序章の序
コンビニを出ると、コオロギや鈴虫が騒がしく羽を震わせていた。
店内の眩しすぎる蛍光灯に目が慣れてしまったせいか、外はだいぶ暗くなったように感じた。
生暖かい空気にさらされて、疲れがどっと押し寄せてくる。
私は駐車場を抜けると、スーツの胸ポケットから煙草をとりだして火をつけた。
ここから自宅まで十五分ほど歩かねばならない。
肺の深くまで煙を押し込み、溜息と一緒に吐き出した。
吸い殻を携帯灰皿にねじ込む頃には、街灯がポツポツと明かりを灯し始めた。
歩きながら灰皿をカバンにしまい、ネクタイを緩める。
私の歩く一本道の果てを眺めながら歩いた。静かな夕暮れだ。
アブラゼミの暑苦しい叫び声はめっきり減り、やがて来る紅葉を物語っている。
コンビニで買った麦茶を口に含み、舌で弄んでから飲み込んだ。
酒屋の看板の下を過ぎゆき、いつも近道に利用している団地の公園に入ると、甲高い女の笑い声と共に五人の高校生を認めた。
二人の女はキノコのような低い椅子に座り、男達はその周りに立っている。
公園と言っても砂場とシーソーしかない小さなもので、家に帰るには彼らの真横を通らなくてはならない。
ガヤガヤとまとまりのとれない談笑は、彼らに近づくにつれ次第に意味を持つ音となった。
「そしたら高橋のやつ、授業中叫びだしてさ」髪を茶色く染めた男が言うと、その他男女は笑った。
くだらない。
くだらないけれど、
彼らを横目に、でも楽しそうだなと思った。
視線を私の足に蹴られる砂利へと移し、くだらない雑談で盛り上がる彼らを羨んだ。
ふと懐かしい匂いを嗅いだような感覚が私を襲った。
彼らが私の死角へと消えていき、少し歩いてベンチに腰をかけると、半ば無意識に煙草をくわえた。
両手を頭の後ろへやり、ベンチの背もたれに肩甲骨を押し付けて腰を伸ばす。
伸びをすると歩く気が失せてしまい、茜色に染まったかすみ雲を背景にチカチカと明滅する街灯をぼんやりと眺めた。
コオロギの音にぷーんと耳障りな羽音が交じるまでは、心地よく時間が過ぎていった。
(サイレントモードで飛行するか、吸血をやめるかしないと本当に駆逐されちまうぞ)
蚊で連想されたのか、懐かしい記憶が脳内で声に変わる。
さっきの茶髪の少年が自転車の後ろに女の子を乗せて走り去っていった。
私は学生時代、常にイラつき眉をしかめて過ごした。
ごみを漁り歩く狂犬のごとく、毎日争いごとを嗅ぎまわり街をうろついた。
ガラの悪そうな輩は私と目を合わせるなり、決まって喧嘩を吹っかけくる。
私にとって彼らを返り討ちにしてやることは、格好の小遣い稼ぎだった。
自分の切れた唇をアスファルトに沈むチンピラに見せつけ、治療費を彼らの財布からむしり取った。
私ににしつこく纏わりつく焦燥を振り払おうと、学校でもチンピラと喧嘩をした。
ただ溺れまいともがくだけの日々は、思い返せばいつもモノクロで再生された。
「タケちゃん?」不意に桃香の声がして私の世界は色を取り戻した。
「なにしてんの、こんなトコで」桃香が怪訝を浮かべた顔を私に近づける。
手には近所のスーパーのロゴが入った袋を持っている。
「あ、いやちょっと疲れちゃって」私は桃香の荷物を手に取り答えた。
「家あと少しなのに、もうちょっと頑張りなよ」桃香が苦笑する。
「ほら一緒に帰ろ」
ただのチンピラだった私に、ある程度条件の良い職場があり、ある程度…いや結構かわいい彼女がいるだなんて5年前の私なら夢にも思わなかっただろう。
生きてみるものだなとしみじみ思いながら、桃香の差し出す手を握り立ち上がった。
私を乗せて波打つ人生を進む船は、ある男と出会い大きく舵をきった。
彼と旅をして文明社会に戻ってきた私が変わったのだろうか、それともその間に世界が変わったのだろうか。
多分どっちも少し変わったのだ。
私と桃香の住む部屋は四階建てアパートの最上階にある。といっても無論四階なのだが。
鉄製の錆びれた螺旋階段を、桃香は駆け足でのぼっていく。
彼女のカンカンカンとリズムの取れた足音が、なんとなく私の足も早める。
気持ちの良かった足音は不協和音となり、夕闇を奏でた。
「なにニヤニヤしてんのよ」階段を上り切った桃香が鍵を取り出しながら訊く。
言われてみると確かに口角がひきつっている。多分桃香の走る姿がコミカルに映ったせいだ。
「だって桃香、妙に早いんだもん」
鼻息を荒げ、爽やかとは程遠い笑みを浮かべているであろう私をみて桃香は、変なのとだけ言いドアを引いた。