期待
入部式から数日後、里香は初めてのソフトテニス部の練習に参加した。体育館に集まった新入部員たちは、少し緊張した面持ちで既存の部員たちに挨拶をしていた。
「おーい、新入生たち、まずは軽くランニングからだ!」と部長の明るい声が響く。
体育館の周りを何周か走るうちに、里香は少し息を切らせた。運動は得意な方ではないけれど、部活らしい雰囲気にどこか新鮮さを感じていた。
そんな中、同じく走っている水屋湊志の姿が目に入る。湊志は少し遅れ気味で肩で息をしながらも、隣を走る上級生に何か話しかけては笑いを誘っていた。全然ウケてなかった。
(なんか、やっぱりちょっと変な人だな……)
里香は心の中でそう思いながら、目を逸らした。しかし、どこか目が行ってしまうのも事実だった。
ランニングの後、初日はラケットの持ち方や基本のフォームを教わることになった。部員たちはペアを組んでボールを打ち合う練習を始める。里香は同じ新入生の女の子とペアになり、ぎこちなくボールを打ち返していた。
その時、横から湊志の声が聞こえた。
「お、置鮎さん、フォームきれいだね!」
突然名前を呼ばれた里香は、少し戸惑いながら振り向いた。湊志は笑顔で自分のペア相手と軽く打ち合いをしながら、こちらに声をかけている。
「いや、そんなことないと思うけど……」
「いやいや、本当だって! あ、そうだ……」
湊志はふと思い出したようにラケットを股に挟み、腰を振りながら真剣な顔で続けた。
「ところでさ、置鮎さんのこと、なんて呼べばいいかな?」
「え?」と、里香は思わず動きを止めた。
「名字で呼ぶのも堅苦しいし……でも『里香ちゃん』とかだと急に距離近すぎる気もするし、迷うんだよね。」
「……別に、普通でいいよ。置鮎さんで。」
「えー、それじゃつまんないじゃん。あ、じゃあ、『りかぴー』とかどう?」
「……は?」里香の顔が明らかに引きつった。
「あはは、冗談冗談! まあ、ちょっと考えとくわ!」と湊志は悪びれる様子もなく笑いながら、また練習に戻っていった。
里香は呆れながらも、なぜか湊志の言葉が耳に残り続けた。
練習の終盤、部長が新入生たちに向かって言った。
「よし、最後に簡単な試合形式をやってみようか! 実戦が一番の勉強だからね。」
里香はペアを組んで試合をすることになったが、ラケットを握るのはほぼ初めてで、思うようにボールを打てない。相手コートに返せずにミスを繰り返し、悔しさが募っていった。
そんな中、隣のコートでは湊志が全力でボールを追いかけ、何とか相手の返球に食らいついていた。ぎこちないながらも一生懸命な姿に、里香は思わず目を止めた。
(あの人、本当に初心者なのかな……?)
その後、里香の試合はあっけなく終わった。練習が終わり、後片付けをしていると、湊志がふらっと近づいてきた。
「里香ちゃん、じゃなくて、置鮎さんもお疲れ! 試合、どうだった?」
「……全然ダメだったよ。もっと練習しないと。」
「そう? でも、なんか楽しそうに見えたけどな。」
練習後の夕焼けに染まるグラウンド。部室へと続く小道を歩きながら、里香はふと足を止めた。
入部式の日、自分の中でざわついていた感情を思い出す。当時は湊志のことを、ただ「変わったやつ」くらいにしか思っていなかった。けれど今日、彼の真剣な姿勢や不器用なまでの一生懸命さを目の当たりにして――。
胸の中に芽生えた感情は、あの日のざわつきとは明らかに違っていた。それは、これからの日々への純粋な期待だった。
部室に入ると、湊志が器用にラケットをバラバラにしてグリップを巻き直していた。その手元を見つめながら、里香はつい口を開く。
「ねぇ、湊志くん。」
湊志が顔を上げ、眼鏡越しに彼女を見つめる。
「ん? どうしたの、置鮎さん。」
「いいよ……名前呼びでも。」
その一言に、湊志は一瞬目を丸くし、次の瞬間には柔らかく笑った。
「そう? じゃあ、里香さんでいくね。」
その笑顔が、夕焼けの光の中で少しだけ輝いて見えた。部活の初日を終えたばかりなのに、里香の心はどこか新しいスタートを切ったような気持ちで満たされていた。
(面倒、なんてもう思わない。ただ――期待してる。)
静かにそう思いながら、里香は湊志の背中を追って歩き出した。