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 いまだに言えない言葉が、ある。



 エリーシアは子どもの泣き声に、はっと目を覚ました。

 生まれて間もない子どもの世話に疲れがたまっていたようで、慌ただしく自分の食事をした後、そのままテーブルに突っ伏して眠っていたらしい。

 子ども部屋の方からは火のついたような泣き声が聞こえて来る。

 エリーシアは慌てて立ち上がると、子ども部屋へと駆けこんだ。

「ああ、どうしたの、お腹が空いた?」

顔を真っ赤にして泣き続ける子どもを抱き上げ、背中をかるく叩いてやっても、いくらか声は小さくなったものの泣きやむ事はない。

 時間から考えて、お乳かしらねとエリーシアは思った。

 部屋の隅にあるソファに腰掛けて、子どもに乳を含ませてみる。

 そうすると勢いよく飲み始めるから、やはりお腹が空いて泣いていたようだった。

 一生懸命飲んだあとは、眠くなったのか乳を含んだままことりと目を閉じてしまう。とんとんと軽く背中を叩いてやり……また小さな寝台に寝かせるのではなく、腕に抱いたままエリーシアはソファに凭れかかった。

 

 ローランドと結婚して子どもが生まれて……毎日が目まぐるしく過ぎてゆく。

 初めての子育てに戸惑いながらも、周りの人たちに助けられて何とかやってきた。

 母さんが生きていたら色々教えてくれたんでしょうねと、エリーシアは母親の顔を思い浮かべた。

 思い出の中の母は、いつも穏やかな笑顔を浮かべている。

 とても小柄な母と大柄な父が並ぶと、まるで大人と子どもくらいの違いがあったものだ。

 父は、見かけほど怖くもなく乱暴でもない人だったが、それをわかってもらうのはとても難しかったから、母は色々苦労もしたのではないかと思う。

 街の“領主”という立場に父はいたので、どうしても人づきあいは避けて通れないからだ。

 けれど困った事があっても、母は仕方ないわねとため息をつきながら笑って、まあ大丈夫よ、なんとかなるでしょうと言うのだ。

 何ともお気楽な母の様子に、傍で聞いているエリーシアの方が大丈夫かと心配したものだ。

 こうして初めての子育てに、エリーシアが不安に思っていても、母なら大丈夫よとあっさりと笑いながら言うのだろう。その様子が目に浮かぶようで、思わず苦笑をこぼしてしまった。

 でもね、とエリーシアは浮かんだ笑みを消してそっと腕の中の子どもを抱きしめる。

 あの約束は、するべきじゃあ、なかったのよ。


 母は小さな神殿で、巫女をつとめていた。規模は小さくとも末神さまのご神体をまつっているその神殿は、訪れる人も少ないところだった。

 神官も居らず、巫女は母のみ。

 雑事の手伝いを数人に頼んでいた他は、すべてを母が整えていた。

 今思えば、末神様のご神体を祭るためだけの神殿であったのだろう。

 小さな頃、神殿はエリーシアを含めた兄妹たちの、格好の遊び場だった。 使われていない部屋でかくれんぼをしたり、雨の日は回廊を走って遊んだりもした。あまりに度が過ぎればともかく、少々のことであれば母は笑って、賑やかなのを喜んでくれるかしらね、などと言っていた。

 誰が喜ぶのか、その時のエリーシアにはわからず、母に尋ねた。

 母は勿論末神さまが喜ばれるわと答えたので、不思議に思った。

自分たちの声なんかが、末神様に聞こえているのだろうか。

 どうでしょうね、でも楽しそうな声を聞けば、早く目を覚まされるかもしれないわね。

 目を覚ます?末神さまは眠ってるの?

 神様は眠らないものとエリーシアは思っていたから、驚いて母に尋ねると、母はそうねと首を傾げた。

 とても疲れて、それで今はお休みになっているの。いつか……いつかは起きてこられるはずだけど、さていつになることでしょうね。


 そう言って笑う母の顔を、今でもよく覚えている。

 寂しそうな、遠い何かに願うような、不思議な表情だったから、だ。


 神殿の中で、エリーシアが入れない所は殆どなかった。

 しかしその中でどうしても入れない場所があった。

 それは末神さまのご神体を収めている部屋だった。

 入ろうとしても、見えない何かに阻まれて、一歩も足を踏み入れる事が出来なかった。

 母や上の兄は入れるのに、エリーシアと下の兄は入れない。

 それが不満で、上の兄に、ずるいと言った事がある。

 なんで兄さんと母さんだけが入れて、わたしは駄目なのと駄々をこねた。

 母は困ったように笑って、ただ、ごめんなさいねとエリーシアの頭を撫でた。

 兄もとても困った顔をしてエリーシアを見た。

 今ならわかる。母は兄にこそ、そう言いたかったのかもしれないと。


 あれはいつの事だっただろう。夜遅くの事だった。エリーシアは一度眠ったものの、目が覚めてしまった。眠ろうとしてもなかなか寝付けない。仕方ないので水でも飲んでこようとした時だった。

 話声が聞こえて近寄ってみると、扉の隙間から灯りが零れていた。耳を澄ませると、両親と兄たちの声が聞こえて来る。

 こんな夜遅くに、一体何を話しているんだろう。

 疑問に思ったエリーシアの耳に飛び込んできたのは、信じられないような言葉だった。


 その後のエリーシアの記憶は曖昧だ。足音を立てないように部屋に戻って毛布を頭からかぶり、ぎゅっと目を閉じていた。そうしているうちにいつの間にか眠ってしまった。

 起きだして顔を洗い、食卓につく。両親も兄たちもいつもと全く同じで、夕べ聞いた事がまるで夢でも見ていたように思えた。

 けれど……上の兄はそれから間もなく王都の神殿で勉強することになり、家を離れた。下の兄もどこか不機嫌そうな顔で考え込む事が多くなった。

 今までと同じではない家族の様子に、エリーシアは戸惑ったが何も言う事は出来なかった。

 あの時、エリーシアはこっそりと部屋に戻ったので、何も知らない事になっている。両親が兄たちにだけ話そうとしていた事は、つまりエリーシアには知らせるつもりがなかったという事だ。

 何も知らないはずのエリーシアに言えるのは、せいぜい、最近下の兄が塞ぎこんでいるようだと母に相談するくらいのものだった。

 母は、遠くを見るような目をして、色々考える事があるんでしょうねと呟き、ごめんなさいねと言った。

 


 あれから何年も時間は過ぎて、神殿の仕事は上の兄が引き継ぎ、領主の仕事は下の兄が継いだ。エリーシアは結婚し、子どもが生まれた。

 何年たっても、どれだけ時間が過ぎても。

 エリーシアの心の中には、刺さって抜けない棘がある。

 知ってさえいれば、エリーシアはご神体のある部屋に入りたいなどと言わなかった。

 兄さんはずるいと言う事もなかった。

 それを今謝りたくても、何も知らないはずのエリーシアは謝ることすらできない。

 何より……上の兄がそんなことを言うはずないと思いながらも、“お前には徴がなくてよかったじゃないか”とそう言われてしまうのが怖くて。

 神殿の仕事を継いだ兄は、母によく似た優しげな顔で、淡々と日々を過ごしているように見える。

 自分の目からは、荷を背負わせた母を恨んでいるのかどうか、わからなかった。

 あの時、困らせてごめんなさい。

 そうどんなに言いたくとも、それはエリーシアにはけして口に出来ない言葉だった。

 上の兄が母から重荷を継いで、下の兄はそれを知っている。

 知らないふりをし続けるしかないエリーシアは、兄たちが知る自分のまま……朗らかで小さな事では悩まない自分で居るしかなかった。

 母から兄に引き継がれたものの事、そしてそれがもたらした胸の痛みは、エリーシアがこれからも抱えていくしかない。

 それが、何も背負わないエリーシアが出来る、せめてものことだった。


 腕の中の子どもは、やすらかな寝息をたてて眠っている。

 徴を引き継ぐ誰かが……少しでも重荷に思わなくて済むように。

 そして“約束”がどうか早く果たされますように。

 そう、エリーシアは願っているのだった。




                            END



                

 


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