Come here, Pooch!
鬱憤が溜まっている。
たった一人の友人ロヴィーサと交流を図ろうとするたびに、ウルヤスが殿下が王子がそこに入り浸っているのだ。
おかげでベルッタは王都に飽いていた。
それでも愛されている友人を見ると、幸せを分けてもらったようであたたかい気持ちになる。数ヶ月もしたら落ち着くだろうし、といまは譲ってあげている。
「イッカ、外に行くわ」
「はい、お嬢」
清浄な空気で心を癒そうと自然を求めて王城の裏の奥までやってきた。手入れがされている庭を過ぎて、樹木が乱立している場所へ。付き従うイッカも息苦しかったのか、軍服の襟ぐりを外して緩めている。
敷物もなく腰を下ろしたので従者は焦った。
「お嬢、せめて俺の上着を使ってください」
「いいの。緑を感じたいのだから好きにさせて」
ぷいと顔を向けた先に、木々の間の深い暗がりの中、二つの光がきらめいた。あれは目だ、とベルッタは地面に手をつき体を斜めにしよく観察した。
「いらっしゃい」
片手を伸ばすと、その生き物はのっそり歩いてきた。四足歩行で、人を恐れない。ベルッタより二回りは大きかった。尖った耳と牙を持つ長い口、全体は泥まみれで、乾いた毛が束になって固まっている。
それでも黄金の色をした目は人を圧倒させる力強さがあり、見つめていると別世界に連れていかれそうな不思議さを持っていた。
「きれいな目をしてるわ。狼ね?」
ベルッタを前にして座った。
「どこで遊んでたのかしら。水浴びしたいでしょう? わたしの部屋でお風呂に入れてあげる」
「お嬢……、こいつの面倒見るんですか」
「ええそうよ。悪いけどタオルを濡らして持ってきてくれない?」
イッカはひとっ走りしてきた。濡れタオルを受け取ると、ベルッタは建物の中に入る前に狼の足の裏を拭いてやる。狼はじっとして従った。
「足跡は残したら掃除が大変だもの。でもあなた、とっても賢いわ」
部屋に着く前にカイヤに捕まった。
「ベルッタ、なにをしているの! そんな汚らわしい生き物を王城に入れるだなんて、誰の許可を得てらして?!」
「王城の敷地内にいた子よ。K-9じゃないかしら。許可なんて要らないでしょう」
「 ”Canine” ……イヌ科?」
法執行機関に従事する調教された犬のことをK-9と呼ぶ。 ”Canine” からもじった俗称だが、カイヤは知らないらしい。他国での通称だから無理もないが。妃候補だったのだから外国語にも堪能かと思ったが、さすがに偏った知識すぎた。
「だから、警備の子じゃないかってこと。汚れているからこれから洗うの。” Come here, Pooch!”」
面白がって即興のあだ名を呼ぶと、狼は気に入らなかったらしく鼻を鳴らした。
通り過ぎてもぎゃいぎゃいカイヤは言っているが無視をする。触りたくもないのか大げさに後ずさって、近寄ることはしなかった。都合がいい。
「これ大丈夫なんですか、お嬢」
「わたしの行動が問題になって軟禁されるのでも、父様が助けにきてくれるきっかけになるわ」
そんなのは強がりだけれども。自由時間に不憫な動物の世話をしたくらいで咎められるなんて思えない。噛みつく前兆も皆無だし、言葉を理解するようにベルッタに従う、こんないい子をどうして処分できるだろう。
ベルッタは腕まくりをして狼を隅々まで泡立てて洗った。大人しくしてくれたおかげで気持ちがいいほどみるみる泥は落ちて、白い毛皮に変わっていく。ノミも寄生していないので安心した。タオルで水分を吸収しても、まだしっとりと濡れている。
「風に当たれば早く乾くでしょう。外まで競争よ!」
卑怯にもベルッタは先行して走り出した。部屋から出て廊下を抜けてまた裏庭を目指す。部屋の扉を潜った時点で狼は彼女を追い抜いていた。さすがに野生動物に勝てるとは思っていなかったものの、狼の速さは想像をはるかに超えた。
毛も乾かしてみると、真珠のようなまろやかな七色の輝きさえある。
思い切り走れば鬱憤も晴れた。芝生の上に座ると、狼も隣に並ぶ。
「ほら、気分もすっきりしたでしょう。あなた、本当の名前はなんというの?」
答える術はないため、黙っている。
「ポチじゃないのはたしかね」
白い狼は首を力強く縦に振った。
「なら、わたしがつけてもいいかしら? “Blaze” っていうのはどう?」
瞳の色もさながら、助走もなしにカッと燃え立つような駆け出しと、そのまま光のような速さから思いついた。
今度はお気に召したのか、どことなく閉じた口の端が上がってにんまりしているように見える。
「いい? ではブレイズと呼ぶわね。わたしはベルッタよ、よろしくね。どう、お腹は空いてる? もうすぐ夕ご飯の時間だわ」
洗っている間に確かめた、体はしっかり肉もついていて元気なので、食べ物に困ってはなさそうだった。ブレイズは要らない、とでもいうように否定した。
「食べる当てがあるのね?」
わう、と短く鳴く。
「そう。よかったわ。もしかしたらどこかに飼い主がいるのかしら」
首輪やタグ、所有を表すものは身につけていない。誰かのものでなければいい、とベルッタは願った。
「またわたしに会いに来てくれる? 気が向いたらでいいの。遊んでくれると嬉しいわ」
ブレイズは流れてもいない涙を拭うように、ベルッタの頬をぺろりと舐めた。ふわふわの首に顔を埋めると、先ほど使った石鹸の香りがした。狼のぬくもりはベルッタを癒し、ほんとうに涙が出そうになった。
故郷に帰る目処が立たない旅行というのは初めてで、自覚している以上に参っていたらしい。王都までついてきてくれたイッカはどちらかというと身内だが、親しいわけではない。せっかく友人になれたロヴィーサは、王子と親しくなるのに時間をとられている。それを邪魔するつもりはない。むしろ自分の身の振り方もあり応援しているほどだ。
誰にも寂しいと言えず、ぐりぐりと毛皮に顔を押し付けた。
Come here, Pooch!
(おいで、ポチ!)