自分が死ぬことで自分以外の全人類の命が救われるなら死ねる?
多数の命か自分一人の命か。
誰だって一度くらいは考えたことがあるんじゃないだろうか。
考えたことはなくてもこういう究極の選択みたいなのを耳にしたことがあるのではないだろうか。
中学の時、初めて俺は『トロッコ問題』に出くわした。
制御不能になったトロッコがあり、そのままにしておけば五人轢き殺される。そして、トロッコの進路を変更すれば変更した進路の先にいる一人が轢き殺される。
これに加えて一人の側が選択を与えられた人間にとって大事な人、つまりは家族だったり恋人だったり親友だったりするパターン。
それから、五人の側に殺してやりたいくらいに嫌いな奴が含まれるパターン。
これらを知ったのは極々普通のただ数としての違いがあるだけのトロッコ問題を受けたあとのことだけど、俺の考えはどんな条件が加わろうとも変わらなかった。
進路は変えない。
五人を轢き殺すことを俺は選んだ。
いや、少し違う。
俺は選ばないために選んだのだ。
進路を変えれば、一人を殺すことを選べば、それはどうしようもなく俺個人にかかる責任になってしまうから。
選ぶことには少なくない責任が伴うから。
だから、何もしないことを選ぶ。
見て見ぬ振りを通してなかったことにする。
そうすれば少なくとも表面上俺にかかる責任はないから。
勇敢にも進路を変える選択を取った奴がいた。
理由は五人よりも一人を犠牲にするべきだと思ったからというものだった。
もっと勇敢な奴はトロッコに自分を轢かせるなんてイカれた答えを出した。
そいつ曰く、一人轢けば多少は速度も落ちて逃げる時間を稼ぐことができるんじゃないかとのことだった。
どちらの答えも俺にとっては眩しくて素晴らしいものだと思った。
救った数とかの話をしているのではない。
選択を取ったこと、そこに至る過程の話をしている。
彼らの選択は救われる人たちのことを考えて取られた選択なのだ。
自分のことなんて二の次で命の危機に晒されている人を助けようとするその姿勢は誰が見てもきっと美しい。
対して俺はどうか。
責任、なんてそれっぽいことを言ってはいるが結局自分が全てだった。
命の価値とか、命の危機に晒されている人のこととか、そんなのは微塵も考えちゃいない。
この問題を受けて初めて俺は自分が本当に嫌な人間なんだと知った。
「白道真白樣。この度は人類を救っていただき、ありがとうございます」
「…………いえ、 まだ救われた訳ではないですから」
そんな俺が、今日、人類を救う。
きっかけは未来人の来訪だった。
俺には想像すらできない遠い遠い未来の先では、未来を予知するシステムと過去と今を往復することのできる装置が発明されたらしい。
過去で起きた出来事は時として未来に影響を与える。
そのため、過去に戻ることはよほどのことがない限りは禁止されていて、過去の生物との接触は死罪になってしまうらしい。
だから、今回の事件は異例中の異例。
未来で事件が起こった。
とある犯罪者が過去へと渡り、結果として未来人にとっての過去、つまりは現代に人類が滅ぶ可能性を作り上げてしまった。
もし、仮に現代で人類が滅べば未来の人類も連鎖的に滅んでしまう。
そして、それを防ぐための方法は『特定の人間が一人、特定の時間に自分の意思でその命を断つこと』なのだそうだ。
バタフライエフェクトだとかなんとか説明がされていたけれど正直俺には半分も理解できなかった。
ただ、俺がその特定の人間であるという説明だけは理解できた。
選ばれたのは俺だけではない。
トロッコ問題。
その勇敢な選択者である彼らも特定の人間だった。
トロッコ問題で進路を変えることを選んだ彼は、自分がいかに優れた人間であるかを説明し人間的な価値が最も劣る俺が死ぬべきだと強く提案した。
その通りだなと思った。
しかし、トロッコ問題で自分を犠牲にする選択を取った彼はそれを否定した。
そして、続けて自分が犠牲になることを提案した。
彼のことをそれほど詳しく知っている訳でもなかったけれど、彼らしいなと思った。
でも、彼らは二人とも死んでしまった。
人類を救うことなく、ただ無意味に。
自分が死ぬことを選んだ彼の両親はそれを許さなかった。
自分が死ぬことを選んだ彼の恋人はそれを許さなかった。
だから、彼が死ななくても良いように、俺ともう一人に頭を下げた。
俺が死ぬべきだと言った彼はそれを断った。
自らが死ぬと決めたのにそれを踏み躙るつもりかと両親と恋人を罵倒すらした。
そして、お前らが言っているのは人を殺すことと変わらないんだぞと締めくくった。
君がそれを言うの?と少し疑問には思ったけれど、たしかに言っていることに間違いはない。
俺はそう思った。
両親と恋人が俺を説得することはなかった。
ただ、心底傷ついて何も分からなくなってしまったような、そんな表情をしていた。
説得があれば応じるつもりだった。
なくても勝手に応じるつもりだった。
彼のことを想う両親と恋人の気持ちに心を動かされたとかそういうことではない。
単純に彼が死ねば、俺はその責任をこれから先一生負っていくのではないかと怖くなったのだ。
だから、すぐに折れてくれるとは思えなかったけれど説得するつもりでいた。
その翌日、俺が死ぬべきだと言った彼は行方不明になった。
そして一週間後、遺体となって発見された。
自分が死ぬことを選んだ彼の両親の家から発見された。
犯人は改めて説明するまでもなく彼の両親だった。
監禁して、死んでくれるようにと頼み込んで、拷問して、その果てに殺してしまったらしい。
自分が死ぬことを選んだ彼は酷く窶れた顔をしていた。
善意が思わぬ悪い結果を招く。
事象として、起こり得ることは分かっていたけれど、実際に起こったのを目の当たりにしたのは初めてだった。
世界は両親を責めた。
そして、両親の罪を償うという意味でも彼が死ぬのが当然だと誰かが言い始めた。
それはあっという間に広まった。
たぶん声高にそれをまるで正論のように叫んでいた彼らに自分が人を殺そうとしているという自覚はなかったのだと思う。
だって殺人に加担してるって意識がほんの少しでもあったのならそんなことは言えないはずだから。
彼の恋人が泣きながら俺に死んでくれと頼み込んできた。
きっと考えて考えに考え抜いて出した結論だったのだと思う。
俺にそれを断る理由はなかった。
たしかにその当時の彼が死ぬのなら、俺はほんの少しの責任も罪悪感も背負わずにすんだのだと思う。
けど、それ以上に、声高に人を殺す言葉を叫ぶ人々を見て、こうはなりたくないなと思ったから。
だから、彼の説得を試みた。
「…………本当に、人類は救わなければならないのかな?」
俺の説得を受けて彼は言った。
疲れた顔で。
窶れた顔で。
「……どうだろう?」
少し考えて、分からないから分からないなりに答えたら少し驚くような顔をして彼は曖昧に微笑んだ。
今思うに、あの答えはよくなかった。
嘘でも人類には救うだけの価値があると言うべきだった。
人類の存亡なんて心底どうでもいいと思っていた俺と本気で人類のことを考えていた彼とでは同じ物事でも見ている角度が違いすぎたのだと思う。
「……僕も、分からなくなった。でも……たぶん……こんな世界なら……」
俺がその先を聞くことはなかった。
その翌日から人類の存亡が決まる今日まで、彼はずっと行方不明だから。
とっくに死んでいるというのが世界の認識だ。
死体は見つかって居ないけれど、世界中から追われて見つからないということはきっとそうなのだろう。
そうして人類を救える唯一の可能性に俺はなった。
世界は対応に酷く困っているようだった。
彼のようになってしまえばいよいよ終わりだから。
きっと俺のためならどんな要求でも通ったのだと思う。
俺はただの一つの好意も受け取らなかった。
それらが全て嘘であることを知っていたから。
それらが全て責任の伴うものであることを知っていたから。
好意を受け取らなかったからと言って責め立てられるようなことはなかった。
彼の時と同じ轍を踏むつもりはないということなのだろう。
俺に死ぬ理由はなかった。
彼は恐らくすでに死んでいて。
だったら彼が死んでしまった場合に俺が背負うことになる彼の恋人に対しての責任なんてものはすでになくて。
俺が死んで人類は助かるわけだけど、助けたいと思える人は生憎俺には一人たりとも存在しない。
両親には死にたくないから死んでくれと頭を下げられた。
さすがは自分勝手な俺を産んだ両親だなと思った。
迷った。
というよりはどうでも良かった。
でも、俺は今日人類を救うために死ぬ。
「……真白樣」
「なんですか?」
未来人が俺に問う。
「……私は、貴方はきっと命を絶たないと思っていました」
「奇遇ですね。俺もです」
「きっと、人類を救うのは二人のうちのどちらかだと思っていました」
「そうですね。俺もそう思ってました」
「貴方は自分のこと以外に関心がないと思っていました」
「失礼ですね」
「すみません」
「いえ、ほんとのことですし別に良いんですけどね」
「他人に何を言われたところで気にもなりませんよね」
「…………よく分かってるんですね」
「……」
未来人は曖昧な笑みを浮かべる。
「……聞いてもいいですか?」
「何をです?」
「なぜ、貴方が死ぬのか」
「…………自分の為ですよ」
俺の答えに納得がいかなかったのか未来人は首を傾げる。
「……そろそろ時間じゃないですか?」
けど、それに答える義理は俺にはない。
「……そうですね。こちらを」
「ありがとうございます」
渡された一錠の薬。
これを飲めば眠るように死ねるらしい。
「……俺、考えてたんです」
わざわざ説明する義理はない。
でも、何となく言っておきたくなった。
「二人とも死んじゃったじゃないですか。俺なんかよりよっぽど真剣に人類のこと考えてたのに」
なぜ、そうなったのか。
「殺したのは、この世界の人間です」
直接的か間接的か。
それはともかく彼らを死に追い詰めたのはこの世界の人間だ。
なぜ、そうなったのか。
「貴方が余計なことを言わなかったらこうはならなかった」
「……それは……」
「別にその仇を討つとかそんなつもりはないんです。でも……」
彼らと深い仲ではなかった。
今だって大して興味があるわけでもない。
ただ、それでも……
「誰かを犠牲にしないと成り立たない未来なんて、いっそ滅んだ方がいいんじゃないですか?」
自分のことにしか関心が無くて。
自分のことにしか関心が持てなくて。
他人のことなんて心底どうでもいいとしか思えなかった。
ただ、それでも納得できなかったのだ。
見えない人類のことを本気で考えていた人が、見えてる誰かの気持ちも考えられない人達の為の犠牲になるなんて納得がいかなかった。
考えた。
ここで滅びを免れたとしてもきっと人類はまた同じような局面に差し掛かってまた同じように誰かを殺す。
そんなものに彼らが言ったような価値があるのか。
たぶんないのだ。
だから、彼らは救わず死んだ。
でも、本当にそれでいいのか。
人は本来誰よりもまず自分が大事な生き物なのではないだろうか。
そう考えると見捨てるのはなんだか違う気がした。
「……人類にとっての救いは、滅ぶその時までそれが来ることを知らないことなんだと思います」
だから、俺は死ぬべき時間の五分前に眠るように死んだ。