40歳の厄年を襲った出来事だった。


 それからというもの、黒電話の呼び出し音は、「誰からだろう?」とわくわくする希望の音から一転、家族にとって恐怖以外の何物でもない音色に変わった。「リーン」と鳴るたび、一同は息をのみ、一瞬目を合わせて受話器を睨み、それを取るのは私か弟の役目となった。万が一それが不幸を知らせる一報であった場合、母への直撃を避けるための、せめてもの思いやりだった。


 私も弟も大好きな叔父だった。おいしいものに目がなく、ややメタボ。だが、そんな風体が温和な叔父を象徴していた。たばこやお酒、パチンコや麻雀もたしなみ、笑い上戸。週末や長期休暇には家族や親戚をあちこちへ連れて行ってくれる、サービス精神満点の人だった。もっぱら会社人間でやや石頭、あまり冗談の通じない父とはおおよそ正反対な叔父は魅力的で、そんなパパを持つ従妹たちいがうらやましいと思ったこともあった。正反対に見える叔父と父だったが、それゆえお互いに惹かれあうのか、お盆にわが家へ泊まりに来るたび、ビールを注ぎ合いとこいながら大いに盛り上がっていた。父のいつになく大きく、トーンの高い笑い声に戸惑いつつも、身ぶり手ぶりを交えて延々と語られる釣りやゴルフのエピソードを、少し離れた食卓から微笑ましく眺めていたものだ。そしていつか自分もあの場に加わり、ほろ酔いかげんで大人の話に花を咲かせられる日をひそかに楽しみにしていたものだ。それはおそらく、4歳下の弟も同じ思いだったことだろう。


 そんなささやかな希望も、「脳幹出血」「死刑宣告」という容赦ない現実の前に、無残に打ち砕かれた。母の目元は涙で常に腫れぼったく、叔父と同じで笑い上戸な口元からも、微笑みは消えていった。黒電話が鳴るたび祈るような気持ちで受話器を持ち上げ、違う相手とわかるとほっと胸をなで下ろす、一喜一憂の日々だった。

 (のち)に知ったことだが、弟は毎日神社で手を合わせて叔父の快復を祈り、私は「高校に受かればおじちゃんもきっとよくなる。みんなも元気になる」と信じ、敵討ちの如く受験勉強に励む日々だった。小田さんの歌声に、張りつめた心の糸をほぐしてもらいながら。


 「死刑宣告」はすなわち、叔父がいつ旅立ってもおかしくないことを意味していた。しかしながら、40歳という若さが持つ生命力と、最愛の妻や母、まだ年端も行かない2人の愛娘を残したまま死に切れないという生への執念の(たまもの)か、年越しはとうてい難しいと思われた叔父は、新しい年を迎えることができた。叔母と祖母が交替で泊まり込む献身的な看護は続き、叔父は起き上がることも言葉を発することもできなかったが、こちらが話しかけることはすべて聞こえ、まばたきで返事をすることができた。意識はしっかりあるのに体がまったく言うことをきかない歯がゆさ、もどかしさのせいか、事あるごとに大粒の涙を流していたという。あの笑い上戸の叔父からはおおよそ想像のつかない光景に、叔父の無念さを思うと同時に、「なぜあんないい人がこんな目に……」と、神の存在を疑う日々が続いた。


 そんな中、父が東京への出張帰りに何度目かの見舞いに訪れた。昭和58年1月15日の夕刻だった。このとき父は、今までになく血色がよく、機嫌のいい叔父の様子に驚いたという。そして義弟の快復を確信し、その手を握り、「邦彦わかるか?もう大丈夫やぞ。ようなるぞ。家のことは何も心配いらん。今は自分がよくなることだけ考えるんやぞ。いいな?わかったらまばたきしてみぃ」すると叔父は、大げさなくらいにぎゅっと両目をつぶり、義兄の言葉に応えたという。


 その夜、父の口から直に朗報を受け取った私たち家族は、久々の笑顔に包まれた。「峠は越えた。もう大丈夫」「さあ、あとは私が高校に受かって、おじちゃんの退院に花を添えるだけ」――みんながそれぞれに希望の春を夢見て床に就き、これまた久々に熟睡することのできた晩であった。


 翌朝は実にさわやかな目覚めだった。心配事がひとつ減り、すこぶる快適な眠りを堪能した証だ。私はいつものように枕元のカセットデッキを手探りし、「Yes-No」をかけた。あの日以来、小田さんの声までもがいっそう切なく思えた日々であったが、今朝はなんとなく弾んで聴こえる。このままもう少し、ベッドでまどろんでいたい気分だった。


 ふいに階下で電話のベルが鳴った。時計は午前8時30分を指している。まだ誰も起きていないようだ。今日は成人の日の振替休日だし、昨夜父からもたらされた吉報に安堵して寝坊しているのだろう。


 「もしもし美穂ちゃん?お母さんもう行かれた?まだおられる?」電話の向こうは祖母の義妹、すなわち母の叔母だった。奇妙な副詞にいささか違和感をおぼえながら、半信半疑なまま母に取り次いだ直後、束の間の平和な時間はあっけなく終わりを告げた。


 「えぇっ、そんなあぁぁぁぁ……」あの日と同じ光景だった。受話器をにぎりしめたまま、ガウン姿の母はまたも頽れた。母のただならぬ声に、すぐさま父も跳び起きてきた。「亡くなったんか!?」めったに取り乱すことのない父の顔までもが青ざめていた。まるで夢を見ているようだった。父自らが元気な姿を確認し、「もう大丈夫」という確信を胸に家族が目を閉じたのはほんの9時間前のことだ。その短い時間の中で、事態は急変していた。


 真夜中、叔父は2度目の大出血を起こしたのだった。そもそも手術は無理な場所だった。先生によれば、再び出血を起こすのは時間の問題だったという。そして午前3時40分、最愛の妻と母、2人の愛娘に看取られて、叔父は旅立った。夕べの父の言葉に安心してだろうか……いや、そんなはずはない。やっと不惑の年に届いたばかりで、愛する家族を残して、母親よりも先に、誰がおめおめと死ねようか。叔父の死を誰よりも悲しみ、恨み、悔しがった人……それは叔父自身にちがいない。

 人は亡くなる間際に仏様のように穏やかな顔になるという。人づてに聞いたことしかなかったが、あれがそうだったのかと身をもって知ったのだった。


 たまらず私は外へ飛び出した。北陸の冬には珍しく、雲ひとつない澄みきった青空が広がっていた。今頃叔父はどこにいるのだろう。太平洋戦争で船ごとレイテ沖に沈み、幼くして死に別れた父親に導かれ、天国へと昇っているのだろうか。「人柄のよいおじちゃんが昇っていく日だから、きっとこんないいお天気なんだね……」私はふと、ユーミンの「悲しいほどお天気」という曲名を思い出した。まさしくそんな空だった。「おじちゃん……」もう一度見上げた空は、涙に滲んでゆらゆらと海のようになった。


 受験生の私は弟と留守番をし、母と父だけが葬儀に参列することとなった。幼い頃から慕い続け、「こんなパパだったら……」とさえ思ったことのある叔父を見送らぬ後ろめたさを勉強にぶつけつつ、はじめての長い留守番は過ぎていった。


 「ただいま……」数日ぶりに帰宅した母は憔悴しきっていた。「邦彦ったら、大理石のように冷たいのよ……」と母はつぶやいた。母はきっと、叔父の死をまだ受け入れられずにいたのだろう。「もしかしたら夢かも……」そんな思いがどこかにあったのかもしれない。叔父の顔は穏やかで、まるで眠っているようだったという。だがその頬に手を触れた瞬間、ささやかな希望は断ち切られた。指先から伝わる冷たさが、残酷な事実を証明していた。

 「自分より若い弟が先に逝った」ことは、母を相当に打ちのめした。「親死に 子死に 孫死に」のことわざの重みを、今さらながら痛感した。

 これほどまでに打ちひしがれた母を救う手立ては何だろう?今の私にできること――それは志望校に合格して母を喜ばせること以外になかった。


 叔父が倒れて以来、私はずっと叔父と競争しているつもりでいた。叔父の快復と私の高校合格、どちらが早いか?そしてたとえ叔父の快復が遅れても、私が合格すれば必ずよくなる……そう信じて、私は勉強に打ち込んできた。だがその相手は今、勝負を無理やり降ろされてしまった。残された私は、叔父の無念を背負いながら、独りゴールを目指すことにした……いや独りではない、叔父に背中を後押ししてもらいながら。


 昭和58年春、私は無事志望校に合格することができた。ひとえに叔父のおかげだ。叔父が常にそばで励ましてくれていたから。


 入学式の日、母と私はスナップに収まった。ひと頃ずいぶんやつれていた母は、いくらかふくよかさを取り戻していたが、眼鏡の奥の細い目はまだ何となく寂しげであった。けれども希望に満ちた高校生活を日々報告する中で、きっとまたかつての笑顔を取り戻してくれるに違いないと思っていた。美しい字を褒められてうれしそうにしていた、あの頃の笑顔を。


 母の左手にかすかな震えを認めるようになったのは、この頃からだった。手足を酷使しすぎるとガクガクするのは、私もスキーの後などに覚えがあった。しかし母の症状は一時的なものではないらしく、大好きな緑茶を注いだ湯のみを持つ手が小刻みに揺れるのを頻繁に目にするようになった。

 さすがに気になった母は、最寄りのかかりつけ医に診てもらった。明確な診断は下されなかった。その後も父や友人から紹介された町医者をいくつか訪ねたようだったが、結果は同じだった。

 それならばと、父は自分が献眼登録をしていた大学病院へ母を連れていった。 ようやく明らかになった病名は、家族の誰もが初めて耳にするものだった。

 「パーキンソン病」――脳の中の「ドーパミン」というホルモンが分泌されなくなるために、体に徐々に麻痺をきたす病気だという。原因が解明されていないため、特効薬や治療法が確立しておらず、漢方薬などを用いて症状の進行を遅らせるほか手はないらしい。

 「不幸は重なる」とよく言うが、最愛の弟を亡くして間もない母を、またしても災難が襲った。しかも今度は自らの病気。私はまたもや神の存在を疑った。なぜ母ばかりがこんな目に遭わなければならないのだ?


 そんな中での唯一の救いは、病気が「徐々に」進行するということだった。今日明日の命ということはなさそうだ。不幸中の幸いだった。そしてここから、母と病との23年に及ぶ長い闘いが始まったのだった。


 パーキンソン病の確たる原因は、今もわかっていないらしい。だが統計的には、几帳面な人の罹患率が高いという。たしかに母も完璧主義で、すべてにおいて手抜きをしない性格だった。美しい文字も、まさに完璧と言えるものだった。

完璧主義者はそれゆえストレスも溜まりやすいはずだ。その「ストレス」が原因の一つだとすると……母にとっては叔父の死がこの上ないストレスとなったことは言うまでもない。自分の体が壊れてしまうほど、母は大きなショックと深い悲しみに襲われたのだ。かけがえのない肉親を失うことがどんなにつらいことかを、私は母からあらためて教わった。それは娘の高校合格ぐらいでは、とうていあがなうことなど叶わぬものだったのだ。


 母は2週間に1度、大学病院で診察を受けるようになった。主治医のS先生は、眼鏡が似合う柔和な雰囲気の方で、名前を呼ばれた母が廊下から診察室へ入る段階から注意深く見守り、症状の変化や進行状況をつぶさに診てくださった。病気との出合いは決して喜ばしいものではなかったが、S先生との出会いはこの後終生、母や私たち家族を支えて下さることになる、大変貴重なものとなった。この一筋の光を頼りに、母は毎日、お世辞にもおいしいとは言えない苦い煎じ薬を沸かしながら、辛抱強く病気と向き合い、共生していくこととなる。

 

 ところで私には、中学の頃から憧れていた大学があった。今にして思えば、病身の母を置いてよく上京できたものだと、身勝手極まりない自分につくづく愛想が尽きる。地元にいたなら、通学の傍ら自動車免許を取り、講義の合間に母を送り迎えすることぐらいはできたはずだった。大学時代の私にできたことと言えば、帰省中に家事を手伝うぐらいだった。その間母は、独りタクシーで病院へ通い、診察を受け、長い薬待ちの合間に食堂でおそばを食べ、ひと抱えある薬袋をもらって帰途につく日々を送っていたのだ。自分のことしか考えず、4年もの歳月を母と共有しなかったことを、今も後ろめたく思っている。


 学生生活をどうにか無事全うした私は、就職では迷わず地元を選んだ。肝心の自動車免許はまだ取得しておらず、新人の分際で早退して教習所へ通うという大胆な手段を取っていた。2か月かけてようやく手にした免許証だったが、平日は仕事に追われ、相変わらず送迎は叶わぬ日々だった。それでも週末は家事を手伝ったり、一緒に買い物に出かけたり、家族でごはんを食べに行ったりと、ささやかながら平和な時が流れていた。今となってはなつかしい日々である。


 話は前後するが、高校3年の夏休み明け、私はある人から11月の文化祭でバンドをやらないか、と誘われた。大学受験を控えていたこともあり、いささか迷ったが、高校生活最後のよき思い出に……と引き受けた。クラスも違い、喋ったのもこの時が初めてだった彼を、私はどんどん好きになり、バンド解散の時には別れがつらくて泣いてしまった。

 その後は大学受験のため、恋心はしばらく封印したままだったが、卒業式を終えた数日後、それぞれの旅立ちを前にもう一度メンバーで集まることになった夜、私は彼から思いがけない告白を受けた。

 てっきり片想いだと思っていた意中の人と、実は両想いだったといううれしさと、思いが叶ったとたん離ればなれになってしまう皮肉さとで、私は涙が止まらなかった。


 その彼と4年間の遠距離恋愛を貫いた末、地元に戻ってからも交際は続き、気がつけば7年の歳月が流れていた。

 彼は大勢たいせいに飲み込まれることを嫌い、少数派たりとも自らの考え方を曲げない、毅然とした信念を持っていた。保守的な考え方の私は、そんな彼を尊敬のまなざしで見つめていた。

 両親も彼に一目おき、母は「人柄は申し分ないのだけれど、遠いことだけが恨めしいわ……」とよく言っていたものだ。

 彼は広島にいた。世界で最初に原子爆弾の犠牲となったこの地で、教育者かつ研究者として、日本の未来を変えようとしていた。いずれ私も広島へ赴くつもりでいた。だんだんと自由がきかなくなりつつある母の体が気になりつつも、彼への愛情が揺らぐことはなく、いささか後ろ髪を引かれながらも、いつかは旅立つ時が来ると信じて疑わなかった。


 就職4年目の夏、私は友達にせっつかれて、中学3年時のクラス会の幹事を引き受けることになった。案内はがきを作って送ったところ、1人の男子から電話が入った。「ごめん、はがき失くしちゃってさ……」

 私の記憶では、彼は東京にいるはずだった。高校卒業後ミュージシャンを目指して上京し、バイトをしながら練習やライブを続けていた。在京中、私も一度だけ彼のライブを見に行ったことがあった。痩せて茶髪を腰まで伸ばした姿は、アルフィーの高見沢さんを彷彿とさせた。

 「今東京からかけてるの?」「いや、地元から。去年の秋に戻ってきたんだ」――意外な答えだった。聞けば、ずっとメジャーデビューを目指して奮闘していたが、思うように道は開けず、そうこうするうちに地元で自営業を営む父親に呼ばれ、片腕となって支えるべく戻ってきたのだという。

 「じゃあ近々飲みに行く?」彼のそのひと言がきっかけとなり、私たちはちょくちょく会うようになった。中学時代、彼はいわゆるツッパリ君、かたや私は「歩く生徒手帳」ばりのド真面目生徒で、2人の間におおよそ接点はなかった。唯一の思い出と言えば、秋の文化祭の合唱コンクールで、彼が指揮者、私が伴奏者だったことぐらいだ。

 そんな対極にあった彼と、卒業して10年ぶりにじっくり話してみると、どこかとがっていて話しかけづらかった当時の印象とは異なり、ずいぶん丸くなっていて話しやすい。「え、こんな三枚目だったの?」というくらい、ユーモアに溢れて面白い。そして何より、高い思考力や志に自分も追いつこうと背伸びしていた広島の彼とは異なり、ごく自然体で話せる心地よさに、新鮮な驚きと喜びと安らぎを覚えていた。

 当時会社の大きなプロジェクトの一員で、日々残業やプレッシャーに押し潰されそうになっていた私は、彼と会うたびに笑い転げ、疲れを癒やされ、その意外な素顔にどんどん惹かれていった。

 7年間変わることのなかった心が、初めて揺れた。「こんな身近に、こんな素敵な人がいたなんて……」「私、地元に居ながらでも幸せになれるかもしれない……」


 広島の彼とは、子どもを持たずに一生2人で生きていこう、という約束があった。愛する人の子供を持てないことは悲しかったが、愛する彼が望むことなら受け入れよう、と諦めていた。

 しかし今、目の前の彼を見た時、「やっぱり子どもがほしい。家族を持ちたい。両親にも孫を抱かせてあげたい。この人となら、その夢が叶えられるかもしれない……」という思いが、ふつふつと湧いてきた。


 そして私は、広島の彼に別れを告げた。7年もの歳月を積み重ねた挙げ句、最後の最後に裏切ってしまった。

 今さら会わせる顔などない。さぞかし恨んでいることだろう。結局のところ、私は母のそばを選んだのだ。大切な彼よりも、親を取ったのだ。

 彼が今、どうか幸せであるようにと祈らずにはいられない。私なんかよりもっと相応しい人と、私以上に幸せになっていてほしいと願うのみだ。


 私たちの結婚は、周囲を驚かせた。「え、あのU君と!?」親も友人も揃って目を丸くした。


 かくして私たちは、平成6年12月3日に結婚した。中学、高校と憧れだったテニス部の先輩が司会を務めて大いに盛り上げて下さり、交際中から2人を温かく見守って下さった先輩方がバンド演奏を披露して下さったり、悪ノリした友人が自らキャンドルになりすましたり……と、それはにぎやかな披露宴だった。

 両親も笑いあり涙ありの演出に大満足だったようで、「いやぁ、楽しかったのう。」「いい結婚式だったわね。」というやりとりが、後々(のちのち)まで交わされたという。


 結婚を機に私は退職し、主人の家業を手伝うこととなった。その合間を縫って、月2回の母の通院日には付き添いをさせてもらった。皮肉にも、長年夢見た母との病院通いは、嫁いで初めて叶えられることとなった。縁あって親元の近くに嫁ぐことのできた幸せに、私はあらためて感謝した。

 付き添ってみて初めて、私は母の通院がどれほど大変だったかを実感した。徐々に体に麻痺をきたしている母は、着替えだけでもひと息時間がかかり、予約時刻までに到着するのがやっとだった。その上、診察が終わると長いお薬待ちの時間がある。その間いつも、母はひとり食堂へ入り、大好きな麺類を食べていたようだった。そしてテレビの前のソファに座り、引換番号が表示されるまで、ただひたすら待ち続けていたのだった。さぞかし孤独で長い時間だったことだろう。

 食いしん坊の私が付き添うようになってからは、お薬待ちの間に売店でアイスクリームを買って食べ、辛抱強くお薬を待ってから外へごはんを食べに行くのが習わしになった。長い待ち時間は、お互いの近況報告をしあう絶好のおしゃべりタイムになったし、「今日はどこで食べよう?」とお店を考えるのも楽しみのひとつとなった。だんだん体が言うことを聞かなくなり、唯一の外出となった病院通いを、母もささやかな楽しみにしてくれているようだった。


 結婚して初めて、「実家からの年賀状」というものをもらうようになった。なんだか不思議な感覚だったが、母の懐かしく美しい文字を受け取るのは楽しみだった。

 しかし文字は、年ごとにだんだん小さくなっていった。それは病状が確実に進行していることを告げていた。


 平成8年に長女が産まれてからは、娘も「ばっちゃん」のお出かけに同行してくれるようになった。診察待ちの間は絵本を読み、お薬待ちの間は3人ソファに並んでアイスクリームを平らげ、大好きなラーメン屋さんや定食屋さんを巡って回った。

 母にとって、初孫とのお出かけは何よりうれしいものだったに違いない。仕事に忙しい父も、時折うらやましそうにしていたと聞いた覚えがある。そんなひとときを持てたことを幸せに思い、また甘えさせてくれた主人や義父母に、心から感謝している。


 平成11年には長男が誕生し、病院通いも4人でとにぎやかになった。


 平成12年5月、主人の祖母が入院した。92歳のこの年まで、ビジネスホテルを経営する現役バリバリのスーパーウーマンだった。

 7月、今度は母も入院することとなった。病状が進み、一時的に入院治療が必要になったのだ。特効薬や確実な治療方法が確立されていないパーキンソン病は、「薄皮をはぐように」ならぬ「薄皮をはおるように」ゆっくりゆっくりと症状が進んでいく。いずれ全身が麻痺すれば、寝たきりになることは覚悟していたつもりだが、いざ「入院」という現実を突きつけられるとつらいものがあった。しかも身内が2人同時に。

 こうなったら、どちらが先に退院できるかを楽しみにしながら、開き直って対処するしかない。「あの時は大変だったね」と笑い合える日が来ることを信じて。


 しかしその日はとうとうやって来なかった。祖母は日に日に食欲を失い、衰弱していった。そして一度だけ外泊許可をもらい、懐かしいわが家でゆったり過ごして病院に戻った直後、危篤に陥った。家族が駆けつけると、祖母はふいごで空気を送り込まれていた。

 私は布団を(まさぐ)り、祖母の手を握りしめた。体温はすでに低かった。祖母の手は大きく分厚かった。太平洋戦争で夫を失ったのち、八百屋を切り盛りしながら女手ひとつで義父と伯母を育てた人だった。父親の分まで働きに働きづめた、たくましい男のような手だった。

 「おばあさま、お世話になりました……」意識はすでになく、届いたかどうかはわからない。それでもよかった。直にお礼を言うことができただけで十分だった。

 死の床に立ち会うのは、これが初めてだった。平成12年(2000年)8月24日、明治に生まれ、波瀾万丈の20世紀を生き抜いたその人は、世紀末とともに旅立っていった。


 「母さん、のぶおばあさまが亡くなられたの……」そう言いかけるなり、私は泣き出してしまった。母の競争相手が、ともに元気になってほしいと願っていた人が、またもや勝負を降ろされてしまった。どちらかが先によくなれば、もう一人もきっとあやかれると信じていたのに。かつて叔父と私が競っていた時のことを思い出し、また涙があふれた。

 「母さん、おばあさまの分まできっとよくなってね」そう強く頼んだ。私が叔父の敵打ちを果たしたように。


 入院から3か月後の平成12年10月、母は無事退院することができた。入院前は「くの字」に折れ曲がっていた腰がシャンと伸び、見違えるほど元気になった。歩くスピードも以前より速くなった。家族の誰もが目を見張り、快復を喜び合った。

 「一時的な危機は乗り切った。あとはこのまま焦らず、病気と一生気長につきあって行けばいいんだ」みんながそう確信し、「一病息災」の平穏な日々が続いていくはずだった。


 「もしもしお義姉さん?U子です。今朝、お義母さんが倒れられて……」義妹から耳を疑うような電話が入ったのは、平成12年12月4日の朝だった。「えっ……」

聞けばいつものように朝食をとっていた時、隣に座る父が話しかけたところ返事をしない。そうこうするうち、父の方へもたれかかるように倒れ込んだという。

 救急車を呼ぶより早かろうと、父は自らの車ですぐさま母を大学病院へ運び、今付き添っているという。私は直ちに父の携帯を鳴らした。ところが何度かけてもつながらず、挙げ句留守電になってしまう。「病院だから電源を切ってるのか……」

 すぐにも飛んで行きたかった。だがその日はあいにく庭師さんが雪囲いに見えるため、在宅を免れなかった。じれったい時間だけがゆっくり過ぎていった。


 ようやく父とつながったのは、昼頃だった。「すまん、携帯をうちに忘れてのう。」父は小さな会社を経営していた。社内外との連絡に、携帯を肌身離さず持ち歩く人だった。その父が携帯を置き去りにするなんて――父の動転ぶりがうかがえた。

 「どんな具合?」「おぉ、今集中治療室におる。『脳梗塞』だと。意識はない。邦彦と一緒だ……」最後のひと言が私を打ちのめした。「邦彦と一緒」――すなわち「死刑宣告」なのか。助かる見込はないのか。その上今日は、叔父が倒れた時と同じ12月4日ときている。日付も症状も同じだなんて。神様はなんて悪い冗談がお好きなんだ!?

 それからは「あの日」と同じだった。電話のベルが鳴るたび凍りつく。違う相手とわかるたび、全身の力が抜ける。とにかく庭師さんの作業完了がひたすら待ち遠しい一日だった。


 4歳の娘の手を引き、1歳の息子をおぶってようやく病院に着いた

のは、午後5時近くだった。集中治療室前のロビーに弟一家を見つけたとたん、溢れるものを押さえることができなくなった。

 「どう?」「うん、目は開けない。でも、手を握ると握り返してくれるよ。」反応がある――胸のつかえが少しだけ取れた。

 すぐさまカーテンをくぐり、母の枕元にかけ寄った。「母さん!!」「美穂だよ。わかる?」右手をぎゅっと握りしめながら呼びかけた。細くて柔らかい指が、かすかに握り返した。「わかってる……目は開かないけど、意識はちゃんとあるんだ……」またもや熱いものが込み上げた。私は根っから、母ゆずりの泣き虫なのだ。

 このまま付き添って泊まりたかった。だが、幼子が2人いてはそれも難しかった。

 「大丈夫ですよ。私どもがおりますから……」落ち着いた口調で、諭すように優しく語りかけて下さったのは、М看護師だった。「そうですか。ありがとうございます。もしも何かあれば、すぐ連絡をお願いします」何度も念を押してから、私は母に呼びかけた。「明日また来るからね。待っててね。」指きりのような握手をしながら、私は右手に力を込めた。母は「わかったわよ」と言わんばかりに、きゅっきゅっと握り返してきた。その手応えと温もりを名残り惜しみながら、私は病室を後にした。冬の日はもうとっぷりと暮れていた。


 翌日から病院通いが始まった。母が倒れたことはショックだったが、最近すっかり足元がおぼつかなくなり、家の中でもしょっちゅう転んで顎を切ったりしていたことを思うと、24時間先生や看護師さんの監視下にいることは、ある意味安心感をくれた。

 当時、娘は幼稚園の年中組に体験入園中、主人は夕方からの出勤だった。そこで私は息子をおぶり、お昼頃に病室を訪ねる毎日だった。

 

 幸いにも軽い脳梗塞で済み、母が目を覚ましたのは、倒れてから数日後のことだった。「母さんよかったね、目が開いて。またいろんな話ができるね」

 ところが、母の答えは意外なものだった。「おばあちゃんは?」――突然、母親のことを聞いてきたのである。4年前、娘が生まれる直前に、まるで入れ代わるかのように天国へと旅立った祖母のことを。

 「えっ……」「元気?」一瞬あっけに取られ、言葉を失った。脳出血で倒れた直後はとんちんかんなことを口走ると言われるが、なるほどこのことだったのか。出血の影響で脳が腫れ圧迫されているため、母もまた記憶障害を起こしているようだった。

 こちらも一瞬パニックになり返答に困ったが、ここは母にショックを与えるべきでないと判断し、とっさに「うん、元気だよ。長野から心配してたよ」と繕うしかなかった。「そう」母は安心したようにつぶやいた。

 あぁ、これから母はどうなってしまうのだろう?このまま寝たきりになり、どんどん呆けていってしまうのだろうか――衝撃とともに、将来への不安が一気に頭をもたげてきた。

 いや、嘆いてはいられない。「即刻死刑」を覚悟したあの日から思えば、こうして母が意識を取り戻した今は、なんて幸せなのだろう。母は起きている。会話もできる。今こうしていられることをありがたく思わねば。

 それからは、感謝と開き直りの気持ちで、一日一日を重ねる日々だった。


 倒れて2か月が経った頃、М看護師がある提案をして下さった。「交換ノートのようなものを作られてはいかがでしょう?」

 母の元には毎日、家族が入れ替わり立ち替わり出入りしていた。父、弟、義妹と甥っこ、そして私たち……。しかし時間がまちまちなため、互いに連絡を取り合うことが難しかった。携帯電話を持っているのも、当時はまだ父だけだった。そのため、ティッシュやタオルといった身の回りの物を、ダブって差し入れてしまったりすることもあった。

 そこで、立ち寄った人がノートに母の様子ややりとり、必要な物などを走り書きして伝えるこの方法は画期的に思え、さっそく実行することにした。М看護師の機転とご厚意に感謝。


 母のとんちんかんは、その後も続いた。とうに亡くなっている叔父や祖母は、すっかり生き返っていた。母自身もいつの間にやら「女優」になっており、弟はたびたび「私の作品、観た?」などと聞かれて面喰っていた。

 考えてみれば、パーキンソン病と脳梗塞の双方から脳にダメージを受けているのだ。思考回路が故障してしまうのも無理はない。今の私たちに必要なのはむしろ、そんな母の突飛な話を楽しむくらいのゆとりだ。 


 ある日、母が突然つぶやいた。「いい結婚式だったわね……」ベッド回りを掃除していた私の手が思わず止まった。母は今、たしかにあの日をふり返り、楽しかったひとときを思い出してくれたのだ。母の頭の中はまだカオス状態にあるけれど、断片的にゆるぎない記憶もしっかり存在している。そしてその中に、私たちの結婚式も含まれていた――それで十分だった。「ありがとう、ありがとう……」私は母の手を握り、相部屋を仕切ったカーテンの中で、声を殺して泣き続けた。


 ところで、入院期間はどこでも概ね3か月と定められている。残念ながら、母にもその期限が迫っていた。

 ここを出されたらどうすればよいのだろう?自宅は父が仕事で不在がちな上、義妹もまだ2歳の幼子を抱えていた。私も4歳と1歳の子がおり、なかなか身動きが取りにくい。なんとかこのまま大学病院にいられないものか……。

 

 そんな悶々とした気持ちの中で迎えたバレンタインデーに、朗報はもたらされた。パーキンソン病の診断をして下さった、元主治医S先生の転勤先であるH病院に転院させていただけることになったのだ。

 S先生は、母が倒れた時、現在の主治医から連絡を受け、転勤先から来院されるたびずっと経過を見守って下さっていた。そして父と話し合い、リハビリ設備も備えた療養型介護施設であるH病院を紹介して下さったようなのだ。

 S先生とのご縁とご厚意に、あらためて感謝した。闇としか思えぬ行く手にも、必ず光は射すものだ。どんな状況下にあっても決して希望は捨てるまい、と誓った。


 平成13年2月26日、3か月近くお世話になった大学病院を後に、母は「新居」となるH病院へと移った。病棟はバリアフリーの平屋建てで、車椅子や歩行困難等の患者さんを考慮した造りだった。

 大学病院でもそうだったが、病院食にも細やかな配慮が行き届いている。母のように体が麻痺し、噛む力や飲み込む力の弱い人には、食材がほぼみじん切りにされた「刻み食」が提供される。自宅ではなかなかできない心遣いだと感心した。

 箸を持つ手がおぼつかないので手伝おうとすると、「自分でやるから」と振り払う。いささかじれったいが、本人の意欲を尊重せねば、と思い直す。これも立派なリハビリなのだ。そして母がゆっくりながらもしっかり食べる様子は、何より私を安心させた。あんなに元気だった主人の祖母が、食欲を失うにつれ、だんだんと弱っていってしまったから。「食べることは生きること」と教えてくれたから。


 母の昼食を見守り、食後の歯みがきを済ませ、顔剃り、まゆ毛カット、耳掃除、爪切りをするのが、長い入院生活の中でいつしかルーティンワークとなった。都合でフルコースは無理なこともあったが、そんな時はノートに書き留め、「宿題」は次回にこなすようにした。なるべく両手を空けておきたいので、息子は終始背中にくくられていることが多かった。かわいそうではあったが、病院では母が最優先だった。幸いあまりぐずることもなく、いつのまにか寝息が聞こえるとほっとし、お利口ぶりをありがたく思った。

 ほとんどのことは先生やスタッフの方にお願いし、私がすることと言えば、こうしたささやかなものでしかなかったが、母のベッド暮らしがで少しでも快適なものとなるようにと、心を込めて(おこな)った。今まで育ててもらったことへの恩返しと、本当は帰りたかったであろう自宅での介護を叶えてあげられなかったことへの償いを込めて。


 おやつの差し入れも、母にとっては数少ない楽しみのひとつだった。甘いものならケーキやアイスクリーム、しょっぱいものならおかきやざらめ煎餅がお気に入りだった。病院食は原形を(とど)めていなかったり薄味だったりと、配慮とはいえ満足しかねる要素もあったらしく、母は毎回決まってデザートにも手を伸ばした。

 私もお相伴にあずかり、ルーティンを全うして帰途につく頃は、常にどこかに憂いが潜んでいる心もすっかり軽くなり、次回も元気な母に会えることを楽しみに、家事や育児もがんばろうという気持ちになっていた。私は母の世話をしながら、知らず知らず元気や勇気や安らぎをもらっていたのだ。


 平成13年9月、弟からある提案が持ち上がった。元気だった頃からずっと行きたがっていた上高地へ、母を連れて行かないかというものだった。

 そこは叔父が「いっぺん来られ」としきりに誘ってくれていた場所だった。「いいとこやよぉ。大正池はそのうち埋まってしまうらしいから、早いうちに見に来られ」と。そうこうするうち、叔父は脳幹出血に倒れ、約束は叶わぬままとなってしまった。

 「そうだね。外出許可をもらって――車椅子もお借りして。先生にお聞きしてみるね」


 S先生は快く許して下さった。さっそく上高地のガイドブックを広げ、「五千尺ホテル」の方に車椅子での散策が可能か問い合わせてみる。さすがは日本を代表する観光地だけあって、車椅子の方々も多く訪れているとの答えに、希望が湧いた。


 平成13年10月13日、ついに夢を叶える時が来た。午前9時すぎ、弟一家とともに母を迎えに行く。久々の私服に着替え、布おむつを紙おむつに替えてもらい、弟の車の後部座席へ。久々のドライブだ。横には私が付き添う。母と肩を並べられる幸せをかみしめる。

 総勢7人のにぎやかな旅。父や主人が仕事で同行できないのが残念。

 朝食もそこそこだったため、乗ってすぐに好物のクロワッサンをかじる。流れる景色を見ながら、車内で食べるのも悪くないでしょ。

 車は国道41号線をひたすら南下する。途中、父の実家付近を通過する。「ほら、吉野だよ」母の目線が懐かしい景色を追う。どうか再びあそこへお墓参りに行ける日が来ますように。


 やがて車は平湯駐車場に到着。ちょうどお昼時だったので、ひとまず腹ごしらえをする。母は好物のラーメンを注文。倒れて以来ご無沙汰だった味だ。弟と肩を並べ、さっそくすすり始める。久々の親子のツーショットを逃がしてなるものかと、私はすかさずシャッターを切った。


 平湯駐車場から先は、環境保護のためハイブリッドバスに乗り換えての移動だ。バスにはちゃんと車椅子用のリフトが備わっている。子どもたちも見晴らしのよい大型バスに大喜びだ。

 高さのある車窓からは、雄大な景色が堪能できる。紅葉はいささかまだ浅かったが、母や家族と同じ眺めを共有できただけで十分満足だった。


 バスは白樺林を縫って進んだ。やがて左手に大正池が姿を現した。鏡のような湖面と立ち枯れた木々が、幻想的な雰囲気を醸し出している。

 「母さん、大正池だよ。邦彦おじちゃんが『見においで』って言ってた……やっと来られたね。約束果たせたね……」私も弟も、ずっと気になっていた大きな宿題を、ようやくやり遂げたような気持ちになっていた。ほっとした思いと、「もっと早くに連れてきてあげていたら……」という後悔の狭間で揺れながら。

 バスを降り、私たちは河童橋を目指した。弟が押す車椅子の両脇を、幼い孫たちが支えるように歩く。言葉少なだが、満足そうに揺られる母。この上ない至福の光景に、私は夢中でシャッターを切った。


 橋のたもとに、先日電話で問い合わせた五千尺ホテルは建っていた。喫茶室のケーキが評判と聞いており、必ず寄ろうと決めていた。

 こちらも車椅子ごとスムーズに通していただき、私たちはひとつのテーブルに揃って落ち着いた。外の冷気からしばし解放され、ほっとする。迷いながらケーキを選ぶ。母はマロンケーキを選んだ。(かぐわ)しいコーヒーも運ばれ、病室とは打って変わった、贅沢なお茶の時間の始まりだ。すかさず母をカメラに収める。そこには、愛する家族と雄大な自然に囲まれ、生き生きした表情と気品に満ちた母が写っていた。


 帰りのバスを待つ頃には、もう夕暮れが迫っていた。帰途につく観光客を乗せたバスで道は渋滞し、行きよりも時間がかかったが、名残惜しい私たちにはちょうどよかった。

 今度は右手に広がる大正池に、そっと別れを告げた。「待っててくれてありがとう。母さんと来ることはもうないかも知れないけど、どうか埋まることなく元気でいてね」


 ようやく平湯駐車場へと戻り、母と私は車椅子用トイレに入った。便座に腰かける母の様子を見守りながら、「母さんよかったね。おじちゃんとの約束が果たせたね。ほんとによかった……」と語りかけるうち、私は溢れるものをこらえきれなくなった。そのまま母を抱きしめながら、母の白い髪に顔をうずめて泣いた。


 「そろそろ行かなくちゃ」母のひと言ではっと我に返り、「そうだね」と気を取り直して外へ出た。赤くなった私の鼻が、暗がりに紛れることを祈りながら。


 夕飯はお蕎麦屋さんに立ち寄った。大好きな麺類を日に2回も味わえるなんて、幸せだね母さん。


 そして再び長いドライブ。ほどなくして母は、深い眠りに落ちた。時折聞こえる寝息が、久々の外出を堪能した証の如く、心地よく耳に届いた。「長旅ほんとにお疲れさま。今日のこと、一生忘れないよ……」私は、少しずり落ちた母の毛布をそっとかけ直した。

 終日長距離を運転し、車椅子の介添えをしてくれた弟、わが家の子どもたちの世話を引き受け、3児のママとなってくれた義妹にも、心から感謝。


 後日S先生からお聞きしたところによると、母は大変喜んでいたという。だが「上高地」という地名はおぼろげなようで、「地元じゃない所のようだった」と話していたそうだ。一瞬体の力が抜けるのを感じたが、まぁいっか。念願の約束の地へ母を導けた――その達成感の余韻に、私たちは浸っていた。


 平成14年4月、これまで親身に見守って下さったS先生は再びご転勤となり、いささか心細くなったが、院長先生はじめスタッフの方々を信頼しつつ、私たちはささやかな日常を重ねていった。


 平成17年、入院生活はいつしか5年目を迎え、交換ノートも3冊目を数えていた。平成15年10月には次女も誕生し、母は4人の孫のおばあちゃんになっていた。

 夏頃までは比較的元気に過ごし、次女と一緒におかきなどをつまんでいた母だったが、秋が深まるにつれ徐々に自力での食事が難しくなり、たびたび発熱をみるようになった。

 倒れて以来ずっとベッドで過ごしてきた上に、22年余り闘ってきたパーキンソン病の症状もかなり進んでいるはずだ。弱ってくるのも無理はない。

 

 12月15日、息子がおたふく風邪にかかってしまい、お見舞いはしばらくお預けとなった。おたふくは長女と次女へも感染し、大晦日には私までもが発症してしまった。実は35歳の今まで罹っていなかったのだ。

 義父母や義姉一家が来宅する毎年恒例の新年会もおじゃんとなり、年末年始はひたすら療養に明け暮れた。


 トリの私がようやく完治し、年が改まって初めて病院へ行けたのは、平成18年1月12日のことだった。

 病室がナースステーションにほど近い場所へ変わっている。そして部屋に入るなり、私は凍りついてしまった。母の鼻にチューブが通されていたのだ。


 クリスマスの日、長女がまだ療養中だったため、洗濯物だけを届けて「これで帰るね」と告げたところ、母は俄かに泣き顔になった。「この姿で会えるのはもう、これが最後なのよ」いう予言だったのだろうか。

 20日足らずの間に、母の容体は激変していた。元旦にはまだ、看護師さんの声に耳を傾け、私からの年賀状を読み上げて下さるのを「ふん……ふん……」と聴いていたという。

 だがその後、口から物を食べるのがいよいよ難しくなり、父が承諾した上で昨夜からチューブによる栄養摂取が開始されたという。

 「とうとうこの時が来たか」と観念した。この5年間、新年を迎えるたびに「今年もどうか無事に過ごせますように」と祈り続けてきた。しかしいよいよ、覚悟を決めなければならない時が来たようだ。母との別れが刻々と近づいていることを実感するとともに、少しの時間も惜しまれる時におたふく風邪なんぞに罹ってしまった不運を呪った。

 この日私は、毎年長野の叔母が送ってくれる林檎のすりおろしを持参していた。11月に届いていながら毎回差し入れるのを忘れ、今日になってようやく持ってきたのだった。しかし、それも今や食べてもらうことは叶わない。自分のうっかり癖を、こんなにも恨めしく思ったことはなかった。ごめんね母さん――。

 10時30分現在、37度2分。先月から目立つようになった微熱が、またもや続いている。


 1月14日朝、週末で子どもたちが寝坊している間に訪ねる。熱はひとまず引いたようだが、濁った痰が出ているとのこと。レントゲンではまだ肺炎は認められないとのことだが、気がかり。

 これまで私や弟が続けてきた歯みがきは取りやめ、今後は看護師さんがガーゼで口の中を拭いて下さることとなった。「もう食べられないんだものな……」また切なくなった。

 おむつ交換の後、栄養注入開始。今のところ不快感などは示しておらず、順調に送れているとのこと。いずれ胃に穴を開けて直接栄養を送る「胃ろう」の手術を受ける予定だが、今は容体が不安定なため、先延ばしにせざるを得ない状況だ。それが叶えば、母にとっては鼻にチューブを通すよりは負担が軽くなるらしいので、一刻も早く容体が落ち着くことを願うのみ。

 耳元に呼びかけてみるが、応答なし。「パーキンソン病もかなり進んでいるようなので、『いつなん時』ということは心に留めておいて下さい」と言い渡される。

 覚悟はとうにできているつもりだった。22年前、パーキンソン病と診断されたあの日から。5年前、脳梗塞で倒れたあの時から。だが、いざとなるとまるでダメだ。「行かないで。まだ行かないで……」祈るような気持ちで、顔の手入れ、横向きで寝ていたため左側だけの耳かき、手の爪切りを済ませる。口の中の汚れも、耳かき棒でできるたけ取ってみる。


 1月16日夕刻、弟の記録より。「口を開け、息が荒い。苦しそう。まだ熱があるとのこと。口の中が乾ききっている。水を飲ませてあげたいが、駄目なのだろう……。時々目を開ける。見えているのだろうか……」

 この日は叔父の命日だった。きっと叔父が迎えに来たに違いない。「姉ちゃん、ようがんばったね。もういいよね、胃ろうまでせんでも……」と。


 平成18年1月17日。午前10時頃、病院から頼まれていた前開きのシャツを届けに来たところ、「今朝から状態が悪いんです。」とのこと。父には既に連絡が行っており、こちらへ向かっている最中だった。震える手でひとまず真新しいシャツに名前を書く。「どうかこれを着てくれますように」と祈りながら。

 息は荒く、体温も低め。目もうつろだ。

 院長先生の診察後、点滴処置。血管が細い上にもろく、右腕から試みるも漏れ出してしまう。午前10時30分、試行錯誤の末ようやく左腕から開始。鼻チューブから栄養注入も。検温37度5分。おでこや手はむしろ低く感じるのだが、脇下は意外に高いようだ。

 父が到着、直ちに院長先生より説明を受ける。「今日明日あたりが山でしょう」――そんなにも早く……早すぎる!!


 「しかしここまでよくがんばったよな……」父と2人きり、談話室の隅で涙を拭う。

 父は隣県に仕事の約束があり、やむなく向かう。午前11時30分、弟や従弟妹たちにメール。「心積もりしてね」と、半ば自分に言い聞かせながら打つ。身内にも順次連絡。正午、次女を連れ、隣接するファストフード店へ。フライドポテトを持ち帰り、母のそばで食べさせる。「飲食は談話室で……」とたしなめられるが、「すみません、少しでも長くそばにいたいので」と居直る。

 その後、今度は次女の風邪を指摘され、「双方によくないから」と帰宅を促される。院内感染等を懸念されるお気持ちは分かる。とはいえ、これが肉親の臨終に直面している身内に投じる言葉だろうか。大学病院でお世話になったM看護師だったら……と恨めしく思うと同時に、最期の時を家族だけで過ごせる個室ひとつ空いていない満床の病院、高齢者医療の受け皿不足の現状を呪った。

 渋々「何かあればすぐご連絡下さい」とお願いし、後ろ髪を引かれつつ一旦帰途につく。


 午後3時50分、義妹より「今から病院に向かいます」とのメール。私は長女の帰宅を待ちながら、身内への連絡、荷物の準備に追われる。

 午後5時半すぎ、家族揃って病院へ出発。弟一家が母を見守ってくれている。

息は荒く、「アー、アー」と低い喘ぎ声。つらそうだ。栄養注入のチューブは外され、点滴のみになっていた。目はうつろに泳いでいる。

 時折痰が絡む。看護師さんが見回りに来ては吸引して下さる。


 母の右手を握りながら呼びかける。4人の孫たちも順に握手する。

 私は声を振り絞って37年間のお礼を言う。弟は「俺、今年から親父の仕事手伝うから」――思いがけない宣言に息をのむ。高校を卒業後、人材派遣会社で16年に渡り多様な仕事をこなし、経験を積んできた弟。修業を終え、ようやく父の跡を継ぐ決意を固めた息子の力強い言葉に、母もどんなにうれしく、安心したことだろう。


 午後6時22分、呼吸がいよいよ荒くなり、すぐさま父に電話。病院へ戻れるのは午後9時半頃になる見込。もしもそれまで母が持たなさそうな場合は、父が間に合うよう延命措置をお願いすることにした。当直医の先生にその旨お伝えする。


 すると意外にも、先生は笑みすら浮かべながら「それほど急なことはありませんから」と明言された。思わずほっと胸をなでおろす。

 それならばと、夕食がまだだった弟一家は隣のファストフード店へ、私たちは今春小学校に入学予定の長男のランドセルを急いで購入し、母に見せるべく、近くのショッピングセンターへと、それぞれ出かけることにした。「母さん、ちょっと行ってくるからね。待っててね」――だが、その判断は大間違いだった。


 午後6時50分、病院より着信、「容体急変」。直ちに弟へ発信、「すぐ行ってあげて!!」――私たちが間に合う見込はもはやなかった。砂時計の砂が落ちるように、足元から力が抜けていくのがわかった。まさか死に目に会えないなんて――。

 弟たちが駆けつけた時には、蘇生処置が施されるも、反応なし。

 午後6時56分、母はついに天国へと旅立った。


 午後7時1分、車中の私に弟から着信、「母さん、亡くなったよ……」

先生の嘘つき!「急なことはない」って笑いながら言ったくせに!!だからもう一度会えると信じて出かけたのに――!!!


 「俺たちのことを見届けて、安心して逝ったんだよ……」4歳下の弟の方がよほど大人だ。悲しさと悔しさと恨みのあまり、泣きわめく私。往生際の悪い、大人気ない姿を(はばか)らず晒していた。

 「ごめんね、急に悪くなられたもんだから……」と言葉を濁す看護師。いかにも慣れきった感じが白々しく、忌々しかった。


 母はおそらく、痰を気道に詰まらせたに違いない。祖母の時とは違い、危篤にもかかわらず、先生も看護師さんも常駐しては下さらなかった。満床の上、夕食後の慌ただしい片付けや服薬等の処置が重なっては致し方なかったか。

 弟は言った。「誰が何と言おうと、あの時母さんのそばを離れた自分自身を責める」と。確かにその通りだ。どんな言い訳をしたところで、母を独りきりで旅立たせてしまったという事実は紛れもない。私にとって、生涯背負う十字架だ。


 直ちに遺体の清拭、荷物の片付けが始まる。実にあっけなく淡々と。これが現実なのだ。

 「すぐに葬儀屋さんの手配を」と促される。父が会員となっている業者へ連絡する。弟たちは自宅へ座敷の片付けに先発。私は、母がきれいにしてもらうのを待ち、母と同じ車に乗り込んだ。


 午後8時20分、母帰宅。5年ぶりのわが家だ。返事はないとわかっているが、精一杯の笑顔で「おかえり」と迎える。

 訃報を知った親戚が、続々と弔問に詰めかけて下さる。大寒間近の冷え込む夜に……ありがたく思う。母さん幸せね、こんなに多くの人たちに迎えてもらって。

 「お母さまにお化粧を……」と促され、化粧箱を開ける。おしゃれ好きだった母の豊富な化粧道具の中から取り出したのは、シャネルの19番。私たちの新婚旅行のおみやげの口紅だ。鮮やかな赤――似合うよ母さん。

 5年ぶりのわが家はどう?やっぱり落ち着く?安心した?――返事があるはずもないのに、問いかけ続けていた。


 「母さんね、日に日に穏やかな顔になっていくんぜ。やっぱり仏様に近づくからかね……」葬儀の打ち合わせに実家へ出かけた折、弟が教えてくれた。なるほど、確かに白布をめくるたび、安らかな表情になっていくように思われる。長く苦しい闘いから解放され、ほっとしているのだろうか。「長いことほんとによくがんばったね。もう苦しまなくていいよ。お疲れさま……」叔父と同じく、大理石のように冷たい母のおでこをなでながら、私はつぶやいた。


 棺には、大好きだった寺尾聰のCDと、甥が母に作ってくれた折り鶴、そしてとうとう食べさせてあげることのできなかった、叔母からの林檎を納めた。


 平成18年は久々の豪雪となった。ところが不思議なことに、母が亡くなった直後から、北陸は季節はずれのフェーン現象に見舞われ、積もった雪がみるみる解けだした。あたかも天がお参り下さる方々のために道を開けてくれたかのようだった。


 1月21日。葬儀では、小学3年生になった長女がお別れの言葉を述べた。「ばっちゃん、覚えていますか?何度も一緒に病院へ行ったね。お薬を待ちながら食べたアイスクリーム、おいしかったね。帰りに食べたラーメンもおいしかったね。ばっちゃんのお気に入りのお店は『きりん飯店』だったっけ?春にはお花見ドライブにも行ったね。桜の花がとてもきれいだったね。じっちゃんの車で、水族館にも行ったね。クリオネがかわいかったね。そして最後のお出かけは、みんなで行った上高地。にいたん(弟のこと)やこうちゃんと一緒に、車椅子を押したよ。たくさんの思い出を本当にありがとう。天国に着いたら、みんなによろしくね。そしていつまでも、私たちのことを見守っていて下さい。さようなら」


 出棺の時が来た。生身の母とはいよいよお別れだ。美しい花々に囲まれた母の寝顔を、最後にしっかりと目に焼き付けた。

 「母さん、また会おうね!!」声を限りに叫ぶと、母はゆっくりと火葬炉の重い扉の向こうへ飲み込まれていった。


 母は今、私がキッチンに立つたび、カウンターから微笑みかけてくれる。遺影は、私と弟が選んだイチ推しの写真だ。「ママの字きれいだねって」と伝えた時に見せた笑顔と同じ、美しい歯並びの穏やかな笑みだ。

 天国では今、同じ微笑みで毎日を過ごしているだろうか。脳幹出血もパーキンソン病も脳梗塞もない無病息災の日々を、叔父や祖母や祖父たちと謳歌していてほしい――それだけを願う。


 母さん、あなたの娘に生まれて本当に幸せでした。あなたを母に持ったことを誇りに、私なりに精一杯生き抜いていくからね。度重なる病と闘い続けたがんばり屋さんのあなた、美しい文字で人々を魅了したあなたをお手本にしながら――。(完)

 脳卒中に倒れた日が同じで、命日は1日違い――なかよし姉弟だった母と叔父を象徴しているかのようです。

 1月17日は、阪神淡路大震災が起こった日。母の命日と重なって以来、私たちにとってはふたつの祈りを捧げる日となりました……。

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