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嗚呼、理想郷        :約2000文字 :SF :未来

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/06/15

 未来。とあるマンションの一室。

 そう、ここは未来。人類が長年夢見てきた理想の未来である。

 神は人を作り、人は地上に楽園を作った。

 労働はすべてアンドロイドに委ねられ、人間は一日中ソファベッドに身を預けて娯楽に耽っている。働く必要もなければ、外を出歩く必要もない。食事も娯楽もすべて自動的に提供される。

 もちろん、床ずれや血流悪化といった心配は無用。説明不要である。

 ただ、排泄については触れておいたほうがいいだろう。

 といっても、なんてことはない。スーツの下半身に細いホースが接続されており、尿は自動的に吸い上げられ、浄化タンクへ送られる仕組みになっているのだ。

 排便はしない。そもそも糞便とは、消化しきれなかった不要物が固形化したものだ。未来の食事には無駄が一切ない。栄養は完全に体内で吸収され、残滓はまったく発生しないのである。


 スーツについても説明しておこう。全身を覆うそれは、見た目こそウェットスーツに似ているが、素材は比較にならないほどしなやかで軽い。皮膚に吸い付くように密着しながらも圧迫感は皆無。通気性にも優れ、汗や老廃物を吸着して尿と同様にタンクへ送るのだ。常に最適な温度と湿度が維持され、着用していることすら意識させないほどである。また、内部から筋肉へ微弱な刺激が与えられ続けるため、寝たままでも健康に害が及ぶことはない。

 だが、このスーツの真価は別の点にある。

 それは体感機能だ。頭部に装着されたVRゴーグルと連動し、映画、ゲーム、番組――あらゆる仮想世界を全身で体感できるのだ。

 動かずして風を感じ、歩き、走り、触れ、そして誰かと愛し合う――それらすべてが可能だ。仮想世界でありながら感覚は現実と完全に区別がつかない。まさに完璧だ。

 何か不具合が起きたとしても問題はない。世話役のアンドロイドが即座に駆けつけて対処する。人間はただ身を委ねていればよいのだ。

 よくもまあ、ここまで完璧な理想郷を築き上げたものだと感心するほどである。


 かつてAI成長期と呼ばれた時代があった。

 各企業は競うようにAI産業へ参入し、コンピューター部品、とりわけ高性能メモリや演算装置の価格が異常な高騰を見せた。

 やがて電力不足が深刻化した。膨大な計算を行うデータセンターは都市一つ分に匹敵する電力を消費したのだ。さらに冷却設備が大量の水資源を必要としたため、水までもが奪い合われるようになった。

 技術だけが猛烈な勢いで進歩し、それを支えるインフラが追いつかない。人類はしばらくの間そんな歪な繁栄の上に立たされていた。

 しかし、あるとき人類は解決策を見出した。

 人間の脳――その未使用領域を演算処理装置として利用することを思いついたのである。

 人間はコンピューターを頼りに生きていたが、その脳が本来持つ潜在的な処理能力および容量は既存の機械を遥かに凌駕していた。しかし、その能力のすべてが常時使われていたわけではない。

 そこで、頭部に小型端末を埋め込み、未使用領域を計算処理に割り当てる技術が開発された。データはネットワークを介して送受信され、世界中の脳が巨大な分散処理システムとして機能するという極めて効率的で拡張性に優れた画期的な仕組みだった。

 身体への悪影響はないとされ、さらに処理量に応じて報酬金が支払われる制度まで整備されたことで、貧困層を中心に端末の埋め込みが急速に普及していった。ソーラーパネルのようなものだ。設置してしまえばあとは放置しておくだけで利益を生み出す。眠っている間も演算処理は休まず行われ、報酬が入ってくる。まさに『寝ているだけで稼げる時代』だと当時は各メディアで絶賛された。


 そうしてAI産業はさらに発展し、アンドロイド技術も飛躍的な進歩を遂げていった。人間は徐々に労働の現場から遠ざかり、やがて完全に切り離され、現在の生活を手に入れたのだった。

 飢えも貧困もなく、病気もなく、老いすら抑制されている。いつまでもAIが生成した娯楽を楽しむことができるのだ。

 ここは理想郷。まさに理想郷なのだ――。





「ただいまー」

「あら、あなた、おかえりなさい。今日は早かったのね」

「パパ、おかえりー!」


「ああ。ただいま。ふー……人間は?」


「え? 別にいつもどおりよ」

「ぼく、タンク替えしたんだよー!」

「おお、それは偉いな。でもな、ふふふ……」


「どうしたの?」


「いやあ、そろそろうちには必要ないんじゃないかと思ってな」

「え、人間のこと? でも、あれがあるから補助金が出るんじゃない」


「実はな……今日、昇進したんだよ!」

「まあ、ほんと!?」

「パパすごーい!」


「ふふ、これでもう人間を家に置かなくてもいいんだ」

「素敵……でも、本当に大丈夫? もう少し余裕を持ってもいいんじゃないかしら」


「大丈夫だよ。それに、そのうち人間の脳を演算処理に使う時代そのものが終わるだろうしな。今のうちから慣れておいたほうがいい」

「ふふ、そうね。ああ、早くそんな時代が来ないかしら……」

「未来は明るいね、パパ!」


「ああ。ははは!」




 ここは理想郷……。

 ああ……遠くのほうから誰かの笑い声が聞こえる。

 楽しげで、温かくて……なぜか懐かしい……。

 なんだろう。とても遠い……遠い……これは……おれの記憶のどこかにあるものなのだろうか……。

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