第七話 初夜
水浴びを終えた俺は寒さで震える体を抑えようと、深呼吸していた。
気持ちを落ち着かせるんだ…。冷静に、そうクールにいこう。
なんとか震えが治まったあたりで家に入った俺は自室に向かって歩いていき、チラッとリビングを覗いてみた。
…誰もいない。
ゼノとリリアは寝室へ。
アリシアは俺の部屋にいるのだろう。
どっちだ、どっちなんだ? ベッドに腰かけて俺を待っているのか、それとも横になって待つのか…。
! 服は!服は脱いでいるのか⁉ 後からか⁉
部屋の前でああでもないこうでもないと悩みながらしかし決心し、ドアに手を掛け押し開く。
結果はどちらでもなかったし、服は着ていた。
しかし着替えたのだろうか、いつものではなく部屋着っぽいものになっていた。お胸が非常に強調されたナイスなデザインだ。
そして部屋に備えつけられている椅子に座って、机に置いてあったノートに目を落としている。
あの机と椅子は俺が初めてこの部屋に入った時からあったが、使いだしたのは最近だ。
身長の都合上、とても今まで使えなかった。今でも補助の段差などが無ければ使う事は出来ないのだが。
しかしアリシアが椅子に座っていると、それらが小さく見える。
「勉強も頑張っているようだな。魔法使いなんて何でもできるみたいに思われることもあるが、こういう努力の積み重ねの上に成り立っているものなんだ」
アリシアが微笑みながらこちらに顔を向ける。
少し顔が赤みを帯びていて、色っぽい。
心臓がドキドキしっぱなしだ。
俺が声を出せず固まっていると、アリシアが近づいてきて前かがみになった。
「お前はよくやっているぞ」
そうお褒めをいただいた。
かがんだ時にできた胸の隙間に目を奪われ、俺は返事が遅れてしまった。
「あ、ありがと…」
するとアリシアは振り返ってろうそくの灯を消し、ベッドに歩み寄って靴を脱ぎ横になった。
「明日は早いぞ。今日はもう寝よう」
あっけらかんと、そう言い放った。
あれ…? なんか思ってたのと…。
言われるがまま俺もベッドの手前側に横になる。
アリシアに触れるか触れないかの距離だ。
心臓がうるさい。音バレてないよな? なんかいいニオイ。とても眠れない。
そのまましばらく時間が経過した…と思う。
分からない。1分なのか、10分なのか。もしかしたら1時間経っているかもしれない。
するとアリシアがもぞもぞ動きだして横になったままこちらを向いて、微笑んだ…気がする。
ろうそくの火は消えているのでかなり見づらいが、たぶんそうだ。
そして少し寄ってきて、俺の枕に頭を乗せる。
そこで気付いたが、アリシアは服か何かを入れた袋を枕にしていたようだ。さすが冒険者。
近寄ってきたアリシアの体は俺の右腕に当たっていた 女性が横向きになったときに一番出っ張ってしまうあれが。
「やっぱり起きていたか。こんないい女と一緒に寝ているのにもう寝ていたら殴って起こしていたぞ」
俺は笑ってごまかした。
「明日の事が不安か?」
アリシアが聞いてくる。明日の事など全く頭に無かった。
「ううん…。でも楽しみ」
「そうか、修行が楽しみか。お前は1歳で喋りだしたり2歳で魔法を使ったり変な子だったが、やっぱり変わらないな」
変わらない?俺も変な子だとは思ってるが、修行…。いや、楽しみだな おれはやっぱり変わらず変な子だった。
「さっきゼノとリリと話していてな、私たちが出会った時の事だったんだ」
うちのパパママとアリシアの出会いか。そういえば聞いた事が無いな。
「どんな話だったの?」
その内容は、俺がまだ知らない世界の現実を思い知らせるようなものだった。
「お腹を食べられて…痛くなかった?」
俺の言葉にアリシアはフッと笑って続けた。
「そうだな…痛くなかった、と言いたいところだが死ぬほど痛かったな。それに臓器をやられてしまってたからな、回復魔法を使わなければ死んでいた」
そんなにか…。てか痛み軽減みたいのはないのか?
「なんていう魔物にやられたの?」
「恐らくだが、デスラビットの希少種だろうな」
デスラビット? めちゃくちゃ弱そうだな。
アリシアは続けて説明してくれる。
「普通のデスラビットは群れで襲ってくる。これも脅威だがまあ何とかなる ただ希少種の方はな、早いんだ。とてつもなく。私も早すぎて目で追えなくて、情報として知っていたからデスラビットの希少種だろうと判断できた」
目で追えないくらい早いウサギ。どんだけ早かったんだ?
「私もあの時は気が緩んでいたのだろうな。いつもの装備を修繕に出していたから力が発揮できなかったところもある。まあ、言い訳かもしれないがな」
そういってアリシアは笑っていた。
「…やっぱり魔物って危ないよね?」
気になっていた事を聞いてみた。さっきのデスラビットは相当危険なんだろう。だが俺はまだすぐ近くの森のザコ魔物くらいしか見た事が無かった。
「ああ、一歩間違えたらそれは死につながる。自分が死ぬかもしれないし、仲間が死ぬかもしれない」
死ぬ…よな。アリシアは多分だが仲間を失った事があるんだろう。少しだけ苦々しい、哀愁が表情から感じられる。
今の俺の気の持ちようだと、魔法があっても前の世界の熊にも勝てないだろうな。
俺が弱気になったのに気付いたのか、アリシアは微笑んで顔を近づけてくる。
「お前は死なないよ。それに私も死なない。もし私が死ぬとしたら、それは私がお前を守って死ぬ時だ」
そして俺の額に口をつけて再び微笑みかけた。
アリシアの強さの程度は分からないが、俺よりも遥かに強いアリシアが死を彷徨った。
どこか無意識のうちに考えないようにしていた死の恐怖。
この世界は死が身近過ぎるのだろう。
俺は弱い。弱い俺をアリシアは守ってくれると言う。それなら甘えよう。俺は弱いのだから。
ただ、いつまでも弱いままではいられない。アリシアが俺を守ってくれると言うならば、アリシアは俺が守れるようになろう。
この世界に来てから俺は時計を見た事が無い。
子供だからと縛られるものが無いからそう思えるのだろうが、時間を気にせずに暮らすのは本当に気分が良い。
休日というのもまた以前と同じではない。
ゼノは雨が降っていたり、これから降ると判断した日には一日家にいる。
その時は矢を作ったり、狩りの道具の手入れをしたりして時間をつぶしている。
それらが終わるとリリアとイチャついてる事が多い。
俺がいるときは露骨な事はしていないが、気を使って自室に籠っていたりしているとたまにリリアの声が聞こえてくる。
どんな声かは想像に任せるが。
対してリリアには休みの日は無い。雨の日でも家事は出来るし誰かがやらなければならないので、毎日掃除に洗濯、料理と忙しくしている。
最近は俺もかなり手伝っているのでリリアが庭いじりや、ソファでくつろいでいる姿が増えたようだ。
という訳で、ゼノとリリアは早起きだ。日の出と同じくらいから行動を開始する。
リリアはゼノの為に朝食を作り、ゼノは狩りの準備をする。
ゼノが朝食を済ませるとリリアは水汲みなど、朝のルーティンを始める。
日がもう少し昇ったころに俺が起きてきてリリアと一緒に朝ご飯を食べて、本格的にリリアの家事がスタートする。
そして現在時刻については…もちろん不明だが、日の出前で、ゼノもリリアも起きてくる気配は無い。
そんな中で俺は何かに体を揺すられる感覚で目を覚ました。
このくらいの時間に目覚めた事はあるが起こされたことは無く、未発達な体が睡眠を求めているのがよく分かる。
眠すぎて目を開けるのも億劫だ。
小さく唸り声をあげながらベッドの上でごろごろとしていると、顔が柔らかいものにぶつかった。
「寝ぼけているのか?」
いたずらっぽい感じの耳に柔らかく、再び寝入ってしまいそうになる落ち着く声。
柔らかいものが何なのか調べるために手を伸ばし、触れる。
! なんだこれ凄い!
そして頭にわずかに走る衝撃。
「いてっ」
そこで目を開けた先にいたのは絶世の美女。
胸元の緩めな服に身を包み、ボタンの外れた所から覗く白い肌。
リリアが可愛いと形容されるならアリシアは美しい、だと常々思っていたが…。
なんて美しいのだろう。
俺はこの為に転生してきたのかもしれない。転生させてくれた人、何度目かのありがとう。
そこでやっと何故アリシアがここにいるのだろうというところまで頭が回ってくる。
俺があたふたしていると、アリシアが口を開く。
「お前も男なのだな そして女を見る目があるようだ」
アリシアが笑顔のまま立ち上がって、ろうそくに魔法で火をつける。
あ まほうだ ………思い出した。
昨夜の出来事を思い出して振り返る。
こんな状況で眠れた自分に素直に称賛を送るも、すぐになんて惜しい事をしたんだと苦い思いが湧き出てくる。
アリシアと寝られるのに寝てしまうなんて、とんだプラチナチケットを無駄にしてしまったようだ。
…まあでも、昨晩はアリシアの話とか俺の気持ちとか、いろいろおセンチな感じになってしまったからな。
初めてアリシアの内面的な思いを聞いた気がする。
それにいきなり手を出すような男は嫌われると2chでいってたからたぶん俺は間違ってない。
少し時間が経って整理がついてきた。
今日は修行当日。初日だ。
待ちに待った魔法の修行。
これからどんな魔法を教えてもらえるのかと思うとワクワクしてくる。
今日というこの日が、大魔法使いユラのはじめの一歩なのだ。
「まだ寝ぼけてるのか? 今から行くところがあるから早く着替えて支度するんだ」
振り返るとちょうどブーツのヒモを結び終えそうなアリシアの姿があった。
え…? お着替えイベントは…? …あれ?
おはようございます 世界一の愚か者です。
私はこの短時間で2度、死んでやっと釣り合うかと言えるような間違いを犯しました。
絶世の美女との一夜をふいにしてしまった事。
絶世の美女の着替えを見られなかった事です。
私は昔から考えすぎてしまう性格なのです。
小学校の遠足でバスの席で隣になったゆみちゃんだって、本当は嫌じゃなかっただろうにいやそうな顔をしながら というか泣きそうな顔をしながら俯いていたのだって多分フリなのです。クラスの皆の手前そうせざるを得なかったと分かっています。
いや、まじでしくじったなこれは…。
寝起きの時はまじで偶然だったのだが、あの手の感触は多分着けてなかった…と思う。
つまりさっさと思考を切り替えて次に進めば間違いなく頂を拝謁する事が出来たのだ。
もう立ち直れない。俺なんか何やってもダメなんだ。もう一回死んだほーー
「なんだユラ まだ眠いのか?」
「い、いいえ!」
「ん? そうか」
アリシアは首をかしげながら再び前を向いて歩きだした。
俺はあの後急いで着替えを済ませてアリシアに言われるがまま共に家から出て、近くの森とは反対の方向に向けて歩き出した。
昨日もらった杖は持っていかなくていいと言われた。
修行で使うんじゃないのか?
アリシアはどんどん進んでいく。
池の周りや森を少し入った辺りなら大人同伴でぶらぶらした事はあるが、ここまで家から離れた事は初めてだった。
4年間もずっとあそこで生活してきたのだから愛着はあるし、あそこが俺の帰る家だと心の底から感じるくらいには思い入れもある。
前世では実家、借家問わず半引きこもり生活だった俺が家から離れるというのは苦痛なものだった。単純に人が苦手だったのもあるだろうが。
しかし今そんな感情は無い。
迷いなく進むアリシアの歩みに、俺の内に不安や恐怖といった感情は無かった。
それから5分くらい経っただろうか。
目の前に少し小高くなっている丘のような場所があった。
家を出た時点では空はやや明るく、歩くくらいなら問題ない程度になっていた。
今はそれよりもかなり明るく、日の出が近い事がなんとなく分かった。
アリシアの目的地はその丘の頂上だったようで、そこに立って隣に並べと目で促してきた。
丘から立って下を見ると、2メートルも無いくらいの本当に低い丘。
ここで何をするんだろう?。
「アリシーー」
「もうすぐだ。向こうを見てみろ」
アリシアの視線の先の方を見てみると丁度日の出のタイミングだったようで、太陽が少しずつ姿を現してきているところだった。
前世では日の出をありがたがる風習があった。
元日とか、特定の場所とかで日の出を見てなにか力を得たり幸せになったりするのだろうか?
俺もやっとけば今頃東京の高層マンションでハーレムを築いていたに違いない。惜しい事をした。
「綺麗だろう」
アリシアが一言だけ、そう聞いてきた。
「うん」
綺麗なのは間違いない それは本当にそう思う。
「日の出と共にその光を体に浴びると体内の魔力が活性化するそうだ。何か感じるだろう?」
「う、うん」
た、確かに言われてみればそんな気がしないでもない。体内の魔力とか言われても良く分からないけど。
アリシアがいたずらっぽく笑って俺を見て言った。
「フッ 嘘をつくな」
え。
焦る。焦る俺。返しを間違えたか? 素直に何も感じないと答えるのが正解だったのか?
アリシアは続ける。
「魔法使いが修行の初日に日の出を浴びると大成する。魔力が増幅して強くなると言われている」
そうなのか。じゃあ俺大成するんですね?
「だが、これは嘘だ」
あ、嘘なんですか。じゃあ俺は大成しないんですね?
「私の師匠もこの言い伝えをやはり私にも言ってきてな。あの頃の私は本気で信じていて、後からよくからかわれたものだ」
アリシアの師匠か。どんな人なんだろう。
「全ての魔法使いがこうやって修行を、魔法使いとして生きていくと決めたその日を、こうして始めるんだ。朝日を浴びる事には何の意味も無い。意味は無いが、お前はこの瞬間、魔法使いになったんだ」
アリシアの言うようにこの儀式には、朝日を浴びるというこの行為には何の意味も無いのだろう。
この風習がいつ、誰によって始められたのかは分からない。本当の意味や目的が別にあるのかもしれない。
だが俺はアリシアの言葉を聞いて、アリシアの師匠の事を考えて、師匠から弟子へ そしてさらにその弟子へと長きにわたって受け継がれてきたものの重さとか、そして美しさを、心のどこかで感じた。
親が子を産み、育て、やがてその子が子を成し今があるように、魔法使いの師匠と弟子の強い絆のようなものに、俺は触れる事が出来たような気がした。
アリシアはどんな考えで俺をここへ連れてきたのだろうか。
魔法使いの伝統としてだけなのか、それとももっと違う意味があったのか。
たぶんそれを知る事も含めて修行なのだろう。
俺は今日、魔法使いになった。
きっと俺はこの日を、いつもよりも大きく感じられるアリシアの背中を忘れる事は無いだろう。