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嘘の世界1

曲がる廊下は進む

作者: ハル
掲載日:2026/02/15

待つためだけに作られた建物は、いつも揺れていた。

床が波のように上下して、柱だけが遅れてうなずく。


窓の外は同じ灰色のままなのに、室内の影は走り続ける。

人はベンチに座り、立ち、また座り、待つ姿勢だけを交換していた。


アサギは歩いていた。

到達は要らない。

耳に入った反響の回数だけで曲がる。


それが彼の判断基準だった。



偶数なら右、奇数なら左。

目的はそこにあった。

歩くことが続くための目的だ。


入口の扉は開いたり閉じたりしていたが、誰が入ったかは曖昧だった。


アサギは扉の脇を通り、壁を指で軽く叩く。

反響は三つ。

左へ曲がる。


廊下の先に、待つための掲示板があった。

何も書かれていない。


紙だけが貼り替えられ、貼り替えられた痕が残らない。



背後から、帽子の女が追い越していく。

女は壁を叩かない。自分の靴音を数え、偶数だと言い切って右へ消えた。

数え方が違うのではなく、数える対象が違った。


アサギは三つで左だ。

女の消えた方向を見ない。


小さな子どもが、指で空を叩いていた。

反響は出ないのに、子どもは「いっぱい」と言う。

男が子どもの手を取って、柱を叩かせる。


反響は二つ。

男は「ほら、三つだ」と言う。


子どもは納得した顔で右へ走り去る。


二つは右だ。

男は自分の言葉を回収するように頷き、左へ歩き出す。


アサギとすれ違うとき、男はアサギの耳元で「待つのは疲れる」とだけ言った。



アサギは壁を叩き続けた。


四つ。右。

五つ。左。

建物の揺れは規則的ではないが、反響は数えられる。


彼はそれだけで足を運ぶ。

曲がるたびに、同じベンチが別の角度で現れる。


座っている人の背中だけが入れ替わっている。

顔は見えない。


誰かがチョークで床に線を引いていた。

線は真っ直ぐ伸び、途中で途切れ、また続く。

線の脇で老人が待っている。


老人はアサギの指の動きを見て、真似をする。


柱を叩く。反響は一つ。

老人は右へ曲がろうとし、線の途切れ目で立ち止まり、線の続きが見えるふりをして左へ戻った。


判断がズレていたのではない。

線が彼の結果を邪魔しただけだ。



アサギは階段のような段差を上がり、また下りた。


上と下の区別が一瞬ほど曖昧になる揺れが来ても、彼は反響を数える。

六つ。右。

角を曲がる。


そこに、テーブルがひとつあり、羊の置物が置かれていた。


テーブルの脇で制服の男が立っていた。

男は制服を着ているだけで、役割はないようだった。


「反響は信用できない」

と男は言った。


「この建物は待つためだけにある。曲がっても同じだ」


アサギは答えない。

壁を叩く。

反響は二つ。右へ曲がる。



曲がった。曲がったはずだった。


廊下は曲がらなかった。

右へ身体を捻った感触はあるのに、視界の前方は変わらない。


ベンチの位置も掲示板も、壁の擦れも、そのまま前へ続いている。


アサギは止まらない。

判断は確かなままだ。


二つは右だ。

主体も目的も壊れていない。

ただ、結果だけが成立しない。


曲がったという行為が、世界に接続されない。



背後で、さっきの制服の男が笑った。

笑い声だけが前方からも聞こえた。


帽子の女が目の前を横切り、「やっぱり右ね」と言って左へ消えた。


消えたはずの左は、視界のどこにも現れない。

子どもが走り抜け、「いっぱいだから右」と叫ぶ。

老人が線を指でなぞり、線の途切れ目を踏み越えて進む。


踏み越えたのに、線の向こう側が手前に残る。



アサギはもう一度、壁を叩く。

反響は二つ。右へ曲がる。廊下は曲がらない。


彼はそれでも同じ手順を繰り返す。


繰り返すうちに、周りの人も壁を叩き始めた。

二つで右、三つで左と言いながら、誰も曲がらないことに驚かない。

曲がらないことが、待つための建物の日常に混ざっていく。


揺れは続き、影は走り続ける。

掲示板の紙は貼り替えられ、何も書かれない。


テーブルの位置だけが変わり、羊の置物だけが同じ角に残る。

アサギは反響を数え、右へ曲がり、曲がらない廊下を進む。


右のはずの角に、いつもと同じベンチがあり、そこに座っている背中が、誰のものでもないまま待っている。


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