放課後に……
今生きているこの世界は狭い。
……そう気が付いたのは一ヶ月ほど前、彼女に振られた瞬間だ。それまで広く感じていた世界は驚くほど狭かったということを僕は理解したのだ。
夕暮れの教室。僕は『ドグラ・マグラ』を読んでいた。夢野久作が創り出した不思議で混沌とした世界に僕は酔いしれていた。
彼女と僕をつないだのは本だった。そういえば、あの時初めて彼女と話したのも僕が本を読んでいたからだ。教室で本を読んでいると、彼女との会話が僕の頭の中で映写される。もう一ヶ月もたつのに僕は未だに彼女と過ごした夢物語のことを断ち切れていないのだ。いくら悟りを開いた気になっても、僕の心は決して満たされはしない。だから僕は高校生になった今でもこうして本を読み続けている。
人間は決して満たされることのない貪欲な生き物だ。得ても得てもさらに多くのモノを求めては他社を傷つけ、最期には自らも殺める。……だから求めはしない。もしこれから欲心に駆られたとしても僕はそれを抑える。
そんなことを僕は僕に浴びさせる。彼女を失ったことは僕自身を救済した。そうであることを願うばかりだ。
このようにして僕は生活している。来る日も来る日も僕は放課後には一人本を読む。そうして夢物語を他の物語で塗り替える。
しかし、今日はいつもとは違う。それはもう一人、僕の他に教室に居残っている人がいることだ。
(あれは確か……いや、誰だっけ?)
確かに見たことあるのかもしれないがどうにも名前を思い出すことができない。髪は肩まで伸ばしている女子だ。もちろんこの学校の制服を着ている。そして今、教室の席に着き、ずっとノートにペンを走らせていた。カリカリカリ。その音をひたすら響かせている。その音は僕にとって程よい雑音となり、読書が加速する。
何はともあれ、僕にとって彼女は僕の世界の深みをさらに深くしてくれている。ありがたい。
……しかし、彼女は一体誰だ?この教室にいるということは同じクラスであることは間違いないのだが、どうにも思い出せない。クラスメイトの名前をひとり一人覚えることはできていないが、顔は一通り把握していたはずなのだが……。ちょっと待て。彼女はこのクラスにいただろうか?初めに行われた自己紹介。真剣に聞いていたわけではなかったのだがここまで頭の中に出てこないことが果たしてあるのだろうか?
カリカリカリ。彼女は未だにペンを動かしている。ここまでくると不気味に感じる。もはや僕の意識は本の中にはなく、彼女に対する疑惑ばかりである。……ここで僕はあることに気が付いた。彼女は机の上にノートを広げているが、その他の教材を全く広げていない。彼女の机の上にはノートしかないのだ。普通、ノートを取るときには別に教材を隣に広げるのが一般的なのだが、彼女はただノートにかじりつき、ペンをとてつもない速度で滑らせる。……どう考えても彼女は異常だ。
本はすでに閉じてしまっている。眼中にもない。僕は今彼女をずっと見つめている。未だに彼女のことは分からない。しかし、ここまで来たらもう彼女はこのクラスには存在していないということも視野に入れるべきなのだろうか。今僕はある使命感に駆られてしまっている。そう、彼女は一体何者なのかを突き止める。それが僕の為すべきことだ。そのためにも彼女のことをもっとよく観察しなくてはならない。あいにく、彼女は一心不乱にノートを取っている。いくら僕が見つめても気が付くことはまずないだろう。カリカリカリカリ。音はさらに大きくなってゆく。速度もかなり上がっている。彼女は決して止めることもなく長い時間同じことを続けている。もう三十分以上は経っている……。
三十分以上も何も見ずに、ひたすらノートを取り続けることは可能なのだろうか?教科書を写すにしても、休まずにやり続けることはかなり厳しい。一度は顔を上げて深呼吸をする。それが人なのではないか?しかし彼女はそれをしない。ずっと、続けている。
顔を見ようとしても、顔が下がり続けているので確認することができない。僕はもう一時間も彼女を観察し、考察しているのに、彼女のことについて分かったことは一つもない。ただ何かがおかしい。彼女は人ではないのか?とうとうそんな非科学的な考えにたどり着いてしまった。ありえないはずなのに。ここはSF小説ではない。現実の世界だ。何事も何らかの理由がある。僕が彼女の顔も名前も思い出せないことも、彼女が休憩なしでひたすらノートを取り続けていることにも必ず理由がある。そしてそれは極めて単純なことであるはずなのだ。
……彼女は現実の住人ではない。単純だ。しかしありえない。
僕は完全に思考がループしていた。現実的な答えを考え、非科学的な答えにたどり着き、また考え直す。こうなってはもう、冷静な判断を下すことはかなわず、頭を抱えて時間を過ごすだけであった。その間もカリカリカリという音が教室の中に響き渡った。
夕日は完全に沈み、窓の外はほとんど何も見えないほど真っ暗であった。時刻は八時。もう下校時間を大幅に過ぎていた。悩んでいる間にかなり時間が経ったようだ。だが、彼女はまだ同じことを続けている。
(もう、帰らないと)そう思い、僕は彼女に近づく。すると、今まで聞こえなかった彼女の息づかいが聞こえるようになった。
「ハア、ハア、ハア」ペンを走らせながら、彼女は苦しそうな呼吸を繰り返している。この時、彼女は人であったことに気が付いた。同時になぜ彼女はこんなことをしているのか?という疑問が一つの疑問が解決した分さらに大きくなった。
「あの、もう下校時間を過ぎてるから、帰らないと」彼女は聞こえないのか僕の言葉に一切反応せずに、カリカリ鳴らしている。
「あの」そう言って彼女の肩に手を置く。すると彼女は体をぴくっと動かしてようやくペンを制止させた。そして、顔をゆっくりと上げ、僕の方に目をやった。目を潤ませ唇はカタカタと震えている。顔は汗ばんでおり、やはり今まで無理をしていたということがわかる。しかし、間近で彼女の顔を見ても彼女のことを思い出すことはできない。自己紹介をひとり一人思い返す。韓国アイドルグループが好きな子。書道をたしなんでいる子。ダンスを習っている子。多種多様なクラスメイト。しかし、その中に彼女はいない。やはり、彼女はこのクラスではない。
「……ああ。もうそんな時間なんですか……」彼女は一つため息を吐き、そう言った。
「うん……いつの間にか時間がかなり過ぎちゃったみたいだね……」当たり障りのない言葉を返す。そのたびに彼女のしていたことについて知りたいとますます思うようになった。会話をすると彼女は思ったよりも普通の人であった。
「じゃあ、そろそろ帰りましょうか」彼女は僕の方を向いてそう言いながら、机に広げていたノートをカバンに詰め込んだ。結局中を見ることはできなかった。そう心の中で嘆いていた時に彼女は僕の顔をじーっとのぞき込んできた。
「わっ!」僕は驚いて声を出した。そんな僕を見た彼女は笑顔になった。その顔には先ほどまでの異常さは全く無く、ただ単純にかわいいと思った。
不思議だ。このような気持ちを持つことがとても不思議でならない。あの日彼女から別れを告げられてからこの今日までの一か月間もう二度と僕の凍り付いた心が解かされていくことはないものだと思っていた。しかし、それがよく知りもしない今日初めて出会った謎の女子によって解かされている。今僕の目の前にいる彼女は一体?
「あの、一緒に帰りませんか?」気が付くと彼女は僕にそう聞いてきていた。続けて、
「もう帰らないとダメなんでしょう?」
「あ、ああ。そうだね。……分かったよ」彼女は頷き、僕の手を取る。僕はドキッとして彼女から顔を背ける。彼女は気にせずに教室の電気を消して僕と共に教室から出た。いつの間にか時刻は八時半になっていた。
■
人は皆、何かしらの弱点を持っている。いかなる人も誰にも言えない秘密がある。
人は皆、真に理解し合うことはできない。皆孤独なのだ。
暗い暗い道を僕らは歩き続ける。果たしてここがどこなのか分からない。
得体のしれない何かに導かれながら歩き続ける。
……そんな世界にいながらも僕は光を見出した。……
■
彼女は僕の手を握ったまま暗い校内を歩いている。僕はまたしても彼女は普通ではないのではないか?と思うようになっていた。しゃべり方などは普通の女子であったが、今、彼女が行っていることは決して普通の女子がとる行動ではない。異性である僕の手を握り、校内を歩くだなんて普通はやらない。僕はほとんど頭を下げて歩いていた。顔が燃えるように熱い。真っ暗闇の中で二人きりとはいえ、もし誰かに目撃されたらと考えると恥ずかしくて仕方がない。
夜の学校というものはシンプルに不気味なものだ。夜特有の音がシンシンと耳に降り注ぐ。コツコツ足音も。普段は意識しない小さな音の数々が存在感をアピールしている。時にはカサカサッという気色の悪い音が聞こえ、夏が近づいているのだということを僕に教えてくれる。彼女の手はとても暖かい。真っ暗闇の中で不安な心が彼女の体温を感じることで少なくなっている。おそらく、彼女もその理由で僕に一緒に帰ることを提案し、実行しているのだろう。……いやいや、そうだとしても手を果たして握るだろうか?一緒に帰るにしても手を握る必要はない。ただ、そばにいればいいのではないか?分からない。とにかく今置かれている状況が分からない。彼女は無言のままぐいぐい僕を引っ張ている。流されるままだ。
ところで、今僕らはどこに向かっているのだろうか?彼女は一緒に帰ろうと僕に言ったのだが、僕は彼女のことを全く知らないし、彼女も僕のことを知らないだろう。互いが知らない者同士。だが、駅辺りで解散すればいいだろう。しかし、そんな問題ではない。……今、どこにいるんだ?
僕らは互いに家に帰らなくてはならない。そのためには学校から出る必要がある。しかし、僕らは今正門方向とは全く違うところを歩いている。暗くても辺りの雰囲気からある程度、場所を把握することができるのだが、ここは僕の記憶の中の校内から該当するところがない。つまり、全く分からないところを僕らは歩いているのだ。
……彼女は今ここがどこなのかわかっているのだろうか?彼女が僕をここまで先導しているのだからわかっているはずだ。現に迷っている様子はなく、ズンズン歩いている。
「あの、今どこに向かっているの?」僕はたまらず聞いた。すると彼女は歩きながら、
「何処って……帰るべきところに決まっているじゃない」と返した。
“帰るべきところ”それは一体どういう意味だ?それはうちに決まっているが彼女が言うそれはぼくが思っているのとは違うような気がした。
「それって、いったいどこなの?」
「……」返答なし。彼女は僕の手を引いて歩き続ける。その力はだんだん強くなっているように感じた。次第に彼女に対し再び不信感そして恐怖心を感じた。
「それって……」
「黙って」抑揚のない声で彼女は僕を制する。僕は呆気にとられた。彼女はそんな僕を一瞥し、歩き続けた。僕はもう黙って彼女に身をゆだねるしかなかった。
■
世界は狭い。とても狭い。人類はそんな中で必死に広い場所を求めている。だが人類がその成果を得ることは不可能だ。永遠に狭い世界から抜け出すことなどできない。なのにどうして人類は生きるのだろうか?
人類は自分の足元を確認しそこないがちだ。常に周りしか目を配らず足元をすくわれてしまう。身の程をわきまえないのだ。……空しいね。
■
しばらく歩いた。かなり歩いた。彼女と手をつないでいる羞恥心も既に無かった。早く家に帰りたい。その思いしか今の僕にはない。このまま永遠にこの暗闇を歩き続けなくてはならないのか?
彼女のことについて再び考える。彼女は教室にいたときから不可解なことをしていた。そして彼女は僕と同じクラスではない。僕は彼女のことを知らない。なのに、彼女は僕のことを知っているかのように躊躇することなく僕を誘って今帰宅している。彼女は一体誰なのだろうか。先ほど彼女から黙れと言われ、僕は一度も彼女に話しかけていない。しかし、このままでいると僕は無事にすまないかもしれない。なぜなら、彼女は普通ではないからだ。ガタガタと体の震えを感じるがそのたびに彼女の手から伝わってくる熱によりそれが収まる。不安になっては安心し、また不安になる。繰り返し繰り返し、それが続く。
「君、名前はなんていうの?」僕はとうとう閉ざしていた口を開き、彼女に率直な質問をした。名前を聞いたら何かわかるのかもしれない。そう思ったからだ。彼女は足を止めた。止まってから足に膨大な疲労が爆発した。思えばもうずっと歩き続けている。そうなるのは当然だった。それは彼女も同じなようで早い呼吸をし、息を整えようとしている。未だに手はつないだままだが。彼女は呼吸を整え僕の方を見た。彼女の黒い瞳に僕は吸い込まれてゆくように感じた。彼女はそんな僕を見てまた笑った。そして僕もまた彼女に夢中になってしまう。まるで教室での出来事を再現しているようだ。彼女はフウと息を吐いて僕の手をゆっくりと離し、僕の頬をそっと撫でた。体が硬直する。一か月前にいた彼女と僕はここまで親密な接し方をしていなかった。手を握ることが最大のことだった。
しかし、彼女は僕と出会って間もないのにもかかわらず、僕に対し親密な行動をとってくる。これではまるで恋人同士のようだ。そう思って、抵抗を感じない僕の心があった。それに対して僕は何の疑念も抱かなかった。僕は彼女に恋してしまっているような状態にある。今日出会った彼女に。
…………。沈黙が続く。彼女と僕は互いに見合わせたまま。今いる場所がどこなのかは僕には分からない。ただ分かったこと。それは彼女にすべてをささげても惜しくはないと思ってしまっていることだ。
「……私はサトコ。あなたと会うのは今日で初めて」唐突に彼女は話し始めた。しばらくの沈黙からいきなり彼女の声が僕の耳に届き、僕は一瞬ビクッとした。
「さ、サトコ……会うのは今日で初めて……」僕は復唱した。会うのが初めて。そう彼女は言った。これでようやく彼女が同じクラスでないことが明らかになった。
「ここがどこだかわかりますか?」彼女は僕の胸に手を当てて聞いてきた。辺りを見渡してみる。一面真っ暗闇だが目が慣れてくるとうっすらと辺りにあるものが見えてきた。そして嗅覚も働いて、ここがどこだか分かった。
「ここは……図書室?」そう、このインクのにおいと古い紙や木のにおい。もしここが校内であるならここは間違いなく図書館であるはずだ。しかし、疑問がある。それは、今まで通ってきた道は僕が知らない場所だったからだ。僕は図書館には毎日通っている。だから分からないはずはなかった。いや、そもそも僕らは家に帰っていたのではないか。それなのに僕らは今未だに校舎から出ておらず、図書館にいるのか?
「……そうだね。正解です。ここは学校の図書館……。あなたが毎日、毎日通っている場所」
「!」驚きが隠せなかった。彼女は僕の習慣を知っている。会うのは今日が初めてのはずなのに。
「……驚いていますね。まあ、それは仕方のないことです。あなたは私のことを知らない。だから、あなたはここまで驚いている。……もし、私のことがわかったら、あなたはきっと納得するはずです。まあ、あなたが信じるかどうかはわかりませんが……。それにしても高校人遊学してからあなたは何冊の本を読んだんですかね。……あなたは入学してから何冊の本を読みましたか??」
いきなりの質問に僕は反応が遅れる。頭の中に質問内容を一周させ、理解したとたんに答えがどうしても出ないことに気が付いた。
「……。分からない」
「やっぱり。そうでしょうね。あなたはたくさんの本を読みました。入学してから一か月と半月が経過して、あなたの読んだ本の冊数は約五十八冊です」
五十八冊と聞いていまいち実感が湧かなかった。そもそも今まで読んできた本を僕は覚えてはいなかった。
「じゃあ、今日あなたが読んでいた本は何ですか?」
……今日読んでいた本。確か昨日から読み始めた。タイトルは……あれ?思い出せない。作者は…………。
「思い出せませんか?」
「…………」思い出せない。思い出せない。
「……あなたは今何が見えていますか?」
「…………」
「何を思っていますか?」
「……君は……一体……何者なんだ?……今まで姿も見えなかった君がいきなり今日、教室に現れて、僕をここに連れてきた。一体どこを通ってここに来たんだ?……ここは本当に図書館なのか?……」
抱えていた数々の想いを今彼女にぶちまけている。今日は本当に意味が分からない日だ。いきなり現れた少女に導かれ自分の知っている図書館かどうか分からない場所に連れてこられ、心も彼女に支配されそうになっている。
「……教えてくれ……僕は今どうなっている……」
「あなたは今、何も見えていないんです。彼女と別れてからあなたはすべてを閉ざしてしまった。毎日本を読んでいますが、あなたは本とは向き合っていません。彼女との思い出にすがっているだけです」
「彼女に……すがっている?」
「はい。……あなたと彼女をつないだのは本でした。あなたが本を読んでいたところに彼女は声を掛けました。……あなたにとって初めての……出来事」
彼女は僕しか知らないことをスラスラと述べていく。しかし、それに関して僕はもう何の疑問もなかった。彼女は僕の全てを知っている。
「あなたはうれしかった。初めて同じ趣味を持った人に出会えたことが。次第にあなたは恋に落ちていった」
次第に視野がぼやけてくる。涙が、涙が溢れていく。そして頬を伝う。あの日のことを思い返したのだ。彼女と出会って、付き合って、彼女に他に好きな人ができて別れを告げられたこと。別れの瞬間も単純なもので夜自分の部屋で谷崎潤一郎の『痴人の愛』を読んでいた時、ピロンという無機質な音が鳴った。スマホのフリーチャットの着信音だ。手に取って見てみると、彼女からのメッセージで、「私たち別れましょう」と書いてあった。
僕は唖然とした。長い時間スマホの画面を眺めていた。そのうちにスマホの画面は暗くなっていた。気が付いた僕は彼女に理由を聞いた。しばらくたった後、返事が来た。……他に好きな人ができたというのだった。
この時の僕はもう読んでいた本のこともこの先のことも見えなくなっていた。人生で初めて僕の理解者であり、恋人であった彼女は簡単にいなくなってしまった。たった二行の文で固く結ばれていたはずの関係が崩れ落ちてしまった。あの日から僕は何も見なくなった。毎日毎日本を手にとっては彼女の顔、しぐさ、会話などを思い返していた。
そんな日々を送ってきた僕だが今日は違った。今僕の目の前にいる少女がその原因だ。彼女は僕の今までの生活をすべて把握している。僕よりも僕のことを知っている。彼女は僕の涙を指で拭った。まるで親が子供をなだめるかのように。
そのあと彼女は僕の手を再び握り、奥の方へと足を運んだ。もはや彼女に対して不信感はなく、僕はしっかりとした足取りで彼女の後に足を運ぶ。図書館はかなり広く、一回りするにはかなりの時間がかかる。実際、毎日通っている僕もすべてを見尽くしているわけではなく、まだほんの一部分しか見て回ったことはない。彼女は迷うそぶりもなく奥へ奥へと進んでゆく。
■
この世の中に疑問を持ったことはありません。そんなことを言う人はおそらく、いないだろう。
誰もがこの世界に対して数々の疑問を抱いている。だから、僕たちは特定のモノに縋り付き、救済を求める。
そんなことしていない。と、言う人もいるけれど、そんなことはあり得ない。無意識にもすがっているのだ。
■
行きついた場所は小さな本棚の前だった。ほかの本棚は天井に届くほど高く丈夫な金属製のものだが、それはとても古びた木製の本棚。其の中には一冊だけノートが収まっていた。その一冊を彼女は手に取り、僕に手渡す。
僕はそれを受け取り、ゆっくりとページを開く。それは一人の女の子の物語だった。この世界に生まれ、両親の手で温かく育てられた少女。そのまま小学校に入学。絵本が大好きで、いつも本を読んでいた。委員会では毎年図書委員になり、より本と関わり、この楽しさを他の誰かにも知ってもらいたい。そんな思いで毎日委員会の雑務をこなしては独自の壁新聞などを作った。内容はお勧めの本。みんなはそれが不愉快に感じ彼女を疎外しだした。
長い年月が経ち、彼女は高校生になった……そこで物語が終わっている。
「あの、俺の続きはないの?」僕は彼女に聞く。明らかに不自然なラスト。今までは彼女の幼少期や児童期のことを細部まで書かれていたが彼女の高校生活に関しては、高校生になった、それだけなのだ。しかもその後、社会人になった少女いない。
「……これ、今日私があの教室で書いていたものです」そう言って彼女は例のノートを僕に手渡した。
ゴクリと唾を飲み込み、開く。彼女が一心不乱に書いていたもの。それは小説だった。文体から先ほど彼女が僕に見せた少女の物語と同じ作者であることが分かった。
内容はあの話の続き、高校生になった少女はそこで酷いいじめに遭ってしまう。今まで軽いいじめに遭っていたがそこまでひどくはなく、ただ仲間外れにされるだけであり、彼女もそこまで気にしていなかった。しかし、今回は一味も二味も違うものだった。とうとう彼女自身を直接傷つけるようになってしまったのだ。
……身も心もボロボロになった彼女は一人の異性に助けられる。彼はとても優しく、彼女をみんなから守ってくれた。しかし、ターゲットが変わり、今度は彼がいじめを受け、結果、自殺してしまった。
「…………。」なぜだろう?何かが引っかかる。僕は一体、何者なんだ?いや、何を馬鹿なことを、僕は僕だ。
話の最後には彼女はこの後退学し、ひっそりと余生を過ごした。……そこで話は終わり。ノートの最後のページには写真が貼ってある。そこにはサトコと……僕?がいた。
「?」僕は何が何だか分からない。すると彼女が僕の頬を両手で触れ、顔をじっと見た。彼女の眼は吸い込まれるような黒。しばらく、いや、本当はわずかな時間だったのかも知れない。しかし、そう錯覚するほど僕は彼女を見つめていた。彼女のことは今日初めて知った。だけど、なんだか懐かしくも感じる。図書室の隅っこ、ちょうど今いる辺りで泣いている彼女の姿が、映画の場面のように映像化し、僕の頭の中で再生される。
……ありがとう……。
■
いつの間にか家の前に立っていた。一瞬ぽかんとし、辺りを見渡す。そこは見慣れたいつもの風景があった。
家に帰ると親にこっぴどく怒られてしまった。それもそのはず、帰った時の時刻は十時を過ぎていた。説教が終わり、二階の自室に入る。部屋はぐちゃぐちゃと散らかっていた。
「……片付けないとな」そうつぶやき、早速床にあるものから片付けようと僕はゴミ袋を取りにリビングへUターンした。
完