なんで私は
その日の夜。
私は自宅のソファーに寝そべりながら、詠梨ちゃんから押し付けられた落語名作選に目を通していました。
思ったより文章の量が多くて、学校の休み時間で読みきることは流石に出来なかったのです。
とはいえ嫌々ながらというわけでもなく、結構楽しんで読めました。
落語ってあまり興味なかったですけれど、ちゃんと読むと普通に面白いですね。
頭山。
とある男がサクランボの種を飲み込んでしまったところ、頭から大きな桜の木が生えてきたという出だしで始まるトンチキなお話。
花見の仇討ち。
江戸っ子四人組がお花見の席で仇討ちの芝居をして他の客をびっくりさせようとしていたら、演技中に本物の侍が助太刀に乱入してきてさあ大変、というお話。
鼻捻じ。
自分の庭の桜の枝を隣家の住人に折られた家主が仕返しをするお話。
いやはや。
桜というテーマ一つでいろんな落語があるんですねえ。
どれもこれもオチが洒落ています。
それはそれとして。
桜と併せて死体が出てくる落語は、もらった本には載っていませんでした。
というか、落語由来の暗号というアプローチは本当に合っているんですかね。
それだと本業落語家の誰かがとっくに解いている気がするのですけれど。
そもそも暗号だとしたら、それは誰に向けたモノなのでしょう。
残された家族に向けたメッセージなのか。
あるいは不特定多数に向けた挑戦のつもりなのか。
それによっては解読の難易度も変わってきそうです。
前者ならば優しめに、後者ならば難しめに作られているのでしょう。
だけれど詠梨ちゃんの話では、家族では解けなかったご様子。
となると、後者になってしまいそうなわけで。
だとしたら、私なんかが解けるわけないですよねえ。
そもそも暗号を推理するのに必要な情報が出揃っているかどうかすらよく分からないじゃないですか。
昔のこと過ぎて、正確な情報を今さら入手するのも不可能に近いですしね。
ロジックを積み上げて論理的に推理を組み立てていくのは、私なんかでは到底無理だと言わざるをえません。
現にここ数日色々と考えてみても、なにも浮かばなかったのですから。
ああ。
なんといいますか。
「……考えるだけ無駄、ですよねえ」
はああ、と気持ちが脱力していくのを感じました。
やる気が萎えてくるのが分かります。
そもそもなんで私はこんなに必死に頭を悩ましているんでしょうか。
なんのために。
クラスのみんなは七不思議に対する恐怖を早くも過去のものにしつつあります。
だから教師としての私は、この件から手を引いても問題ないはずです。
失踪した落語家が残したメモの謎なんて、私には関係ないはずです。
なのに、なんで私は。
なんのために。
一度気になりかけた謎をそのまま放置するというのが性に合わないというのもあるのですが。
謎を明らかにして、すっきりしたいというのもあるのですが。
やはり一番は、詠梨ちゃんがこの件にこだわっているからなのでしょうね。
きっと私は、彼女が納得いく答えを見つけるのを応援したいんです。
はじめて自分が担当を受け持ったクラスの、大切な生徒だから。
あるいはひょっとしたら。
いや、ひょっとしなくても。
私は詠梨ちゃんに対して、個人的に肩入れしているのかもしれません。
自分が思っている以上に。
なんででしたっけ。
詠梨ちゃんが失踪事件のことを知ったあの日の、あの悲しみに包まれた顔を見てしまったから?
詠梨ちゃんがクラス全体を引っ張って学級新聞製作を進めていた様子を見て、好ましく思っていたから?
いや、そうじゃありませんね。
普段は基本的に不遜で生意気な子だからすっかり忘れていましたが。
そういえば私は、あの子にちょっとだけ心を救われたことがあったのでした。
救われたといっても、そんなに大げさな話でもないのですけれど。
あの時の事は、今でも覚えています。




