第14章 殺人鬼は沐浴を翻弄す
【前回のあらすじ】
バジ「前回……なにがありましたっけ? 姉様」
アルル「私たち、出番なかったからねぇ……」
「うーんー――」
ぴちょん、と水音が響く。
周囲を石で囲んだ泉の中――――二人の少女が、一糸まとわぬ姿で水浴びをしていた。
いや、もう水浴びと言っていいレベルではない。
肩までとっぷりと浸かり、全身を手指で柔らかくこする姿は、すっかり入浴のそれだ。
ぐぐ、と背伸びをしながら、バジは小さく唸った。
「姉様って、本当にお人好しというか、んー……端的に言えばバカですよね」
「え、えぇっ?」
不意に言われた『バカ』の一言に、アルルは思わずたじろいだ。
勢いよく動いた所為で水は跳ね、頭から冷水を浴びる羽目になった。
髪伝いに滴ってくる雫が、ぷかりと浮かぶ双丘に小さく落ちていく。
「ぷはっ。えー……な、なんで私、いきなり罵倒されてんのかな? バジ?」
「いやいや、バカにしてるんじゃないですよ。バカだなー、って言ってるんです」
「……二つの違いが分かんないんだけど」
「いやだって、姉様を分かりやすく表現しようと思ったら、バカだと思うんですよ」
「……バジ」
朗々と話すバジに対し、アルルはしょんぼりと肩を落としていた。
大きく膨らんだ胸が半ばまで水に浸かり、顎のすぐ下に水溜まりができる。
頬を流れてきた水が落ちる度、谷間の小さな泉に波紋が広がっていった。
「…………バジ、ごめん、ね。やっぱり、私の所為でずっと――」
「あー、いえ。欠陥品の魔獣に生まれたことは、もう整理をつけてます。あたしは、姉様を恨んじゃいません。今はただただ、姉様がバカだと言っているんです」
「……恨まれてないのにバカバカ連呼される方がよっぽど辛いんだけど……」
「だって、バカじゃないですか」
ぱしゃんっ、と水音を立てて、バジはその場に立ち上がった。
微かな膨らみが、浮き出た肋骨が、アルルの眼前に展開される。
アルルは、それを困ったように上目遣いで見上げていた。
「うぅぅ……ち、ちなみにどの辺が? う、ま、まさか、そういうのを訊く時点で私っておバカさん……?」
「頭のいい悪いじゃないんですよ。なんかこう、もうちょっと感覚的にバカなんです」
「分かんない……うぅ、バカだから分かんないの……?」
「あー、多分そうだと思います。っていうか、アルル姉様は自分で思わないんですか?」
「思わない……バカだから思えないのかも……」
「ちょ、沈まないでくださいよ! その、バカだっていうのは、あのバカルキのことです」
「……ルキ? あの子が、どうかしたの?」
「どうかしたのっていうか、どうかしちゃってるでしょ、あのバカは」
言われて、アルルはルキのことを思い浮かべる。
人殺し。
殺人鬼。
自分を殺そうとしている。
自分を狙ってくる魔獣や神族をも殺そうとしている。
寧ろ殺さないとすごくイライラして口数が多くなる。
……自ら思い出しておきながら、嫌な汗が額を伝った。
むにぃ、と胸に指を埋めながら、アルルは乾いた笑みを浮かべた。
「……ま、まぁ、それについては否定しないけど……っていうかできないけど」
「でしょう? そんなバカを、飽きも懲りもせずに連れ歩いてる姉様は、バカって呼ばれて然るべきお人好しだって、あたしはそう言ってんですよ」
「あはは、辛辣だなぁ…………そう言うバジだって、ルキとは結構仲いいじゃん」
「は」
ぴたっ、と一時停止するバジ。
なだらかな肢体を、水が這うように滴っていく。
こそばゆいその感覚にさえ気づけないほど、バジは呆然としていた。そして――
「はぁああああああああああああああああああああああああああっ!!?!??!?!」
それは、さながら爆発だった。
咄嗟に、アルルは耳を塞ぐ。
が、防ぎ切れなかった大声は鼓膜を無暗に揺らし、頭をくらくらさせる。
いや、寧ろ今のは、悲鳴に近かった。
一週間前、ビヴリ=メサイエリに粉々に潰された時だって、こんな声は上げていない。
すっかり元通りになった、玉のような肌、細く頼りない手足。
それをめちゃくちゃに振り回しながら、バジは狂ったように叫んでいた。
「ば、バジ?」
「姉様っ! 気を確かに持ってちゃんと現実を見てくださいそれとも姉様まで頭トチ狂いましたかっ⁉」
動揺しているのか、何故かアルルの胸を摑んで、前後に揺らしまくるバジ。
が、アルルとしては胸が持ち上がるばかりで、身体はまるでぶれていない。
ナチュラルに胸へ手を伸ばしてくる点では、ある意味ルキより性質が悪いのだが……、と苦笑いを浮かべるばかりだった。
「だ、だって、バジはルキと話す時、すごくフランクだし、なんか話しやすそうだし」
「気を遣う必要がないだけですあんなバカに遣う気は微塵もありませんっ!」
「大抵、バジの方からルキに話しかけてるじゃん。道中、無言になっちゃった時とか」
「姉様が退屈でないよう音楽代わりに使ってるだけですっ!」
「愛称で呼んでるしさ。なんか、兄妹みたいだよ?」
「バカルキはバカルキだからバカルキと呼んでいるだけです愛称なんかじゃありませんっ‼」
必死になって首を振りかぶるバジ。
そうやって一生懸命否定しているところが、なんだか可愛らしくて――――アルルは、バジをそっと抱き寄せ、その小さな頭を胸で包み込んだ。
「ななななななななななぁっ⁉」
抵抗なく埋もれていく指。温かな肌。吸い付くような質感。仄かに香る柔らかな匂い。
今にも全身をくるんでしまいそうな感覚に、バジの混乱はいよいよ頂点に達した。
「なっ、なななななななんですかぁっ⁉ いいいいいいいきなりなにをををををっ⁉」
「んー? えへへ。私にも、妹がいたらこんな感じなのかなぁ、って」
「い、妹、ですか? 姉様の妹になら、喜んでなりますよっ!」
「じゃあ、ルキは私の弟で、バジのお兄ちゃんかな?」
「あのバカと血縁になるくらいなら体内の血を全部抜きます」
「厳しいなぁ。あははは…………」
「……? 姉様……?」
笑みを浮かべるアルルに、しかし、バジは違和感を覚えた。
胸の谷間から、ちょこん、と顎を覗かせ、小さく首を傾げてみせる。
「……なにか、あったんですか? なんか、寂しそう、でしたけど」
「うん…………ちょっとね。思い出してた。私がまだ【神無界】にいた頃……いたんだ。私にも。弟みたいな子が」
「それは……人間、じゃぁない、ですよね?」
「うん。おんなじ神族。まぁ私たちって、自然発生したようなものだから、血縁なんてないんだけどね」
「弟さん、ですか。……あ、で、でも」
「……可愛かったよ。無邪気に懐いてきちゃって。キラキラした目で、私のこと見てきて。……あはは、多分もう、あんな目は向けてくれないけどね」
「……その、すみません、姉様。踏み入ったことを」
「ううん。私が勝手に話し始めたんだし。それに、この道を決めたのは、私自身だから」
「姉様……!」
「あはは。もう、眩しいなぁ。そんな目で見ないで――」
「――――殺す、死ね」
酷く小さな声だった。
だが、確実な殺意のこもった、本気の一言だった。
「――――っ‼」
アルルが動いたのは、思考によるものではない。脊髄反射、単なる生存本能。
咄嗟にアルルは、バジを突き放し、空いた両腕を頭の上で交差させた。
一瞬後、腕の重なった点に、ずきんっ、と鋭い痛みが走った。
「っ……!」
「……チィッ」
短い舌打ち。耳にこびりつくくらい聞き慣れたそれに、アルルはそっと目を開ける。
「……ル、キ……!」
案の定、襲い掛かってきたのはルキだった。
【邪血暴虐】を突き出したルキは、アルルの腕を支点にして、垂直に逆立ちしている。
ナイフを持つ腕だけが支えとなり、彼の全身を屹立させていた。
「つまんねぇ」
ばしゃんっ、と音を立てて、ルキは背中から落水する。
ずぶ濡れになりながらも立ち上がると、痛そうに腕を軽く振った。
「重力の力まで借りたっていうのに、相変わらずの無傷か。ったく、どんな身体してやがんだよ、一体――」
「~~~~~~~ルぅキぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ‼」
――――一気に、泉の温度が上昇した。
「熱っ⁉ ちょ、姉様落ち着」
「ルキぃっ! 人が、人がお風呂入ってる時は、覗くなっていうのが分かんないのかなぁああああああああああああああああああああああああっ⁉」
「……お前、人じゃねぇだろ。神だろ?」
「屁理屈を捏ねるなぁあああああああああああああああああああああああああああっ‼」
怒り心頭に発したアルルは、全身から凄まじい熱を放っていた。
周囲は一瞬にして湯気に包まれ、噎ぶほどに湿度が高くなる。
身体を浸けている泉も、沸騰せんばかりに水温が上がり、じくじくと肌が爛れるように痛んだ。
「今日という今日はぁ…………きっついお仕置きしなくちゃいけないみたいだねぇっ! ルぅキぃいいいいいいいいい――」
「…………あ、熱、い…………きゅう――――」
ばたっ。
背後で、地面を叩く音がした。
アルルは反射的に、湯を撥ねさせながら後ろを向く。
そこには、全身を真っ赤に茹だらせて、目を回しているバジの姿があった。
「ば、バジぃっ⁉ ちょ、大丈夫バジっ⁉」
「うぅ…………熱、い、です……姉、様ぁ……」
「うわわわわわごごごごごごごめんっ! す、すぐに上がって――――ルキっ! 水場探して、冷たい水を持ってきてっ!」
「はぁ? なんで俺が。お前がバカみたいに水温を――」
「は・や・く・し・な・さ・いっ‼」
「…………りょーかい」
般若の如き顔で、ドスの利いた低い声でアルルが言う。
逆らうことさえ面倒だったルキは、痛いほどに張り付く服を引きずりながら、渋々森の奥へと消えていった。
【次回予告】
ルバルドの言っていた『狼煙』が…………!?