ロザリー 5
二日後、私は言われた通りロッグハーレン家にやってきた。迷ったけれど、何もないのも不自然かと思い、クライブに手紙を書いた。
「ケーキも焼いたので、もしよろしければ彼にも食べさせてあげて下さい」
「ありがとうロザリー。きっとあの子も慰められるわ」
ケーキはザッハトルテにした。アオイと出会った日、彼の卒業祝いに焼いたものと同じ。初めて話したとき、アオイにとてもおいしかったとお礼を言われた。クライブも覚えてくれているだろうか。手紙に彼女のことを書くわけにはいかなかったから、彼を見舞う言葉に続けた近況に、「最近部屋に持ち込んだ鉢植えのバラに元気がない。もともと植えてあった場所から無理やり離したのがわるかったのだろう」というようなことを書き綴っておいた。寄宿時代の彼に宛てた手紙には、大抵いいことしか書かなかったので、これで察してもらえないだろうかという苦肉の策だ。符丁としてはあまりに弱すぎるけれど。
こんな状況では世間話も続かない。ヨシュアは屋敷にいるらしいのだが、顔を見せる様子がないので、私は早々に退出を願い出た。また馬車のところで待っているのだと思っていた。予想は外れて、玄関ホールで上着を受け取っていると、階段を駆け下りてきたヨシュアに抱き付かれた。
幼児の頃以来、四、五振りの派手な接触に驚く私に、ヨシュアはこれも懐かしい甘えた調子で訴えた。
「もう、この家息詰まっちゃうよ。ねぇ、今度ロザリーの家に遊びに行ってもいい?」
今までそんなお伺いを立てられたことはない。戸惑っていると、彼は私の上着に何かを滑り込ませた。
「おれ、クルミのケーキが食べたいな。拾うの手伝うから、いいでしょ」
少し体を離して、目を覗き込んでくる。何を考えているのかわからない。言い知れぬ圧力を感じて、私はうなずいた。
「やった! じゃあ、近いうちに行くよ」
※※※※※
その言葉通り、三日後ヨシュアはロープを持ってうちにきた。
「ヨシュア様、そのロープは……?」
「うん、クルミを採るのに使おうと思って」
「しかしクルミは、地面に落ちていますが」
「もっとたくさん欲しいんだ。この間本で読んだんだけど、クルミって栄養がいっぱい詰まっているんだって。たくさん食べたら、もっと大きくなれるでしょ?」
子供の無邪気さでわが家の執事を煙に巻いて、ヨシュアは木登りを楽しんでみせた。ロープは命綱だと主張する。そうして一年分のクルミを採りつくして、私がケーキ作りに取り掛かろうとすると、今度は「久しぶりにロザリーの部屋が見たい」と言い出した。
「ですが今はアオイ様が……」
「アオイには、ケーキ作りを手伝ってもらおうと思っていたし、いいんじゃないかしら?」
私の部屋の隣にはアオイがいる。鍵はかかるけれど、彼女が逃げ出すことではなく、外部から接触されることを警戒しての措置だ。つまり、入れ替わりに彼女が厨房に籠れば問題ないはずだ。
侯爵が提案した教会行きに逆らうことなく、従順に部屋でおとなしく過ごしている彼女には、家人しかいないときには自由にしていいと伝えてあった。今までも、お母様や私がお菓子作りや庭の散策に誘っていたから、この提案はすんなり通った。
厨房に現れたアオイは、落ち着かなそうにしていた。三日前、クライブからの手紙を渡してから、彼女はなんだか揺れているようだった。
抱き付いたヨシュアが上着に滑り込ませたのは、クライブからの手紙だった。私宛と、アオイ宛ての二通。私の手紙には、心配への感謝と謝罪、それから協力を頼む言葉とお礼が並んでいた。私の協力が決定事項になっているのが不思議といえば不思議だった。こんな押しつけをするような人ではない。だが、橋渡ししたのはヨシュアだし、彼が何か言ったのだろう。協力を頼まれれば断るつもりはなかったので、たいした問題じゃない。
アオイへ宛てた手紙の内容は知らないけれど、「計画」の内容から予想はついた。侯爵の言葉に逆らわなかった彼女の気持ちを覆すための恋文。手紙を読んだ後のアオイは、戸惑いと喜びと不安の感情をループしている。悩み続けている。決意、に至るために、足りないものはなんなのだろう。
彼女にも計画は知らされているはずだ。ヨシュアが来ていることも伝わっている。彼が今何をしているのかわかっているから、こんなにも落ち着かない。
私たちはケーキ作りに取り掛かった。私と、アオイと、お母様。クルミは侍女が殻むきしてくれるというから任せた。私が主に手を動かして、アオイはメモを取りながら挑戦してみる。お母様は見守りながら、時折助言をくれる。
スポンジを焼いている間にクリームを泡立てる。これは時間がかかるから、三人で交代しながら頑張る。
「くたびれちゃった。はい次、アオイちゃんお願いね」
お母様が差し出したボウルを、アオイが受け取った。けれど、手を離すタイミングが合わなかったのか、ボウルは宙を踊った。慌ててアオイが抱きこむようにつかもうとしたけれど、力が入りすぎて滑り落ちてしまった。乾いた金属音とともに、床が白く汚れた。
思いのほか大きく響いた音にびっくりして、しばらく誰も動けなかった。アオイが呆然としたまま視線を上げた。目が合った。こんなにまともに目が合ったのは久しぶりだ、と場違いな感想を抱いていると、彼女の表情がゆがんだ。
「ごめん、なさい」
絞り出すような声だった。今にも泣きだしそうだ。
アオイは雑巾を持って屈み、床を拭きはじめた。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
「そんなに気にしないで。私の方こそ、しっかり渡さなくてごめんなさい。大丈夫、まだ材料はあるのだし、すぐに作り直せるわ。そうだ、今度はジェフリーにも手伝ってもらいましょう。男手があれば楽ですもの」
うわごとのように謝罪を繰り返すアオイに対して、私は馬鹿みたいに立っていることしかできなかった。お母様は慰めを口にしながら、何事かととんできた執事にボウルを渡した。
「お願いね、ジェフリー」
冗談めかした口調も、この場の空気を和ませることはできなかった。床がきれいになっても、アオイは立ち上がろうとしない。お母様と執事の視線が私に向いた。分かっている。
彼女は私に謝っている。
ぎこちない足取りで近付くと、私は彼女を立たせるためにその腕を取った。顔が上がる。
笑わなければ。
「気にしないで」
私は失敗した。
※※※※※
出来上がったケーキを、アオイは自分の部屋で食べると言った。侯爵家の人間であるヨシュアと会わせるわけにはいかなかったし、彼女も気を使ったのだろう。ヨシュアをリビングに呼び、アオイを部屋に帰して、私たちはケーキを食べた。「待ってました」と言いながらリビングに入ってきたヨシュアは、私を見て、取り繕っていた「子供らしい表情」を怪訝そうにゆがめたけれど、何も言ってはこなかった。
ケーキを食べてしまうと、すっかり夕方になっていた。そろそろ帰る、と言うヨシュアを見送るために、外に出た。
「またね、ロザリー。そうだ、今度は手紙を書くよ。おれももうすぐ寄宿学校に入るし、練習だと思ってさ」
「そんな練習、いるの?」
「いる。……ねえ、返事くれる?」
「あたりまえじゃない」
「やった」とヨシュアが指を鳴らした。あんまり嬉しそうにするから、これも計画の一部だってことを忘れそうになる。
今日ヨシュアは、私の部屋にいる間に二つの「仕込み」をした。一つは、持ってきたロープを私の寝台に括りつけて隠すこと。二つ目は、アオイの部屋の鍵型を取ること。この型をもとに、町の鍵屋で合鍵を作るのだそうだ。後日送られてくる手紙には、アオイの部屋の合鍵が同封されている。
「どうしたの、元気ないね」
ぼんやりしていたらしい。ヨシュアが心配そうに見ていた。
「クルミ拾いで疲れたのかしら」
「……老人みたいだな」
「失礼ね!」
十五歳の乙女に向かって、いくらなんでもそれはひどい。思わず声を荒げると、ヨシュアがおかしそうに笑った。
「怒る元気はあるみたいだ」
一歩近付かれて、ふと、意外と目線が近いことに気づいた。もっと見下ろしていたような気がしていたけど、そういえばこの間も、立ったまま耳元で囁かれた。
「ヨシュア、背伸びた?」
「伸びていると思うよ。成長期だし」
「そうなんだ……」
「なんで残念そうなの?」
今度はヨシュアがむっとした。これを言うとさらに怒るだろうけど、まあいいか。
「かわいい弟だったのに」
「却下」
言うなり、彼は私の頬に口づけた。先日のハグに続いて、数年ぶりのキス。あんなに嫌がっていたのに、どういう心境の変化なんだろう。昔みたいに仲良くしようと思っているなら嬉しいけれど、「弟」扱いすると不機嫌になるのは変わらないみたいだし。だいたい、却下って何。
「意味わからない」
「あたまわるいからね」
「だから、失・礼!」
本気で怒ると、ヨシュアは逃げるように駆けて行った。笑いながら。絶対に反省してない。馬車に乗り込む前にこちらを振り返って、「またね」と大きく手を振る。毒気を抜かれて、なんだか肩がすとんと落ちた。自然と笑みが浮かぶ。私も手を振りかえした。