ロザリー 1
不自然なことなどないのだと思わせるために、部屋の明かりは早々に消した。かといって眠ることもできず、私は服も着替えないままベッドに腰掛けていた。暗がりの中、自室に一人きりだというのに、ずっと緊張は解けない。
部屋に籠ってから三刻が過ぎた。屋敷は寝静まっている。起きているのは私と、事前に計画を打ち合わせていたもう一人、くらいだろう。
そろそろ約束の時間だ。
緊張のあまり手足が震えてきた。ぎゅっとスカート握りしめたそのとき、かつん、と乾いた音がして、何かが足元を転がっていった。思わず身がすくむ。
落ち着くのよ、これは、あらかじめ決めておいた合図じゃないの。
震える足をしかりつけて、私は開けておいた窓に近づいた。壁に背中をくっつけるようにして、首をひねってそっと窺う。最初は暗闇しか見えなかった。けれどもすぐに目が慣れて、父様自慢の大きな椎の木に寄り添う、彼の姿を認めることができた。
彼、クライブは、私の婚約者だ。
幼いころに親同士が言い交したことだけれど、私は最近までそのことを知らなかった。知らなくても、彼のことが大好きだった。やさしい微笑と、自然に差し伸べられる手。クライブが寄宿学校に入って、年三回しかない長期休暇にしか会えなくなっても、それは変わらなかった。会うたびに大人びて、男らしくなる彼に、私の恋心は肥大するばかりで、寄宿舎に宛てて頻繁に手紙を出したりもした。
周知の婚約者というわけではないし、その頃は私も、親の約束なんて知らなかった。嫁入り前の貴族の娘としては、慎みが足りないと眉を顰められる行為だ。けれども、どちらの家も、むしろそれを歓迎しているようだったから、私はこの恋を大事に育てることができた。
彼は必ず、手紙に返事をくれた。休みで帰ってきたときには、お土産を持って会いにきてくれた。クライブにとっても、私はきっと「特別」だ。
黒髪黒目。今夜は服まで黒っぽくて、このまま新月の闇に消えてしまいそうだ。そう思うと、私の胸はつきりと痛んだ。手が震える。
もう、決めたことじゃないの。
寝台の下から隠しておいたロープを出して、窓の外に垂らした。片方の端は輪っかになっていて、今は寝台の足に通してある。
素早くロープをつかんだクライブは、その張り具合を確かめると、機敏な動きで壁を登りはじめた。普段の穏やかな彼からは、あまり想像できない姿だ。内心はらはらしながら、彼が三階のこの部屋まで無事着くようにと祈る。窓枠に大きな手が届いた。私は邪魔にならないよう、そっと窓から離れた。
「迎えにきた」
曇りのない笑顔に、私の心臓は一際大きく跳ね上がった。くせの強い黒髪の下の目が、暗闇にも爛々と光って、さらに落ち着かない気持ちにさせる。私は微笑を返すために、ありったけの気力を動員した。
「待っていたわ」
言いたいことは他にもあったけれど、告げる決意は固めていなかった。言えるはずがなかった。
クライブが笑みを深めた。興奮と幸福に満ちた表情に、私は「こっちよ」と隣室につながる扉へ彼を誘う。が、すぐに、大股で歩く背中を追うことになった。待ちきれないとばかりに、ノブをひねる。扉は開かない。当然だ。鍵がかかっているのだから。
彼が途方に暮れて振り返った。馴染みのない姿にざわめく胸を押さえながら、私が首から下げていた鍵を差し出すと、すぐに、心の底からほっとしたような笑顔になった。
こんな彼は知らない。
私が知っている彼は、いつも穏やかで、落ち着いていて、余裕があった。陽だまりのぬくもりに似ていた。たまに、ちょっとしたわがままを言ってみても、「困ったように」笑いながら、優しくしてくれた。
覚悟はしていたはずだった。そもそも私が自分から言い出したことだ。
扉が開いた。クライブが、滑り込むように隣室に入るのと同時に、私は思わず目を閉じていた。見たくなかった。もう、今となっては覆せないのだけれど。
隣室にいる、彼と同じで、でもやはり違う、黒髪黒目のあの人と。
今夜、彼は、駆け落ちする。