ロザリー 3
その日私は、ロッグハーレン侯爵のお屋敷を訪ねていた。寄宿学校を卒業したクライブを迎えるためだ。お祝いとは別に焼いたケーキを切り分けながら、落ち着かなくて何度も時計を見てしまう。
「見た分だけ速く進むってわけでもないだろ」
あきれたようにヨシュアが言う。昔は体が弱く、よく熱を出していたが、ここ二、三年は落ち着いている。それと同時に随分生意気にもなった。クライブと同じ黒髪黒目だけど、受ける印象はだいぶ違う。くせのない髪と、吊り上がり気味の大きな目のせいだと思う。穏やかにも優しくも見えないし、実際そんな子じゃない。色彩以外でクライブに似たところといえば、頭のよさ、くらいだろう。でもそれも、もっぱらいたずらにばかり活用している有様だ。
「ふふ、ヨシュアはわかってないわね。ごめんなさいね、ロザリー。いつまでも子供っぽくて」
ティーカップを傾けながら、侯爵夫人が優雅に微笑んだ。「子供っぽい」と言われたヨシュアがあからさまにむくれた。そういう反応がまさに子供っぽくて、侯爵夫人にからかわれる原因だと思うのだけれど、指摘しても、さらに怒らせるだけだ。
私は気にしてないと首を振って、二人にケーキを配った。今夜はお祝いになるから、お茶用は重くならないように、シフォンケーキにした。生地はシンプルだけど、クリームにはアーモンドを使用している。
「とてもおいしいわ。ロザリーはいいお嫁さんになれるわね」
夫人がさらににっこりする。笑顔がクライブに似ていて、少しどきどきする。ヨシュアが面白くなさそうに鼻を鳴らした。「品がない」と眉宇をひそめる夫人につられて彼を見れば、その皿には三切れ目と思われるケーキがのっていた。私は思わず声を上げてしまった。
「クライブの分がなくなってしまったじゃない!」
「いいだろべつに。夕飯の後にもあるじゃないか」
「あれはザッハトルテ! チョコレートなの! 全然ちがうケーキなの!! どっちも食べてみてほしかったのに……」
「兄上にはおれから感想言っておくよ」
「なに、それ。意味が分からないわよ」
悪びれないヨシュアに脱力して、ソファーの背もたれに寄りかかる。ケーキは彼の口の中へと消えていった。本当に、昔からわがままというか、傍若無人というか。弟だからだろうか。
恨みがましげににらんでいると、控えめなノックが聞こえた。
「クライブ様がお戻りになりました」
侍女の言葉に私は勢いよく立ち上がる。さすがに駆け出すわけにはいかず、足早に玄関ホールへ向かった。
「クライブ!」
「ただいま、ロザリー」
「お帰りなさい」
四ヶ月ぶりの彼は、また大人びたように見えた。会うたびに素敵になるクライブに、私は不安になる。私なんかが傍にいてもいいのか。でも、彼はやっぱり手を差し出してくれるから、私は彼の手を取った。
頬にキス。そして軽い抱擁。
後ろでヨシュアが「オオゲサ」とつぶやいていたけど、聞こえなかったふりをする。
だって彼は帰ってきたのだ。これからはこの家にいる。仕事もあるから、昔のように毎週とはいかなくても、いつだって会える。とても嬉しい。
「母上は?」
「サンルームにいらっしゃるわ」
「じゃあお土産はそっちで開けようか」
私たちはサンルームに戻った。もう少し早く帰ってきてくれたら、ケーキを食べてもらえたのに、と思ったけど、ないものを悔やんでも仕方ない。こんなことをいつまでも気にしていることを知られる方がいやだった。私は彼にふさわしいレディになりたかった。
中庭に面した回廊を通る。今日はいい天気だ。咲き誇る花の香りが漂ってきて、なんだか浮き足立ってしまう。私はクライブの腕を取って、道中の話をせがもうとした。そのとき。
中庭で、どさり、と大きなものが倒れた音がした。
「誰かいるのか?」
クライブがすかさず誰何の声を上げた。返事がない。
「ロザリーはここにいて」
私の手をそっと離して、彼は窓から中庭に降りた。ヨシュアも続く。私は宙に浮いた自分の手すらどうしていいのかわからず、ただ、その場に立ち尽くしていた。何が起きているのだろう。人が、倒れたのだろうか。でも、今日は庭師が来る日ではないし、自分のほかに客もいなかったはずだ。侍女たちは晩餐にむけて屋敷内を忙しく動きまわっている。一体誰が。
疑問にはすぐに回答が与えられた。ほどなく戻ってきたクライブの腕には、見知らぬ女の子が抱えられていた。
私がつかみ損ねた、彼の、腕に。
そんなふうに感じた自分を、次の瞬間恥じた。浅ましさに絶望しそうになる。心配そうに彼女を見つめるクライブに、今までにないほどの不安を覚えた。地面が揺れている気がする。
駆けつけてきた執事や侯爵夫人に彼が事情を説明している。目の前で起きていることなのに、ちっとも頭に入ってこない。先ほどまでとはちがう緊張感に包まれた屋敷は、絵画の中みたいに現実味がなかった。
「まあロザリー、あなた真っ青よ。大丈夫? かわいそうに、よほど驚いたのね」
準備のできた客室に彼女を抱えたまま向かうクライブの背中を見送る私を、夫人がそっと抱きしめてくれた。思わず涙がこぼれた。理由はわからなかった。
晩餐会は中止になった。顔色が悪いと引き止める夫人に、大丈夫だと押し切って、私は自分の屋敷に戻ることにした。馬車に乗るときに、あのヨシュアまでもが心配していたから、私の様子は相当にひどかったのだろう。でも、これ以上留まりたくなかった。
クライブは一度も客間から出てこない。あの女の子が心配で、ずっと看ているそうだ。彼らしい優しさだと思う。理性は納得している。でも、感情は割り切れない。
そして私の予感は当たった。