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藤井に彼女ができたのは三年の後期、十一月のことだった。最初は、ネットで知り合った女子に会うので付いてきてほしいとお願いされた。聞けば動画投稿サイトを通じて知り合った藤井の楽曲のファンの一人がわざわざ会いに来るらしい。すでに何度もメールや電話のやり取りをしていた。
「日曜に会うことになったんだ。とにかく待ち合わせのところまででいいから来てくれよ」
メールや電話では普通にしゃべることができているらしいが、直接顔を合わせるのは初めて。お互い顔をまだ知らないのだ。顔を知ったとたん、これまでの関係が崩れてしまわないかと心配しているらしい。
「コンタクトにしたほうがいいと思う? でも向こうは俺がメガネって知ってるし、急に変えたら露骨か? 美容院は行くべきだよな?」
藤井に単刀直入に聞いたところ、会ったことがないその人のことが好きらしい。というか聞けば聞くほど恋人っぽい。ほぼ毎日メールをして週に四度も電話をしている。お相手は同じ県内、電車で三十分ほどのところに住んでいる社会人だとか。
「相手のために格好良くなろうとすることの何が悪いんだ。藤井が思ってるより変じゃないぞ。むしろ結構いけてるじゃないか」
藤井は美容院に行ったりちょっといい服も買ったりした上、完璧な行動計画を立ててデートに臨んだ。そしてめでたく綾乃さんと正式なお付き合いを始めた。相変わらず毎日メールのやり取りを欠かさないラブラブっぷり。おはようとおやすみは必須らしく、綾乃さんが忘れて寝れば藤井が怒り、藤井がおはようメールをせずに呑気に講義を受けていれば綾乃さんが怒る。時に、今日のはハートマークが付いてなかったとかなんとかで喧嘩をすることもあるという。なんとも律儀なカップルだった。
藤井に訪れた幸運はこれだけに留まらなかった。
十二月。藤井の楽曲がカラオケに導入された。藤井はこれを飛び上がって喜び、早速カラオケに行こうと言い出した。土曜日から泊まりで綾乃さんが来るとかで、俺までカラオケに駆り出された。
俺が綾乃さんと会ったのはこのときが初めてである。以降も何度かネットで通話ソフトを使ってしゃべったり、チャットをしたり、SNSでやり取りする機会はあったが、藤井がいる間に会うことができたのはこれが最初で最後だった。
綾乃さんは藤井にはもったいないくらいに、お淑やかでしっかりした女性だった。お仕事も公務員だとかで、それなりの給料をもらっている。今時めずらしく長い黒髪で、小ぶりで上品なイヤリングをしていた。服装もモノクロで、地味といえば地味だが、黒のカーディガンは落ち着いた大人の女性を思わせる。逆にグレーのスカートはひらひらした薄い生地を何枚も重ねたもので、遊び心を感じさせた。金色の蝶をあしらったヒールもおしゃれだと思った。
「藤井くんがお世話になってます」
初めて会ったときの綾乃さんの第一声はそれだったと記憶している。
音楽の趣味はそれほど違わなかった。綾乃さんのほうが俺たちより三つ年上らしかったが、綾乃さんが歌う曲を俺はだいたい知っていたし、藤井の十八番を綾乃さんも一緒になって歌っていた。ただ藤井の曲をみんなで歌ったときは、複雑な気分だった。口では賛辞の言葉を送ってテンションを上げていても、心の芯までは楽しめていないのが自覚できていた。ぼんやりとした疎外感は何も綾乃さんがいるからではなかった。
そして訪れた新年。二度あることは三度ある、とばかりに再び藤井に幸運が訪れた。
「アルバム出すことになりそうなんだ」
講義室で顔を合わせた藤井は開口一番に熱のこもった息を吐いた。
「ジョークじゃないぞ」
俺は自分でも何と言ったか覚えていないが、たぶん「おめでとう」とか「よかったな」とかつまらないことを言ったのだと思う。藤井はこれからアルバム作成のために、今まで投稿してきた楽曲を手直しし、さらに新曲も書き起こすらしい。詳しいことは音楽会社の人と直接会って決めるという。
俺はその日うちに帰り、パソコンを点け、久々に作曲関連のデータが詰まっているフォルダを開いた。未完成の、決して表に出ることのない曲データが並んでいる。ヘッドフォンをつける。再生する。チープな音楽が流れる。次の曲。再生。次の曲。再生。俺はデリートキーを叩いた。パソコンが削除するかどうかと聞いてくる。『はい』の上にカーソルを移動させ、マウスを強く握り、俺は唇を噛んだ。しばらくそうしていて、だけど削除できずにパソコンをシャットダウンし、俺は眠った。
「西村、新曲のメロディがだいたい出来たんだ。ちょっと聞いてくれよ」
「オーケー。データくれ」
俺には作れない、思いつかないメロディーだ。
「タイトル考えてくれないか? アイデアだけでもいいから」
「そうだな、こんなのどうだ?」
「いい! めっちゃいい! 西村天才!」
俺なんかが考えるより、藤井が考えたほうがいい。ネットで人気の超新星なんだろ? それか綾乃さんに考えてもらったらどうだ?
「新曲が一つ出来たんだ。ボーカル、ちょっと弱いかな?」
「そんなことないと思うぞ。これくらいがちょうどいい」
お前が思ったようにすればいいじゃねーか。
デビューするのは俺じゃない。藤井だ。
俺に聞くな。
俺は相談に乗ることに次第に堪えられなくなった。ある日、これまでに創作した曲データをフォルダごとゴミ箱に捨てた。机の上で右手を数センチ動かしただけで、何の重みも感じることなく、何の感傷も蘇ることなく、それはゴミ箱に収まった。珍しくウイスキーを飲んだ。頭が痛くなって夕方から翌朝まで寝ていた。
藤井のデビューアルバムは未だに完成していない。もう一生完成することはない。
「おい、藤井? おい、聞いてるのか? 聞こえてるか藤井!」
綾乃さんは、平日は仕事をしている。無理して抜けてきたんだろう。髪が乱れて、息も荒かった。小雨が降っていたが、傘も差していなかった。
「藤井くん。藤井くん! なんで? ねえ、藤井くん……」
ご両親の哀惜の声に耐えられず、綾乃さんの化粧が落ちてくしゃくしゃになった顔も見ていられず、俺は病室を出た。ロビーで椅子に座り、何をするでもなくうなだれていた。頭上から降ってくる他人事のようなテレビの音が、無意味なノイズとなって脳を満たす。
自転車での帰宅途中。振り出した雨に気持ちが急いたのか。見通しの悪い交差点で、一時停止をせずに飛び出した。
藤井はこの世にはもういない。