011 『妖精の足跡』
王子は多少混乱していた。
家庭教師と手を繋ぎながら、庭を歩いている。
自分はいったい何をしているのだろう?
幼い子供のようだ。
実際。
自分はこの家庭教師から幼子の扱いを受けているのではないだろうか?
人と手を繋いだのは何年ぶりだろう?
乳母の手であったか?
それとも王妃である母の手であったか?
思い出すことが出来ない。
それ程に遠い記憶。曖昧な記憶
朝陽は眩しいくらいで、木々はどこまでも青い。
母は自分を産んだとき、まだ十六歳だった。
今もまだ三十三歳と若い。
一言で言うなら、子供のような人だと思う。
王である父に従順で、自ら教育係に注文を付けるような事はしない。
母という実感もあまりなかったのではないかと思う。
貴族のお嬢様で、物心ついた時は既に王太子の婚約者。
子を産むのは王太子妃の義務。
義務を日々こなして行く。
それが妃の役目。
子を育てるのは妃の役目ではない。
子を次々と成す事が役目。
その為に母乳すらあげない。
そんなことが当たり前の場所。
自分がいた場所はそういう所。
「ルーイ様、この蕾を見て下さいな」
家庭教師の手には薄い紫色の蕾があった。
「風の妖精の落とし物ですよ?」
「妖精の落とし物?」
王子は覗き込む。
普通の蕾にしか見えない。
「ほら、ここです。ここ」
蕾から紫色の雫が一滴零れると、明滅と共に霧散した。
蕾を見れば、花弁が開いて行く。
「これは?」
聖女の力?
花の発育を促進したのか?
時の魔法に良く似ている。
空間を分離して時を急速に進める事が出来るという事か……。
「一度でも妖精が足を止めた花弁には、光の力が宿っているのですよ」
「そうなのか」
「ですからこんな風に小さな力を加えてあげると、最後の力が結晶化して花に宿るのです」
まるで、小さな光の虹が一瞬だけ出来たような現象だった。
だから聖女は七色の髪をした肖像画が多いのかも知れない。
聖なる光を操る人間。
戦乱の多き時、天災が続くとき、異世界から我が世界にもたらされると言われている伝説の女神。
目の前にいる家庭教師が聖女。
力を目の当たりにしても、まだ少し信じられない。
それくらい目の前にいる少女は根っからの家庭教師だった。
天職を間違えたとしか思えない。
「妖精の足跡が見えるのか?」
「薄らとですが」
「………凄い視力だな」
家庭教師であるアリシアは声を立てて笑った。
「ええ。目は良いのですよ」
「伊達眼鏡か?」
「ええ。伊達眼鏡です」
「変装しているのか?」
「ええ。変装しないと立場的にマズいので」
「聖女も大変なのだな」
「ええ。王子様も大変ですけどね」
そう言って家庭教師は肩を竦めて笑う。
朝の光が眩しくて。
庭の空気が澄んでいて。
人の笑い声が心地良く耳元に響く。
随分とゆっくりと時間が流れる。
もう左腕も痺れない。
聖女の光が体の中に入り込んでから、吐き気も、麻痺も消えてしまった。
それがどんなに素晴らしい事なのか。
昨日から幾度も幾度も実感していた。
目の前の家庭教師と名乗る聖女は。
教師だけど聖女で。
聖女だけど教師でいたい人間なのだろう。
アリシアが渡してくれた花を受け取りながら、僅かに香る匂いを感じた。
しかしーー随分と分厚い伊達眼鏡だと思う。
用心深いものだな……。




