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「先輩? 生きてますか」
ドアを叩く音がしている。また莉子だった。うちの前であんなに大声を出して恥ずかしくないのかと呆れる。
「せんぱーい? 入場しますよー」
ドアが開く音。俺は仕方なく起き上がって、部屋の様子に目を見張った。見事に強盗でも入ったようなひどい惨状だったが、自分でやったのだと思い出した。
「うるさい帰れ。来るな。おい!」
「もう入ってますよ?」
再び笑顔で登場した、この色気のない女は、部屋を見るなり色をなくした。
「ちょ、何があったんですかこれ」
パソコンは机から落っこち、棚は倒れ、粉砕されたCDの破片が酒瓶やら空き缶やら弁当の空き箱やらと一緒に床に散らばっている。それを引きつった顔で眺め回す莉子。
「もしかして修羅場ってやつがここで演じられたんですか。あー、でもよく考えたら、先輩って痴情のもつれとか複雑な関係とかに全く縁がなさそう。うん」
「喧嘩売ってると理解していいか?」
「半分は誉め言葉です」
「半分は馬鹿にしていると」
「まあそうなります」
「お前もこのCDケースのようになりたくなかったら帰れ」
「一瞬ハードボイルドな映画とかに出てきそうな脅し文句だと思ったんですけど、CDケースじゃ迫力がちょっと……。それから私はMなので、そういうのむしろ歓迎です」
「いちいちうるせえ。俺を笑いに来たのかよ」
「心配で様子見に来たに決まってるじゃないですか。これ差し入れです」
莉子は真面目な顔になって、コンビニの袋を床に置いた。
「先輩、もう電音研やめたつもりなんですか。音楽で有名になるっていう野望は……」
「なれるなら俺だって藤井みたいになりたかった!」
俺は立ち上がって莉子に近づく。こいつを追い出すために。
「だけどもう無理なんだ! 才能がない自分を、自分で励ますなんて馬鹿みたいだ、くだらない」
「先輩の作る音はかっこいいですよ!」
「じゃあお前の耳が狂ってるんだろ。それ持って帰れよ」
「先輩、どうしたんですか。藤井さんが亡くなってから変ですよ」
「もう俺の前であいつの名前を言うな!」
莉子の肩に伸ばした手が、予想外に華奢で軽い体をあっけなくふっ飛ばし、倒してしまう。短い悲鳴。莉子が倒れたところには割れたCDの破片が落ちていて、そこに突いた手から血が流れ出す。
俺は驚いて一歩後ずさった。頭の霧が晴れて急速に冷静さが戻ってくる。決して触れてはいけないものに触れてしまった気がして後悔し、恐怖する。傷口を押さえる莉子の手が紅く染まっていく……。
俺は何も言えず何もできず、ただ呆然と立ち尽くしているばかりだった。
莉子がいなくなった部屋。黒ずんだ血痕だけがさっき起きたことは夢ではないと告げていた。
彼女はもう来ないだろう。俺は心底自分というやつが嫌いになった。
誰とも会わない日々が続いた。部屋は片付けないまま、一日中つけっぱなしのテレビを見るともなく見ていた。
なんとなく人恋しくなってケータイの電源を入れたある日の夜、綾乃さんからケータイに着信があった。初めてのことだった。俺と綾乃さんは藤井を介して繋がっていただけなので、アドレスも番号も形だけ交換はしたが使うことがなかった。俺は少し嬉しくなり、しかし喜んでいる自分を軽蔑し、結局着信を無視した。最近、コンビニの店員以外としゃべったことがなかったから、いきなり電話に出てもうまく話せる自信がなかった。それに何を話せばいいのかも分からない。
その日から着信は何度かあり、全て無視するとメールに変わった。俺はそれも読まずに放置した。しかし向こうも諦めが悪いらしく、しつこく電話やらメールやらが届くのでやっぱり電源をオフにした。
数日は静かだったが、昼ごろ、またもやドアをノックする音が響いた。この世の中は何としてでも俺を一人にはさせてくれないらしい。莉子の血がついたCDの破片は未だに床の上に放置されていた。その黒ずんだ切っ先を見て、しぶしぶ立ち上がりドアのほうに向かった。
「この前は、すまん」
かすれた声で呼びかけながら、ドアロックに手をかける。
が、全く予想外の声が返ってきて、手が固まる。
「コウタ! いるんだったら早く開けなさい」
母親だった。
「な、なんでいるんだよ!?」
「なんでじゃないでしょ。さんざん電話もメールもしたのに返事しないから、死んでるかと思ったじゃない」
綾乃さんのものに混じって、母親からの着信やメールがわんさか来ていたことは知っていたが、見ないようにしていた。
「早く開けなさい!」
開けるわけにはいかない。この部屋の惨状を見られたら、どうなることか。
俺はドア越しに声を荒らげる。
「充電が切れてただけだっての。何も問題ないから帰ってくれ!」
「あんたちゃんと卒業できるんでしょうね? 単位は足りてるの? 卒業研究はやってるの? 就職は? 将来設計してるの? 音楽で食べていくなんて甘くないのよ!」
全て痛いところを突いている。精神にクリティカルヒット。最近の講義は全く出席していないので単位は全滅だろう。研究もさっぱり進んでいない。卒業不可能である。就活もしていない。
「再来年には卒業する」
「再来年? 来年の三月のはずでしょ? あんたの生活費と授業料、誰が払うと思ってるの? もう大人なんだから自立して生活していけるようにならなきゃダメでしょ」
「分かったから! バイトしながら自分で卒業すればいいんだろ! ちゃんと卒業して就活もするから今日は帰ってくれ」
「本当に分かってるの? ちゃんと毎月お父さんに報告しなさいよ? 卒業が延びたぶんは自分で責任取ること。ちゃんと将来設計すること。そうしないと仕送りもやめにするからね」
「分かった分かった!」
しばらく耳を澄ましたが、母親は完全に退場なさったらしい。
俺は今やほとんど使われなくなっていたカバンをあさり、仕送りが振り込まれる預金通帳を見つけ出した。
近所の郵便局にダッシュして記帳すると、あと二ヶ月どうにか生きられるかというカネしか残っていなかった。




