The Sanguine Shepherd.
いよいよ今日はバルテリが故郷ソンダーブロ州からやってくる日だ。ベルッタとも馴染みの男がそばにいてくれる。それを考えるだけで嬉しくなり、今朝は目覚めがよかった。
目覚めだけは。
身支度を済ませて出ようとしたときに異変があった。扉が開かない。例の如く閉じ込められたか。
肺の中の空気を吐き切って、息を吸う。少しイライラが収まった。まだフツフツと沸いているけれど。
身を翻して窓に向かう。ベランダの下には誰もいない。
隅の方には災害時の緊急脱出用に縄梯子が備え付けられている。
縄梯子を下ろして、手すりから身を乗り出した。
とん、とん、とやや不安定な梯子を降りていき、あと数段で地上だ、というとき。
シュッと影が走ったのを見て、その速さから大狼のブレイズかと見間違えた。しかし白い狼とは似ても似つかない人間の男が、ベルッタの足首を掴んでいる。
「地上に降りて、両手を壁につけるんだ」
「ちょっと」
「従えないのならこの場で捕縛する」
不審者認定された。とりあえず言うことを聞いて、真っ当な人間だと信じてもらう他ない。
「足を放して。降りられないわ」
するりと拘束が解かれる。降りれば壁に向かって手をついて、男に背中を見せている状態だ。油断しているのなら捻り倒せるが、警備兵と揉め事を起こすのは得策ではない。
首を捻り横目で姿を確認する。警備兵の黒い制服、黒い髪に黒い瞳。対比でやたら肌が白く見える。やや太めの眉は野性的、鼻筋は通っていて薄く繊細そうな唇は無感情で硬そう。腰のあたりに剣の柄があった。刃物を持ち出す様子はないが、現段階でベルッタを敵と見做している。
「武器になるものを所持していれば放棄しろ」
「なにも持ってないわよ」
膨らんだ袖はいいとしても、スカートの上から太ももをぽんと触られて、思わず叫ぶ。
「なにするのよ! 変態!」
同時に手を振りかぶっていた。腕は空振りした上に掴まれ、そのまま地面へと引き倒される。背中に硬い地面を感じたときには、両手は頭上でまとめ上げられ、男が腹に馬乗りになっていた。感情的になったとはいえ、こんな簡単にいなされるなんて。
握力や体重で対抗されたら敵わない。ベルッタに反撃の隙を見せることもなさそうだ。
完敗だ。身動きを封じられているが、封じる以上のことをする雰囲気にはない。それで怖い気はしなかった。
男は眉一つ動かさず、淡々と告げる。
「俺は警備の者だ。怪しい人間を捕獲するのが仕事だからな、身体検査と職務質問は義務だ。抵抗するなら怪我をさせることもやむを得ない」
正統な王城仕えのお仕着せこそ着ているが、ベルッタは身分を証明するものを携帯していなかった。
この男こそ真正の警備なのか怪しい。襟の徽章が光るのでおそらくは。しかし王城の使用人など多すぎていちいち顔を覚えていない。警備兵であればかつて王子妃候補だったベルッタの顔を知っていて当然だが、正規の出入り口からではなくいかにも犯行後に逃走するように不審な行動をとったのは失策だったか。
「わたしはロヴィーサの侍女よ、怪しくないわ」
「仕える主人の名を呼び捨てにするか。先ほどは出入り口ではないところからこそ泥のように脱出していたな」
ロヴィーサとの仲を深めて普段から敬称なしで呼び合っていたことが仇となった。
男は顔を近づけて、じっくりベルッタのかたちを覚えるために観察している。異様なほど長く。
化粧で誤魔化していないか、作り物ではないか探っているのか。薄く粉をはたいているだけだ、拭ったとしてもそう変わらない。
「……名前は」
「ベルッタ・アーティサーリ。事情は説明するわ」
男はしばし記憶を探っている風だった。
「事情は聞くが。……ソンダーブロ州のアーティサーリ家か」
「そうよ。もう暴れたりしないから、手を離してくださらない?」
「悪いがまだ、」
言葉を遮って、何かに気づいたベルッタは片頬を地面につけながらも男とは全くの別方向へと叫んだ。
「ーー本気でやっちゃダメ!」
黒い男は襲いくるものに対抗して咄嗟に腕を盾にして身を守った。衝撃に吹き飛ばされて受け身を取りながらも無様に転がりはしなかった。
防御をすり抜けて二撃入れられた。拳を頬に、蹴りを横腹に受け、土煙の向こうの攻撃の主を睨む。油断はしていなかった。なのに気配もなにも察知できなかったとは。
「お姫さん! 間に合ったか?!」
熊のようにでかい筋肉隆々の男が、娘をひょいと片腕に抱きかかえる。ベルッタもその首に腕を回してすがりついた。女性として標準的な体型だが、この男と比べると子供にすら見える。
「ありがとうバルテリ。ちゃんと手加減した? あなた強すぎるんだから気をつけないと」
下手したらちょっとつついただけで相手の命まで取りかねない。対象はベルッタより大きくても、バルテリからすれは華奢な体型をしている。だが大事な姫とも慕うベルッタを地面に押さえつけていた狼藉者に、目にものを見せなくては気が済まなかった。
「自分を襲った野郎の心配なんざしちゃいけねぇぜ」
「なにもされてないわ。わたしも悪かったの」
黒づくめの男が反論する。
「彼女が不審だったから逃げないようにして質問していただけだ」
片頬は赤くなり、隠れた横腹も痛みだけでは済まないだろう。
「名乗りな。オレはバルテリ・カルトゥネン。
こちらのベルッタ・アーティサーリさまの護衛を務める」
「王城警備のクーロ・ルートアだ。
ご挨拶をどうも、紅血犬殿」
言葉ではない挨拶があったことも含めてそう皮肉を言った。
ソンダーブロ州で鍛えられた軍人たちは荒くれ者が多く、それを統率する者も血の気が多いために外からはギャングと呼ばれることもある。その代表がバルテリであり、軍隊を御する血濡れた頭として、戦うことを知る者の間では物騒な二つ名がつけられていた。
「信用するか?」
負けを認めると同時に、頷いた。
「あなたが宿将であることは身をもって理解した。ソンダーブロに一将ありとはバルテリ殿のことだろう」
「さぁな。オレはお姫さんのオヤジに勝てたことねぇから」
「当たり前じゃない、父様は最強よ。それからバルテリ、姫はやめて。ここだと他の人を混乱させるわ」
この王城の中には、本物の姫がいるのだから。いくらベルッタが故郷ソンダーブロの姫と敬われていても。
「んじゃあ、……『お嬢』あたりか?」
それならいいわ、とベルッタはバルテリの肩を叩く。腕から降ろして、のサインだ。
「警備兵さん。身元がはっきりしたところで、わたしの言い分を聞いてくれる?」
「お聞かせ願おう」
The Sanguine Shepherd.
(セングイン・シェパード/紅血犬)
遅くなりましたがようやくヒーロー出せました(わふわふ)。
あらすじに追いつきましたので、次からは一日一話投稿にします。