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ヘルメン  作者: 吉田定理
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 藤井の葬式からしばらくの間、俺は現実感のない日々を過ごした。ついこの間まで顔を合わせていた講義で、一人ぽつんと最後尾に座り、流れていく時間を他人の人生のように傍観しているだけだった。月曜から金曜まで、この一週間は一度も大学で藤井と顔を合わせていない。その事実が信じがたく、俺だけが薄く透明な膜で周囲から隔てられているかのように感じた。

 二週間ほど経ったある日、ふと講義中に藤井からの頼まれごとを思い出した。うちに帰ってきてパソコンを起動する。チャットの履歴を遡るとそれは見つかった。

『新曲のメロディがだいたいできたから、感想聞かせて』

 ときどき藤井は俺に曲の感想やら意見やらを求めてきた。藤井の名がネット上で有名になってきてからは、俺はことさら適当で投げやりな返事ばかり返していた。感じたこととむしろ逆を言って、あいつを落胆させたり、調子に乗せたりしたこともあった。だけどあいつはそんなことに気づかないどころが、どんどん次を求めてくる。「西村の分析はすごい」と言って。

 確かデータだけは受け取ったはずだと思い、ダウンロードフォルダの中を探していく。幸いデータは消去されずに残っていた。俺はそれを初めて再生した。

 本当に簡単なメロディーが何種類か流れた。恐らくAメロ、Bメロ、サビの骨格みたいなものだ。短いなりにも所々で弦楽器の音やピアノや太鼓が加わったりして、藤井らしさが感じられる面白いメロディだった。今はまだメモ程度のものであるこれにさらなる肉付けしていくと人気楽曲が生まれるのだ。その肉付けこそが肝心なのだが。

 もう感想も意見も伝えることはできないのだと思い、後ろめたさのようなものを感じながらフォルダを閉じた。パソコンをスリープさせようとして、しかし俺は手を止めた。

 待て。本当にそうなのか。何か伝えるべき相手は存在しないのか。

 チャットとデータは俺と藤井だけの間の、ごく個人的なやり取りだ。藤井が製作過程で自分の曲について彼女の綾乃さんとどれくらい情報を共有しているか、俺は知らない。まあ、彼女はもともと藤井の楽曲のファンだから、かなり早い段階でも藤井が聞かせているということは充分ありうる。だが万が一、綾乃さんがこの未発表曲の存在を知らなかったら。彼女には自分の彼氏が残した最後の曲を聞く権利があるのではないか。

 綾乃さんはチャットにはログインしていない。なので俺はSNSのほうでメッセージを送ることにした。

『藤井が書いていた新曲、まだ未完成だったとは思いますが聴きましたか』

 数十分後、返信が届いた。

『話しか聞いていません。未完成の曲を誰かに聴かせるのは恥ずかしいって言ってましたから』

 未熟な処女作をいきなり動画サイトに投稿した男が、そんなことを恥ずかしがっていたとは、どう考えても想像できなかった。しかし綾乃さんでさえこの曲を聴いたことがないのなら、俺がそういう藤井を知らなかっただけのことだろう。

 両親が藤井のパソコンからデータを漁っているなんてことは考えにくい。あいつはしっかりパスワードもかけている。彼女でさえこの曲を聞いたことはない。ならば恐らく俺が持っているこの製作途中の曲データは、俺のほかには誰も内容を知らないということになる。

 そして綾乃さんにはこのデータを受け取る権利があるように思える。藤井だって、いくら未完成の状態で聴かれるのが恥ずかしいと言ったって、これくらいは許してくれるだろう。

『俺の手元に、あいつが最後に作っていた曲のデータがあります。綾乃さんにこれを送っても、あいつは怒らないと思う』

 データを添付してメッセージを送ろうとして、送信ボタンをクリックする手が一瞬止まった。プロ寸前の男が書いた、世界中の誰も知らない曲。俺しか知らない曲。これを使えば、もしかしたら――。

 馬鹿、それじゃ盗作だ。クリエイターの風上にも置けない。今は藤井の友人としての義務を果たそう。思い直した俺はデータを送信した。

 また時間をあけて返信が来る。

『わざわざ教えてくれてありがとう。でも私にはまだ、聴けそうにないです。すみません』

 ちょっと拍子抜けしたが、そうか、そうだよな、と不躾なメッセージを送ってしまったことを謝った。俺はデータの転送をキャンセルした。綾乃さんは、『気にしないで。気持ちがもっと落ち着いたら聞かせてもらいます』と優しく答えた。

 俺は役目が終わってしまった役者のように急に所在無くなり、夕方になっても電気も点けずに座っていた。暗い部屋で簡単に夕食を済ませ、ふと思いついていつか藤井が言っていたウェブサイトを訪れた。

「見てくれよ西村。俺の記事が載ってる!」

 そう言って藤井が教えてくれたものだが、俺はしっかりと中身を読んでいなかった。それを最後まで読み終える。発売予定のアルバムに関する情報。タイトルは未定。十曲ほど発表済みの曲の名前が並び、残りの三曲はやはり未定。この『未定』が書き換わることはもうないと俺は知っている。

 ネットでの知名度が知名度なので藤井本人に関する情報のまとめサイトも作られていた。しかしそこでは藤井の死は語られていない。藤井の早すぎる永眠が遺族によって世間、というかファンたちに知らされたのは、さらにその二週間後のことだった。

 その日から動画サイトの藤井の投稿作品には、冥福を祈る多数のコメントが寄せられた。藤井の残した作品は、いつまでもファンたちに愛され続けるのだろうか。

「もし、死んだのが俺だったら」

 そう思うと辛くなった。俺の死は家族や友人には多少の影響を与えるかもしれないが、その対象はごく狭い範囲の人間たちに限られているだろう。一方、藤井の死は何千、何万という人々に影響を与えているように思えた。

 俺にはファンなど一人もいない。死後に何も残るものがない。このまま死んでも、すぐに世界から忘れ去られる……。

 急に湧き上がってきた危機感を振り払うように、俺はパソコンをシャットダウンした。何を焦っているのか。

 激しい雨音がしていることに気づいた。降り始めたのがいつか分からない。締め切ったカーテンの向こう側は、相当降っているようだ。

 ベッドの上に身を横たえる。だいぶ冷え込んでいる。布団を引き寄せた。

 夢を見た。俺の作った楽曲がネット上の動画投稿サイトで話題になり、新星の天才クリエイターとして注目を集める。楽曲がカラオケのランキングに登場し、レコード会社からメジャーデビューの話が来る。CMやアニメ主題歌のオファーが来る。何十万、何百万のファンが俺の作る新作を今か今かと待っている。俺は同じように動画投稿サイトを通じて知り合ったクリエイターたちとコラボレーションし、ライブを開く。そこで俺の大ファンだという女性と知り合う。二人は音楽について語り合ううち、恋に落ち、付き合い始める……。

 藤井と綾乃さんの顔が浮かぶと同時に、夢はぷつりと途切れた。朝だった。

 シャワーを浴び、着替え、大学に向かった。ポケットに手を入れ、裸の銀杏並木を独り歩く。以前より少しつまらない一日が、また始まる。

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